見出し画像

平等ではない世界で生きることとそれでも世界平和は可能だと信じること

ほんの少し前まで、そう90年代のバブル経済が崩壊するまで一億総中流なんて言葉が使われた。要は日本のほとんどの人が中流で、特別な上流も下流もない、と言った意識が多くの日本人にあったと思う。子ども食堂の出現は、私にはかなり衝撃だった。日本にも貧富の差が広がったという現実を見た気がしたからだ。

学生の頃に私は大阪の釜ヶ崎と呼ばれる地域で長期休暇になると住み込んで手伝ったりしていた。夜回りと言って、おにぎりとお味噌汁を入れたポットを持って行き、アオカン(路上生活者のことをそんな風に呼んでいました)している人たちを訪ねて、困っていることはないか、などを聞いたりしていた。Kポップや韓流なんて言葉が存在しなかった時代、戦後を生き抜いた在日コリアン一世のオモニ(お母さん)たちの話しを聞き、その狭間で生きる3世の子たちの学童保育の指導員をしたりもした。こんな字面だけを見ると、すごい奉仕精神の高い高尚な精神の持ち主をアピールしているようで気持ち悪いが、実際はただ居心地が良くて、体力使って動いて、終わったら飲んで笑って、ああだこうだと夢や理想を語って自己満足を満たしていた気がする。そしてその裏には、自分が恵まれた環境で育ってきたことへの罪悪感が大きくあった。

私が18歳まで育った街は大阪への通勤圏内で、それでいて自然の残る典型的なベッドタウン。その新興住宅地に住めるだけの経済状況の家庭が周りに多かった。豪邸ではないが級友の家は一軒家で自分の部屋を持っている子がほとんどだった。

小学生の時に、クラスメイトの1人がてんとう虫の形のレコードプレーヤーを持っているといい、家に遊びに行って見せてもらったことがあった。翌日、仲の良い友だちにその話しをしたところ、声を潜めてA子ちゃんちはセイカツホゴもらってるから、本当はそんな贅沢品とか持ってたらあかんねんってお母さんが言ってた、と言われた。
セイカツホゴって何?と聞くと、お金に困った人がもらうやつ、と言われ、絶対他の人に言うたらあかんで、と釘を刺された。そう声をひそめて話す彼女の家は裏山が自分の家のもの、と言って参観の時にとても上品なお母さんがやってきていた。話しの内容と彼女のお母さんのイメージが結びつかず、なんかすごく嫌なザラザラした記憶として残っている。
また、別の時にはB子ちゃんちはリコンしたから、お父さんとお母さんのところを行ったり来たりしてんねんて、と耳打ちされたこともあった。

いろんな女の子から、絶対誰にも言うたらあかんで、と言う枕詞の元、お母さんが言うてたけど、に続き、お家事情を話す子がいた。どの子も大きな一軒家に住んで、専業主婦のお母さんが遊びにいくとお菓子を持ってもてなしてくれる”普通の”子たちだった。

始めて西成のドヤ街(日雇い労働者の街)に入った時、自分の育った街との違いに衝撃を感じ、全く知らずに育った自分を恥ずかしく感じた。

この世界は不公平だ。持てるものと持たざるものがいて、本人の努力が報われる保証なんてどこにもない。むしろ持てる者がもっと富めるように社会はなりがちだ。

でも、この事実を前に私には選択肢が2つある。不公平だと嘆いて悲しみ不貞腐れるか、不公平なこの世界で私ができることを探すか。私は後者を選ぼう。ほんの少しでも光がある方を私は選びたい。

たくさんのボランティアと仕事の経験から、私は日本とフィリピンの最底辺から超上流階級まで見てきた。私が恵まれた環境で育ったことに対して罪悪感を感じるのはお門違いということもよくわかった。そして、今とこれからしていくことは、その恵まれた環境で得たものを少しでも社会に還元していくことが私のできることだと考えている。世界平和は私の心の中にある平和を少し、隣の人に分けることだと気付いたからだ。

私の手は小さくて短い。でも幸いなことにどうやら私は人と人のご縁を繋ぐ場面に遭遇しやすい使命を持って存在しているようだ。だから、私の手が地球を丸抱えするような大きさを持っていなくても、手を繋ぐ人が私の先にいればいつか丸っとこの世界を包めると信じている。真摯という漢字が好きだ。手の上に幸せが丸っと載っている。真摯に動けば必ず叶う、それが今の心境。


世界平和は可能と信じてます💖