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【学ぼう‼刑法】入門編/総論24/教唆犯と従犯の構成要件/共犯の従属性/共犯の処罰根拠


第1 はじめに

今回のテーマは「共犯」です。

その中でも、特に、狭義の共犯と呼ばれる「教唆犯」「従犯」を取り上げます。

共犯には、これらの他に「共同正犯」というものがあり、教唆犯、従犯にこれを加えた3つが、広義の共犯と呼ばれています。

まず、共犯について定めた条文を示せば、次のとおりです。これから3回で詳しく見てゆくので、今はサッと目を通す程度で大丈夫です。


第2 正犯と共犯

犯罪事実に対する行為者の関与の仕方には、2種類のものがあります。

これが「正犯」「共犯」です。

1 正犯

正犯とは、自ら実行行為を行う者をいいます。

実行行為とは、基本的構成要件に定型的に示された行為です。

基本的構成要件とは、刑罰法規の各条文によって直接示されている犯罪の構成要件のことです。

そこで、刑罰法規の各条文によって直接示されている犯罪の構成要件において、定型的に示されている行為(実行行為)を自ら行うのが「正犯」ということになります。

2 共犯

これに対して、共犯は、広い意味(広義)では、

  • 共同正犯

  • 教唆犯

  • 従犯(幇助犯)

を言います。そして、このうちの後2者が、狭義の共犯です。

狭義の共犯である「教唆犯」「従犯」は、「加担犯」とも呼ばれます。それは、正犯の実行行為に「加担」する者だからです。

その意味で、教唆犯・従犯は、正犯の存在を前提とします。

そして、ある犯罪事実について「正犯」が第1次的に責任を負う者であるのに対し、「狭義の共犯」は、第2次的に責任を負う者とされます。

このような「正犯」と「狭義の共犯」との中間に位置づけられるのが「共同正犯」です。

「共同正犯」は、共同して実行行為を行う者と言われますが、これをどのような犯罪として理解するかをめぐっては、厳しい対立があります。伝統的な見解は、正犯と共犯との中間で、いわば正犯と共犯のハーフのように考えていましたが、現在では、それよりはやや共犯寄りに捉えられるようになっています。これは次回に扱うところです。

狭義の共犯には「教唆犯」と「従犯」があり、いずれも、正犯の意思に働きかけることで、正犯による犯罪の実現を促進するという意味をもっています。この点で両者は共通しており、これが「狭義の共犯」の本質だと言えます。

しかし、教唆犯と従犯とでは、その促進の仕方・程度が違います。

「教唆犯」の場合は、故意(犯罪の意思)を有していない者に対して、故意を生じさせるということによって、正犯による犯罪の実現を促進します。その意味で、教唆犯による犯罪の促進は、積極的な促進と言ってもよいでしょう。

これに対して「従犯」の場合は、すでに故意(犯罪の意思)を有している者が対象になります。このような者に対して、実行行為を容易にすることで、反対動機の形成によって故意が解消されることを抑止する、というのが「従犯」による正犯の促進です。「従犯」は、このような、緩やかな形で、正犯が犯罪の実行を思いとどまることを抑制し、正犯による犯罪の実現を後押しするものです。

なお、教唆犯が行うのは「教唆行為」であり、従犯が行うのは「幇助行為」ですが、これらは、正犯の「実行行為」を促進する行為であって、どちらも実行行為それ自体ではありません(これらが実行行為であれば、教唆犯・従犯は正犯となってしまいます)。

3「修正された構成要件」の意味

前述したとおり、正犯は、自ら基本的構成要件的行為(実行行為)を行う者です。そして「基本的構成要件」とは、刑罰法規の各条文が直接規定している構成要件でした。

これに対して、共犯の構成要件は「修正された構成要件」と呼ばれます。これは、共犯の構成要件は、刑罰法規の各条文に示された基本的構成要件が、共犯の条文(刑法61条、62条、63条)によって修正されることによって、初めて得られるということを意味しています。

つまり、刑法各本条の条文が、下記の共犯の条文によって修正されます。

そこで、教唆犯について定めた刑法61条1項を使って、刑法各本条の基本的構成要件がどのように修正されるかを具体的に見てみましょう。

まずは、殺人罪(199条)です。

このように、殺人教唆罪の構成要件を導く場合は、刑法61条1項の「犯罪」の部分に、殺人罪の構成要件を入れ込むことによって、これが導かれることになります。

このような修正のやり方は、どの犯罪の場合も同様です。

窃盗教唆罪の構成要件であれば、窃盗罪(刑法235条)の基本的構成要件から次のように作られます。

以上のように、共犯は、正犯の存在を前提とするため、その構成要件の中には「その犯罪を被教唆者が実現した」という部分が具体的に組み込まれる形で、教唆罪の構成要件は作られることになります。

