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【掌編】衣南かのん「あめのひと。」

 好きになったひとはとても準備のいいひとだったから、あたしは雨の日が大好きだった。

 バイトに行く前の道すがら、曇り空を見ると頬が緩む。
 小さなカフェのバイトが終わるのはいつも22時過ぎ。スマホに映る今日のこれからの天気を見て、あたしの気分はますます上がった。どうやらこの後は、夜までずっと雨予報らしい。

 何食わぬ顔でバイトをして、クローズ作業も全て終えた頃には、外はもうしとしとと静かな夜の雨が降っていた。
「……お前、また傘持ってこなかったの?」
 唯一同じ方向に帰る秋永さんが、呆れたように聞いてくる。
 きた、と思いながらあたしは、「へへ」と笑ってみせた。
「そうなんです、天気予報見てなくて」
「見ろよ、それでなくても今日は天気悪かっただろ」
「あたし、晴れ女なんですけどねー」
「実績見たことねえぞ、それ」
 とぼけた言葉で応じれば、秋永さんはいつも「仕方ねえなぁ」と笑って折り畳み傘にしては大きなむらさき色の傘を私に差し掛けてくれる。
 ずるい手段だとわかっていても、彼の傘に入って、彼の隣を歩くことができる。その幸せを、見逃すことなんてできなかった。
 それに、あたし、知ってたから。
 いつも傘を差してくれる秋永さんの、あたしと並ぶ反対側の肩はいつだってわずかに濡れてたこと。
 あたしの肩と、同じように。

✳︎

「うわぁ、雨」
 残業を終えて会社を出るなり降り始めた雨に、うんざりとした声が漏れる。
 天気予報では一日晴れのはずだったのに、どうにも最近信用ならない。
 今日はワイドパンツなんて履いてるから、気分はさらに最悪だ。帰ったらすぐ洗って干さないと、裾に雨染みができてしまう。
 ああ、うんざり。パンプスだって、鞄だって本革だから濡らしたくないのに。
 一人がギリギリ収まる程度の折り畳み傘の下で、小さくため息をつく。
 最悪だ。雨の日は、何もいいことがない。
 気圧のせいで頭は痛くなるし、どうやら急な雨でダイヤの乱れも出てるらしい。ただでさえ遅い帰りがさらに遅くなるとわかって、どっと疲れが増した。


 そのとき。


 視界を、むらさき色の大きな傘が通り過ぎていったーー気が、した。
(え?)
 振り返った頃にはもう、雑踏の中にむらさき色ごと消えてしまっていて。
(……何反応してるんだろ、あたし)
 自分に苦笑いをこぼしながら、足を踏み出した。

 秋永さんとは、ほんの少しだけ付き合った。
 だけど、それだけ。
 秋永さんは大学の卒業と同時にバイトも卒業して、
 あたしもその翌年には同じように大学もバイトも卒業した。
 大人でも子どもでもなかった二人の、ありふれた、たった一瞬の恋。
 あたし達の関係はそれだけでしかなかった。
 それだけだった、のに。

(……バカだな、何年前だと思ってるの)
 恋心はとうにどこかの彼方へ行った。
 彼だってもう、同じ傘を持ってなんていないだろう。
 それなのに、どうしてこんなに胸が詰まるのか。
(……ばかだな)

 お互い片方だけ濡れていた肩とか、視界に広がるむらさき色とか、並んで歩く足元から立ち上るような湿気を鬱陶しいと笑いあったこととか。
 そんなことがいつまでも、いつまでも消えなくて。
(雨の日なんて、最悪なのに)
 あたしはいつまで経っても、嫌いになれない。
 あたしが好きになったひとはとても準備がよくて、優しくて、雨の日を一気に幸せな色に塗り替えてくれるーーそういう人だったから。

 あの日と同じ静かな夜の雨が降る中、ひとりぼっちの傘の下で。
 あたしはその日、なんでかほんの少しだけ、泣いていた。

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