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小野寺ひかり『しあわせな結婚』

「なんだ、俺、中島さんに同情されてたんですね」
同僚の園田は照れくさそうに笑う。
“同情”の言葉の響きにヒロコは、思わずごめんと口をついて出た。
「——良かったら、俺たち、結婚しませんか」

御茶ノ水の古いビルの一角にヒロコの勤め先がある。地下一階の飲食店は入れ替わりも多く、コロナ禍のあおりをうけて長期休業中だ。中小企業のオフィス多数ある8階建て。到着時にガクンと足元に響くエレベーターを降りると、かつて学生の頃に教室で味わった孤独と同じ重さがヒロコにのしかかる。
朝の挨拶は無視されるけどしないといけない社風、とヒロコより2歳年上での女性社員が教えてくれた。聞き返せずに無言でいると、おかしいよね、でも仕方ないのと困った笑みを浮かべていた。彼女も去年転職してしまったが、社員の入れ替わりも多い社風だ。

選んだ職場のせいなのか、それともヒロコ自身の問題なのか。学生から社会人へと「新規まき直し」のチャンスはあったはずが、気がつくと居心地の悪さは学生時代と同質か、それよりも悪化しているとヒロコはひしひしと感じていた。
「中島くん、来客なのでお茶を」
「はい、ただいま」
社長の声に従ってヒロコは立ち上がる。
「今来てる若手の子は独身だそうだよ」
「はあ。用意いたしますね」
「うん」
どこかため息交じりの社長をおいて、にこぽこぽとお茶をいれ始める。客人もマスクを外しているのか、会議室から話し声が伝え漏れてきた。
「彼女はいるのかね、きみ女性は年上がいいぞ」
「は、仕事が忙しくてしばらくは」
今度はヒロコがため息をつく番だった。熱い緑茶と茶菓子に、ふと、これはコロナ禍での会食にあたるのかと疑問がかすめる。ヒロコは助成金で購入されたパソコンの山が倉庫に積まれた状況を思い出して、思考するのを止めた。ここは時代遅れの場所。

先日も社内では営業部の園田のキャバクラ通いが話題になっていた。発端は部長の目撃談だった。社員のプライベートなんだから、と誰も制するものはなく、地味な園田のキャラクターも相まって、男性陣は盛大に反応した。しかも部長の談によれば、園田は薄給を貢ぎに貢いで、50万円のわずかな貯金も底をついたらしい。それでも路上で「愛している」と告白したそうだ。すると女性は二度と店に来るなとばっさり切り捨てられていたという。
「50万円もつぎこんで!?」
「フラれたの~!」
「ご時世もあったもんじゃないよね」
事実かどうかはともかくずいぶんな目撃談に、社内の女性陣もゴシップに飛びついた。あの園田が、と前置詞をつけて。

そんなことになっているとはつゆ知らず、営業先から戻った当の園田は、一同の注目を浴びた。真偽を問われると、はあ、肯定とも否定ともつかない返事をする。それが全員の爆笑を誘った。何が面白いかサッパリだとヒロコは思ったが、さすがに呆けた顏でいるわけにもいかないと周りに合わせ、マスク越しぼんやりと口元をゆるませた。隣のデスクでは佳純が、半ば涙を浮かべながらひーひー言っていた。周囲と同じように反応できる彼女が少し妬ましく思ったものだ。
「ねー、ひどいよね。中島さん」
「ええ、ほんと」
佳純は、はっきりと潮目を見極める。今も、笑いの波が引く直前を見計らって嘲笑の輪から抜けだした。
「モテないのにかわいそー」
佳純の言葉がヒロコに突き刺さる。カワイソー、なのか。一瞬ではあるがヒロコはまるで自分のことを言われたような気がしていた。そう悟られないように、マスクの鼻の位置を直す。
「園田さんモテナイの?」
「え?モテるんですか?知らないですけど」
「はあ、背が高いからつい」
へえ、と佳純の園田に向けられていた視線が、ヒロコに向いた。何を期待されているのかは明白だ。佳純はわざと意地悪そうな瞳を浮かべて、ヒロコをじっと見つめる。
「あ、え、や、そんなんじゃなくて」
「ふうん。私、園田さんの連絡先知ってますよ」
佳純は自然と私用のスマホを操作し始めると、声をワントーン下げた。そばにいるヒロコにしか聞こえない囁きだ。どこでそんなテクニックを学べるの。