共犯も、犯罪である以上、正犯と同様に、構成要件に該当する違法かつ有責な行為なわけですが、共犯の構成要件は、以上のように、正犯についての刑法各本条の定める基本的構成要件に、共犯について定めた総則規定によって一定の修正を施すことで、初めて得られるということになります。

これが、共犯の構成要件が「修正された構成要件」と呼ばれることの意味です。なお、修正された構成要件の例としては、共犯のほかに、未遂罪の構成要件があります。

では、ここから教唆犯・従犯の構成要件を順に見ていくことにしましょう。


第3 教唆犯の構成要件

「人を教唆して犯罪を実行させた」という教唆犯の構成要件から、その構成要件要素は、次の4つだと考えられます。

  1. 教唆行為(構成要件的行為)

  2. 正犯の存在(構成要件的結果)

  3. 因果性

  4. 構成要件的故意(教唆の故意)

以下、順にその内容を見ていきましょう。

1 教唆行為

教唆行為は、教唆犯における構成要件的行為です。それが実行行為ではないことは、すでに述べたとおりです。

「教唆」とは、犯罪をそそのかすことですが、これは、もう少し丁寧に言えば、犯罪の意思を有していない者に対して一定の犯罪をすることを決意させる行為ということになります。

「故意」が「犯罪を実現する意思」である以上、教唆行為を「故意を有していない者に対して故意を生じさせる」と表現してもよいと思います。
 ただ「犯罪を実現しようとする意思」が「故意」に変化するタイミングは、実際には、客観的構成要件要素が実現されたときです。
 ですから、教唆によって行為者に犯罪を実現しようという意思が生じた時点では、実は、それはまだ「故意」と呼ぶことはできません。
 そこで、厳密に言うならば、教唆は「犯罪を実現しようという意思」を有していない者に「犯罪を実現しようという意思」を生じさせること、という表現が正確といえます。

2 正犯の存在

(1)従属性の有無(実行従属性)

刑法61条に「犯罪を実行させた」とあるように、教唆犯が成立するためには、被教唆者が犯罪の実行に出て、犯罪を実現したことが必要となります。

「実行させた」とは、実行行為に出たとも読めますが、例えば、殺人罪を教唆したのに、正犯が殺人未遂にしかならなければ、殺人未遂罪の教唆犯が成立するにとどまります(後述)。つまり、行為者が殺人罪を教唆して、殺人罪の教唆犯(殺人教唆罪)が成立するには、正犯が殺人の結果を生じさせる必要がありあます。そこで、ここにいう「犯罪を実行させた」とは、単に被教唆者に「犯罪の実行に着手させた」という意味ではなく「犯罪を実現させた」という意味に解する必要があるでしょう。

下の図を見て解るとおり「正犯の存在」は、教唆行為によってもたらされた構成要件的結果と位置づけられます。

このように、共犯が成立するためには「正犯」の存在が必要であるという見解を共犯従属性説と言います。これに対し、正犯が存在しなくても、共犯だけが独立して成立することを認める考え方が、共犯独立性説です。

では、どちらが妥当なのでしょうか?

これらの学説の対立は、刑法理論における学派の対立、つまり、古典学派(旧派)と近代学派(新派)の対立に由来します。また、この対立は、客観主義的刑法理論主観主義的刑法理論の対立とも表現されます。

近代学派の考え方によれば、犯罪は行為者のもつ危険性の徴表であり、これが外部的に表出されたことによって犯罪が成立し、処罰されるとされます。そこで、教唆犯であれば、教唆行為をしたことにより、その人の危険性が外部に表示され、客観的に明らかになるので、そのタイミングで処罰に値するということになります。

これに対して、古典学派の考え方によれば、行為者は、違法な行為をしたことに基づいて処罰されます。そして、違法な行為とは、法益侵害またはその危険を発生させる行為だとすれば、その時期とは、少なくとも正犯者が実行行為を開始した時だということになります。なぜなら、この時に初めて構成要件的結果(法益侵害)を惹起する現実的危険が発生するからです。そのため、教唆犯が可罰的になるには、少なくとも、正犯が実行行為に着手し、法益侵害の危険が発生することが必要であり、そのため、正犯の存在が教唆犯の成立には必要だ、ということになります。

 近代学派は、19世紀後半から20世紀前半にかけて台頭した刑法理論で、日本でも、第二次世界大戦前は、近代学派の立場がかなり有力でした。
 しかし、近代学派自体は、一定の歴史上の功績を残し、それまでの古典学派の主張に対して一定の修正を迫ることとなったものの、それ自体に理論上の問題もあって一般的な支持を受けるには至らず、その後、再び古典学派が優勢となって、現在では近代学派を主張する論者はほとんどいなくなっているという状況です。

現在の刑法理論は、古典学派(旧派)の立場に立脚する客観主義的刑法理論であるため、現在では、共犯が成立するには「正犯の存在」が必要であるとされています。

この「正犯の存在」と言われる中身は、被教唆者が実現した「犯罪」がどのような犯罪なのかによって、変わります。どのように変わるのかを、順に見てゆくことにしましょう。

  ア 結果犯の教唆

教唆犯の構成要件要素の、この「正犯の存在」という部分は、例えば、殺人罪(刑法199条)などの結果犯の場合には、正犯者による、①実行行為、②結果、③因果関係、④構成要件的故意が、その中身となります。その他、被教唆者の実現した犯罪に、行為状況や身分、目的などの超過内心傾向などの構成要件要素があれば、もちろんこれらも要求されることになります。

  イ 挙動犯の教唆

暴行罪のような挙動犯を教唆した場合には、この「正犯の存在」として要求される構成要件要素は、最も少ない場合には、①実行行為、②構成要件的故意、の2つになります。もちろん、犯罪によっては、行為状況や身分、目的などが加わることもあるでしょう。

  ウ 結果的加重犯の教唆

教唆犯は、結果的加重犯についても認めることができます。

教唆行為は、被教唆者に対して、犯罪を実現する意思、つまり、「故意」を生じさせることですが、結果的加重犯は、故意犯と過失犯の複合形態であるので、これが可能です。つまり、基本犯の「故意」を生じさせる行為をし、正犯が基本犯の実行行為に着手し、よって重い結果を生じさせれば、教唆者には、結果的加重犯の教唆罪が認められることになります。

例えば、暴行罪の結果的加重犯である傷害罪の場合、暴行を教唆し、その結果、正犯者が結果的加重犯としての傷害罪を実現したときは、その教唆犯は、傷害罪の教唆犯(傷害教唆罪)となります。

  エ 過失犯の教唆

以上に対し、過失犯は教唆犯の対象とはなりません。教唆は、被教唆者に故意を生じさせること(被教唆者に犯罪を決意させること)が必要だからです。過失犯の場合には、正犯者には故意がないので、過失犯を教唆することはできない、ということになります。

なお、行為者が、他人の過失行為を利用して、自己の企図する犯罪的結果を実現させた場合には「教唆犯」ではなく、「間接正犯」が成立する余地があります。

  オ 未遂罪の教唆

未遂罪は、教唆犯の対象となるでしょうか?

未遂罪は「犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった場合」であり、未遂罪が成立するためには、①実行に着手したこと(実行行為の存在)、②既遂罪の故意(に相当する心理状態)があること(既遂の故意)が必要とされます。

そこで、教唆者が被教唆者に「既遂の故意」を生じさせて、実行に着手させ、これが未遂に終われば、教唆者に未遂罪の教唆犯を認めてよいと考えられます。その意味で、未遂罪を教唆することは可能です。

もっとも、この場合に、①教唆者自身にも、既遂にする意図があることが必要であるか、それとも、②教唆者は、被教唆者に既遂の故意(既遂にする意図)を生じさせ、そのことを知っていれば足り、自分自身は既遂にする意図をもつ必要がないか、をめぐって学説に対するがあります。

特に、教唆者が最初から未遂に終わらせるつもりで教唆し、被教唆者は既遂にするつもりで実行行為に出たが、未遂に終わった、という場合を「未遂の教唆」と言います。

この「未遂の教唆」の場合に、教唆者には未遂罪の教唆犯が成立するのか否かをめぐって、学説が対立しています。この問題は「教唆の故意」に絡む問題なので「教唆の故意」のところで説明することにします(後述)。

  カ 教唆の未遂

教唆者が、被教唆者に対して、犯罪を実現させるつもりで教唆したものの、被教唆者が犯罪の実行に着手しなかったという場合は、教唆罪は未遂犯として処罰されるでしょうか?

これは「教唆の未遂」と呼ばれるものです。

この「教唆の未遂」を可罰的なものと考えるか否かは、結局、教唆犯の成立に正犯の存在を必要とするか否かという問題であり、共犯従属性説(古典学派)に立つか、共犯独立性説(近代学派)に立つか、という問題です。

前者の立場に立てば、教唆の未遂は不可罰とされ、後者の立場では、教唆の未遂も可罰的とされます。

共犯従属性説(水色)と共犯独立性説(オレンジ色)の主張を見てみましょうか。

以上見てきたとおり、共犯従属性説によれば、教唆犯が成立するためには、少なくとも、被教唆者が「実行に着手」する必要があるということになります。

このように、共犯従属性説によれば、共犯が成立するためには、少なくとも正犯者が犯罪の実行に着手したことが必要である、ということになりますが、これを「実行従属性」の問題と呼びます。