ヒロコの関心ごとは、いつも周囲への振る舞いに向けられていた。人への見え方、見せ方、備わっていないものばかりを求めてしまう。箸の持ち方や、電話受話器の置き方、一つ一つは些末な事象でも、結局はうまくできないことにショックを受ける。周囲同じタイミングで反応できないようだ、と気づいてからは一層、目立つことを避け「みんなと同じ」に擬態したい思いに駆られていた。
園田は5年前、ヒロコと同じタイミングで転職してきた。実際の年齢は4つ年下。最近転職してきたばかりの佳純にとっては先輩になるはずだが、実は同い年だったらしい。
「180㎝で確かにぱっと見、いけるかもって思ったんです。ふた世代くらい前だったらそれで十分モテたんでしょうけど。でも、ぜんぜん、なんか抜けているっていうか、タイミングが悪いんですよね、基本」
佳純が園田と恋愛関係を築こうとしていたはずなのではなかったか。後悔とも、反省ともとれるようなトーンで語られた非難。ヒロコは途端に園田へ深い同情をしてやりたくなる。路上でキャバ嬢に足蹴にされたという情けない姿が見事に浮かんだ。
「へえ、園田くんが、ズレてる?」
「そうです、そうです。ズレてるんです!」
周囲に勝手に持ち上げられ期待され、まるで「ズレ」により社会的な能力が欠落しているとも聞こえる。
「ズレてるかー」
少し批判めいた口調に聞こえたのか、やだ、ジョーダンですって、と佳純がへらっと笑う。やはり佳純のようになれない。ヒロコは悟った。学生時代から変わらず、モテない側とされ、どちらかといえばズレてる側とされていた。どうしてもそう決める佳純側にはいれないと思う。生まれてきた星のめぐりあわせか、そんな運命的なことも思う。
「ね、園田くんの連絡先教えてもらおうかな」
ヒロコがゆっくりとスマホを取り出すと、佳純が少し驚いた表情をしていた。せっかくなら慰めの言葉として、おこがましくも園田へ「お見舞い」を申し上げたくなっていたのだ。
「え?だめ?」
「いやいやいや!教えますよ。今ちょっと間違って画面消しちゃって。あ、園田さん、美味しいごはん屋さんはよく知ってますよ。誘ってもらうといいです」
「どうやって?」
「食事行こうって誘ってもらうんです。そしたら奢ってもらえるし、中島さんがいやならワリカンでも。でも、いいんですか?」
「うん、ちょっとね」
ヒロコは佳純の質問には答えなかった。自分で連絡先を聞かなくて良いのか、が佳純の本意であったが、言わんとするところには園田でいいのか、というニュアンスも若干含んでいたから。ヒロコの返答もどちらともとれる言い方だった。佳純はそっかそっかと勝手に納得してしまった。
「えっと前、私はホテルのレストランへ誘われて。その、ケーキバイキングが開催されていたんです。あ、思い出した。園田さんって、甘いもの、すごい好きなんです。だから女性と一緒に行きたいって言ってました」
「意外」
「ですよね!きっと美味しいスイーツのお店の話をそれとなく持ち出してみたらと思うんです」
スイーツを食べるためだけに男女がホテルへ? のこのこと佳純もついていくとは。大人のプライベートに立ち入る考えが浮かんだ。ヒロコは古い会社の体質に毒されている気がした。

メッセージの通知音を見ると、園田の連絡先があった。
「ごめんね、ありがとう」
「お役に立てて嬉しいです。その代わり、進展あったら教えてください!」
「それはないわよ」
恋バナの類として聞いていたらしい佳純はきょとんとしていたが、ヒロコはそれ以上なにも答えなかった。

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