これに対し、こうして実行に着手した正犯が、犯罪成立要件の要素のどこまでを備えている必要があるか、という問題が「従属性の程度」または「要素従属性」と呼ばれる問題です。

次に、この「要素従属性」をめぐる学説の対立について見てみましょう。

(2)従属性の程度(要素従属性)

  ア 制限従属性説と極端従属性説

実行従属性も、教唆犯の構成要件要素のうちの「正犯の存在」をめぐる一側面で、教唆犯が成立するには「少なくとも正犯の存在が必要だ」という考え方ですが、要素従属性は、さらに「そのような正犯は、構成要件該当性、違法性、有責性という犯罪の成立要件のどこまでを備えていなければならないか」を問題にするものです。

これまで、4つの説が主張されてきました。

  1. 最小従属性説:正犯は構成要件該当性があれば足りる。

  2. 制限従属性説:正犯は構成要件該当性と違法性を備えれば足りる。

  3. 極端従属性説:正犯は構成要件該当、違法性、有責性のすべての要件を備える必要がある。

  4. 誇張従属性説:正犯は構成要件該当性、違法性、有責性に加え、処罰条件も備える必要がある。

では、いずれの立場が妥当でしょうか?

学説は4つありますが、この対立は、主として、制限従属性説と極端従属性説の間で闘わされてきたと言えます。そしてかつては、極端従属性説が通説でしたが、現在では、制限従属性説が通説の座を奪っています。

そして、この両説の対立は、違法性の実質をめぐる法益侵害説と倫理規範違反説の対立を反映するものだ、と理解されてきました。

両説の論者の主張は、次の図のとおりです。

以上のように、法益侵害説を採ると、因果経犯論(惹起説)を採用することになり、その結果、制限従属性説を採ることになる。これに対して、倫理規範違反説を採ると、責任共犯論(堕落説)を採ることになり、極端従属性説へと至る、ということです。

  イ 共犯の処罰根拠

このような因果共犯論と責任共犯論の対立は、共犯の処罰根拠をめぐる対立です。

共犯の処罰根拠論は、共犯は何故に処罰されるものとされているのか、を問うものです。

ただ、より突っ込んで言えば、共犯が処罰される根拠は、正犯が処罰される根拠と比べてどこが違うのかを問うものと言えます。

正犯だって、共犯だって、犯罪なのですから、構成要件に該当する違法かつ有責な行為を行ったからこそ処罰される、というのはもちろんです。

ただ、正犯と共犯とでは、処罰される根拠が基本的に同じなのか、それともそこに質的な差異があるのか、です。

  ウ 因果共犯論(惹起説)

この点、因果共犯論(惹起説)は、正犯も、共犯も、法益侵害やその危険を惹起したことによって処罰されるものであり、その点において両者に違いはない、と言います。

ただ、正犯が、法益侵害またはその危険を直接惹起したことに基づいて処罰されるのに対して、共犯は、正犯を通じて間接的に惹起したことによって処罰されると言います。

そこで、正犯が結果や危険を惹起しないかぎり、共犯は結果や危険を惹起できないので、その意味で共犯は正犯の違法性に従属するのだ、と因果共犯論は説明します。

そのため、共犯者にとって必要なのは、正犯が違法な行為によって法益侵害またはその危険を惹起したということであって、正犯に法的に非難される事情があるかどうかは、共犯には基本的に関係がありません。そこで、正犯の責任の問題は、共犯には影響を与えない、と言います。

それゆえに、共犯の構成要件要素である「正犯の存在」において、正犯は、構成要件該当性、違法性を備える必要はあるが、有責性について備える必要はない、と説明します。

  エ 責任共犯論(堕落説)

これに対し、責任共犯論(堕落説)は、共犯の処罰根拠を、正犯の処罰根拠をまったく異なったものとして把握します。それは「堕落説」という名称が表しているとおり、共犯の処罰根拠は、正犯者を堕落させ、犯罪と刑罰へと導いたことにある、と責任共犯論は主張します。

そして、そうなると、正犯者が「堕落」したと言えるためには、そもそも正犯者が責任のある存在であるということが必要となります。

「天使」は堕落しますが、「子ども」が堕落した、とは言いませんから。

そして、正犯者を「責任と刑罰に導いた」と言えるためには、正犯者は責任を備えている必要があるということになります。そうでなければ、犯罪が成立せず、刑罰が科せられないからです。

そこで、因果共犯論(堕落説)によれば、正犯者は、構成要件該当性、違法性だけでなく、有責性も備えなければならない、という結論が必然的に導かれることになります。つまり、責任共犯論からは極端従属性説が帰結されるということになります。

ところが、ここに大きな問題が生じました。

  オ 刑事未成年者の利用

ここで、日髙義博先生の『刑法総論講義ノート』から事例を2つ引用したいと思います。

【設例122】 Aは、3歳のXを使ってスーパー・マーケットで売っている文房具を盗み出させ、それと引き換えにお菓子を与えた。

【設例123】 Bは、12歳のYに対して、書店の本を盗んでくれば定価の半額を報酬として与える旨を告げ、Yに本を盗ませた。

日髙義博『刑法総論講義ノート〔第3版〕』(勁草書房)195頁

さて、この2つの事例で、A、Bはそれぞれ何罪になるでしょうか?

このうち【設例122】の場合は、3歳の幼児には規範意識がないと考えられます。そこで、この場合は、Aが、他人を道具として利用した間接正犯として、窃盗罪(刑法235条)を実現したものと解することができるでしょう。

しかし、【設例123】の場合は、どうでしょう?

Yは12歳です。それは小学校6年生の年齢です。そこで、Yにも規範意識は相当程度備わっていると考えられます。そうすると、Yを「道具」と言うことは困難です。

そこで、この場合のBについては、間接正犯としての窃盗罪の正犯と解することはできないので、この場合は、あくまでYを正犯とした、窃盗罪の教唆犯を考えることとなります。

そして、制限従属性説であれば、問題なくBに、窃盗教唆罪を認めることができます。なぜなら、Bは、刑事未成年(14歳未満)ですが、制限従属性説であれば、「正犯」は、構成要件該当性、違法性までを備えればよく、有責性を備えることは要求されないからです。

これに対して、極端従属性説では、ダメです。「正犯」は、構成要件該当性、違法性に加えて、有責性を備える必要があるからです。そのため、この場合のBには、窃盗教唆罪の成立を認めることができない、ということになります。お手上げです。Bは、犯罪不成立とするしかないでしょう。

そこで、この【設例123】のような事例によって、極端従属性説は、急激に支持者を失い、その反面、制限従属性説が急激に支持者を増やすこととなったというワケです。

  カ 共犯の処罰根拠論の現在

けれども、そもそも、制限従属性説と極端従属性説との対立は、違法性の実質をめぐる法益侵害説と倫理規範違反説の対立を反映していたハズです。

そうだとすると、それまで極端従属性説をとっていた人たちが、このような事例をきっかけに制限従属性説に「寝返った」あるいは「鞍替えした」としたとした場合、この人たちの違法論はどうなったのでしょうか? みんな法益侵害説になってしまったのでしょうか?

結論的には、共犯の処罰根拠をめぐる学説の対立は、次のように変わりました。

つまり、倫理規範違反説に基礎をもつ見解として、不法共犯論というものが生まれ、この不法共犯論からは制限従属性説が帰結されるとされました。

そして、この不法共犯論は、共犯の処罰根拠についてどう主張しているかと言うと、共犯は「正犯に構成要件に該当する違法(倫理規範違反行為)をさせたことに基づいて処罰される」と言います。

これは、一体どういう意味でしょうか?

制限従属性説の内容を、言い換えたにすぎないようにも見えます。

この見解は、何によって共犯は処罰されるものと言っているのでしょうか?

私なりの理解としては、正犯は、自ら倫理規範違反をすることによって処罰され、共犯は、正犯者に倫理規範違反をさせたということによって処罰される。そう言っているようにも感じられますが、自信はありません。

ただ、いずれにしても、共犯の処罰根拠をめぐる対立構造は、このように変化し、その結果、みんな仲良く制限従属性説を採ることに落ち着いた、ということです。めでたし、めでたし……かな?

そして、要素従属性、違法性の程度をめぐる制限従属性説の立場から、その特徴を表すものとして、必ず言われる有名なスローガンがあります。有名ですから、みなさんも、是非憶えてください。

「違法は連帯に、責任は個別に」

これが制限従属性説です。

3 因果性

結果犯の構成要件には、構成要件要素として、①実行行為、②結果、がありますが、正犯の場合、この両者がある場合、必ず両者をつなぐ要素として、③因果関係、が要求されることとなります。

そこで、同様に、教唆犯の構成要件においても、構成要件的行為である「教唆行為」とその結果である「正犯の存在」の両者をつなぐ要素が必要とされます。ただ、これは「因果関係」ではなく「因果性」と呼ばれています。

では、なぜ「因果関係」ではなく「因果性」とされているのでしょうか?

それは、そこに条件関係を考えることができないからです。

つまり、因果関係論においては、どのような説を採るにせよ、条件関係の存在は前提となります。つまり、因果関係において条件関係は必須の要素です。

しかし、教唆をされた正犯は、規範意識をもち、かつ、これから自分のする行為について充分よく知っています。そのうえで実行行為に及ぶのは、正犯者は、その自由意思によって自らその規範を自ら乗り越えているのです。

その意味で、教唆をされても、被教唆者の規範意識がしっかりしていれば、同人は実行行為には及びません。つまり、これから自分は犯罪をするのだということを充分認識している正犯者は、単なる道具ではなく、物のように右から押されれば左へ動く、という存在ではありません。そうすると、そこには厳密な意味での「条件関係」のようなものを考えることができません。

つまり、教唆者は、正犯者の自由意思に影響力を与えることはできたとしても、それを支配し操作するということができているワケではありません。逆にこれが出来ているのであれば、それは「教唆」ではなく「間接正犯」になるでしょう。

教唆犯が処罰されるのは、教唆行為を通じて、正犯の心理に影響を与え、正犯の実行行為を通じて、結果(法益侵害)を間接的に惹起したと評価されるからです(因果共犯論)。その意味で、教唆行為が正犯による犯罪の実現に影響力を与えたことは必要です。しかし、これは道具を利用する場合のような因果関係ではありません。その意味で、この影響力は「因果関係」ではなく「因果性」と呼ばれるのが一般になっています。

4 構成要件的故意(教唆の故意)

故意責任の原則について規定した刑法38条1項本文は、教唆犯についても当然に適用されます。そのため、教唆犯の主観的構成要件要素としても、構成要件的故意が必要とされます。

問題は、その中身です。

もちろん、構成要件的故意は、構成要件に該当する客観的事実を認識・予見することですから、教唆犯の客観的構成要件要素である、①教唆行為、②正犯の存在、③因果性、について認識・予見することが必要であることは言うまでもありません。

問題は「正犯の存在」について、どこまで認識している必要があるか、ということです。

(1)正犯が結果犯の場合

この場合、「正犯の存在」の内容として、正犯の構成要件要素であるすべて、つまり、正犯の実現したのが結果犯であれば、その構成要件要素である、実行行為、結果、因果関係、構成要件的故意、のすべてを認識・予見する必要があるかどうかです。

この点、有力な見解は、実行行為と構成要件的故意だけを認識・予見していれば足りると主張します。下記の図では、①の見解です。

この見解は、教唆犯の故意としては、自己の教唆行為によって、被教唆者が犯罪に出ることを決意し(故意)、これによって実行行為に出ること(実行行為)を認識・予見していれば足りるといいます。

しかし、本来、構成要件的故意は、構成要件に該当する客観的事実のすべてを認識・予見することを内容とするものですから、「正犯」が結果犯であれば、その構成要件要素である、実行行為、結果、因果関係、構成要件的故意のすべてを認識・予見しなければならない、というのがスジです。

したがって、構成要件的故意という概念の定義に従えば、上記の図中では、②の立場が正しいというべきです。

これに対して、「いや、それは、共犯の構成要件は修正された構成要件だからよいのだ」と、もし反論するなら、それは「修正された構成要件」という言葉を濫用していると、私は思います。「修正された構成要件」とは、そのようなことまで正当化してしまうようなマジックワードではないでしょう。

それとともに、教唆犯の故意の内容が、そもそも、実行行為と構成要件的故意の認識・予見だけで足りるとすると、仮に、行為者が最初から未遂に終わらせるつもりで教唆したところ、教唆者の予期に反して既遂になってしまったという場合にも、教唆者は「未遂罪の教唆犯」ではなく、「既遂罪の教唆犯」が成立してしまう、という結論になるでしょう(論理的にはそうなるハズです)。

しかし、これでは、教唆者が予期していなかった重い結果についてまで故意責任を認めることになり、妥当ではありません。

そこで、ここは、やはり、正犯が結果犯であれば、その実行行為、結果、因果関係、構成要件的故意などもすべて認識・予見している必要があるというのが正しいと思います。

(2)正犯が未遂罪の場合

次に、正犯が実現したのが、未遂罪だったという場合に、未遂罪が成立するために必要とされる教唆犯の故意は、①自己の教唆行為によって、正犯者が既遂罪の故意をもち、かつ、実行行為に出ることまでの認識・予見があれば足りるのか、それとも、②これらに加え、自らも既遂の結果を意図していたということが必要か、ということが問題となります。

この問題は、未遂の教唆の可罰性にかかわります。

未遂の教唆とは、教唆者が初めから未遂に終わらせるつもりで、その意図を隠して正犯者を教唆し、これにより正犯者は既遂の故意を抱き、実行行為に出たが、結局、教唆者の狙い通り未遂に終わった、という場合です。

この場合、①の見解によれば、教唆者には、正犯者に既遂の故意を生じさせること、および正犯者が実行行為に出ること、についての認識・予見があった以上、教唆の故意の内容としては不足はないということになり、教唆者は、未遂罪の教唆犯として可罰的となります。

これに対して、②の見解によれば、未遂の教唆の場合には、教唆者には、既遂の結果を発生させる意図はないので、教唆犯の故意としては充分ではなく、未遂罪の教唆犯は成立しないということになるでしょう。つまり、不可罰となります。

さて、いずれの立場がスジが通っているでしょうか?

構成要件的故意は、構成要件に該当する客観的事実を認識・予見することです。そこで、教唆犯の構成要件的故意としては、その客観的構成要件要素である、教唆行為、正犯の存在、因果性、の3つを認識・予見する必要があります。

そして「正犯の存在」については、正犯が未遂罪の場合、未遂罪の構成要件要素は「実行行為の開始」と「既遂罪の構成要件的故意に相当する心理状態」の2つです。

そこで、この場合の「正犯の存在」についての予見としては、「正犯」にこの2つの構成要件要素があることを認識していれば足りる、ということになります。つまり、上記の図でいえば、①の見解です。

このように考えたときは、教唆者が、正犯を最初から未遂に終わらせるつもりで教唆し、予定どおり正犯が未遂に終わったという場合でも、教唆者には、未遂罪の教唆犯が成立する、ということになります。つまり、未遂の教唆は、可罰的ということです。

しかし、この結論は、正犯の未遂罪の場合と比較して不当ではないか、という疑問も、その一方で湧いてくるでしょう。

つまり、正犯の場合、最初から未遂に終わらせる意図で実行に着手した場合には、正犯者には未遂罪が成立しません。そうであれば、これと同様に、最初から未遂に終わらせる意図で教唆をして、正犯者が未遂罪を実現しても、教唆者には未遂罪の教唆犯は成立しないというのが、平仄が合うような気もします。

つまり、未遂罪の教唆犯が成立するには、教唆者も自ら、正犯による結果の実現を意図していたことが必要だという②の主張です。

では、どちらが正しいのでしょうか?

みなさんは、どう考えますか?

さて、この問題に対する解決のヒントは、そもそも、正犯において未遂罪が成立するために、最初から未遂に終わらせる意図であった場合では足りず、既遂にするつもりであったことが必要だとされるという理由は何か、という点にあります。

未遂罪の主観的構成要件要素は、一般に「既遂罪の構成要件的故意」などと簡易的に言われますが、その内実は、①実行行為に対する認識(構成要件的故意)と、②実行行為によって結果が発生するとの意図(超過的内心傾向)に分解されます。

この超過的内心傾向の部分は、主観的違法要素と解されます。つまり、このような主観的要素が存在することによって、実行行為の危険性が増加し、それゆえに違法が増大しているものと解されます。

そして、この危険性の増加は、正犯者がこのような主観的態様をもつことによって増加しているのであり、ここに教唆者自身の意図は関係ないでしょう。そうだとすると、教唆者自身が結果を発生させる意図をもつ必要はない、と解されます。

このことは、言い方を変えれば、未遂罪における超過的内心傾向を、主観的違法要素と解した場合、それは違法要素であることから、制限従属性説によれば、正犯に従属する、と説明することもできるでしょう。

さて、みなさんはどう思いますか?


第4 従犯の構成要件

従犯の構成要件要素は、

  1. 幇助行為

  2. 正犯の存在

  3. 因果性

  4. 構成要件的故意(幇助の故意)

の4つと考えられます。

1 幇助行為

従犯の構成要件的行為は「幇助」です。

これは、正犯の実行行為を容易にする行為をいいます。

容易にする方法自体は、凶器の供与などの物理的なものでも、情報の提供などのような心理的なものでもかまいませんが、いずれにしても、幇助された者が、実行が容易になったと感じることで、反対動機の形成が抑制される(困難だからやめよう、面倒臭いからやめようなどと考えにくくなる)ということが幇助行為の本質と考えられます。

2 正犯の存在

この点は、教唆犯について述べたことがそのまま当てはまりますので繰り返しません。

3 因果性

因果性は、教唆犯の場合と同様の、心理を通じた正犯者に対する影響力です。ただ、犯罪を実現する意思のなかった被教唆者に対して、犯罪を実現する意思を抱かせることになる教唆と比較して、すでにある犯罪意思を維持させるということにとどまる従犯の影響力は、かなり弱いと言えます。そのために、従犯の刑は減軽されていると考えられます。

4 構成要件的故意(幇助の故意)

幇助の故意についても、教唆の故意について述べたことがそのままあてはまるでしょう。


第5 片面的教唆・片面的幇助

教唆犯や従犯の構成要件要素として「意思の連絡」が必要か、という問題があります。

次回に扱う「共同正犯」の場合には、共同行為者間の意思の連絡は、その成立要件の1つとされます。

そこで、共同正犯を含めた、教唆犯、従犯の3つについての共通の成立要件として「意思の連絡」が必要であるとする見解もあります。

仮に、教唆犯や従犯においても、構成要件要素として「意思の連絡」が必要であるとするならば、片面的教唆や片面的幇助は否定されることになります。

片面的教唆とは、教唆者は被教唆者に対して犯罪を実現する意思を抱かせたが、被教唆者の側ではそれに気づいていない、という場合をいいます。また、片面的幇助は、幇助者は正犯の実行行為を容易にしたが、正犯としては幇助されたことに気づいていない、という場合をいいます。

「意思の連絡」を共犯形態に共通する要件と考え、共同正犯のみならず、教唆犯、従犯が成立するためにも「意思の連絡」が必要であると解する場合には、これら片面的教唆・片面的幇助は認められないということになります。

では、教唆犯や従犯が成立するために「意思の連絡」は必要でしょうか?

まず、教唆犯について定めた刑法61条1項にも、従犯について定めた刑法62条1項でも、「意思の連絡」が必要であるとは直接的には規定されていません。

しかし、このこと自体は「意思の連絡」を不要とする決定的な理由にはなりません。もし、教唆犯や従犯の処罰根拠との関係で、正犯者との「意思の連絡」が必要不可欠であれば、条文上は要求されていない要件であっても、理論上要求すべきということになります。

では、共犯の処罰根拠からみてどうでしょうか?

教唆犯や従犯の処罰根拠が、正犯者を通じて間接的に法益侵害をしたことであるとした場合、正犯者の心理に影響力を与え、その実行行為をする気を起こさせたり、また、実行行為を容易にすることで反対動機の発生を抑制し、実現意思を維持させたりということのためには、正犯者との「意思の連絡」は必須でしょうか?

その意味では、教唆犯・従犯の場合には「意思の連絡」は必ずしも必要ではなく、それは構成要件要素ではない、と言えそうです。

ただ「教唆」は、被教唆者に対して犯罪をそそのかし、被教唆者に犯罪を実現する意思を起こさせる行為であるところ、これを被教唆者に気づかれないままに行うということは、なかなか考えにくいかもしれません。

これに対して「幇助」は、実行行為を容易にする行為ですから、正犯者に気づかれないまま、実行行為を容易にしておくということはできるでしょう。例えば、X宅への住居侵入窃盗を企てているAの実行を容易にするためにBが、X宅の玄関の鍵をこっそり開けておいた、という場合がこれにあたります。

この場合、X宅に侵入しようとしたAが、玄関の鍵を開けようとしたところ、鍵が開いていたために、苦労してピッキングをする手間が省けた、ということであれば、Bの行為は、Aの実行行為を容易にしていると言えます。しかも、そのことにAは気づいていません。つまり、片面的幇助です。

しかし、住居に侵入するためにピッキングをしなければならない場合と比較して、侵入の手間暇が省けたAは、侵入の困難さによって反対動機を抱く可能性は、明らかに減少していると言えます。それゆえ、この場合は、Bには、Aの実行行為についての促進が認められるので、Aの住居侵入窃盗についての従犯の成立を認めることに合理的理由がある、と考えられます。

しかし、BがX宅の玄関の鍵を開けておいたとしても、X宅に侵入しようとしたAが、X宅の掃き出し窓を割って侵入したという場合には、Aの実行行為は、Bの行為によって何ら容易になっていません。そこでこの場合は、Bの行為がAの反対動機の形成を抑制したということもないので、Bの行為はAの実行行為を促進したとはいえないと考えられます。したがって、この場合には、片面的幇助は成立しないでしょう。

つまり、幇助の場合は、正犯者に気づかれなくとも、正犯者の実行行為を容易にすることで正犯者の反対動機の形成を抑制することはいくらでも可能なので、比較的広い範囲で片面的幇助を従犯として認める余地があると考えることができます。結局のところ、幇助者が片面的にしたことが、その行為がなかった場合に比べて、正犯者の実行行為を容易にし、それゆえにこれを促進しているといえるか否かであると考えられます。


第6 おわりに

はい、以上で、教唆犯、従犯については一応おしまいです。

教唆犯、従犯は、共犯の中では、比較的理解しやすいものだと思います。これに比べると「共同正犯」は、かなり手強いです。

しかし、実務では、共犯のうち、教唆犯、従犯というものは、特定の犯罪を除いてほとんど見かけず、ほとんどが「共謀共同正犯」です。このような減少は「共同正犯の肥大化」と呼ばれています。

したがって「共同正犯」は、すごく重要です。

次回から、この大切な「共同正犯」に入ります。

お楽しみに!


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