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女性優位の職場で「お局さま」がのさばるのは管理職がだらしないからだ⑥

 骨をうずめる覚悟で就職した最初の勤務先でしたが、八方ふさがりの状態に追い込まれたわたしには、退職して生まれ故郷へ戻る以外の選択肢はありませんでした。お局様との衝突はきっかけにすぎなかったと思います。中間管理職としての難しさ、歯科医としての未熟さ、そしてなにより若さ故の過ち……よい経験したというにはあまりに過酷な2年間でした。

故郷へ向かう道

 理事長と新人K先生との寂しい送別会の他に、分院と同じテナントに入っていた美容師さん、食堂のシェフ、そして患者さんたちが最後の宴席を設けて別れを惜しんでくれました。
「いつか絶対に帰って来てよね」
という言葉には頷いてはみせたものの、二度と戻ってくるまいという決意の方が先に立っていました。そんなわたしの心を見透かしたかのように、また別の人が、
「あまりいい思い出がないかもしれないけれど、わたしらが愛しているこの街まで嫌いにならないでね」
 と、まるで元AKB48の前田敦子さんのようなことを言います。
 彼らはわたしのことを先生とは呼びません。もっぱらスギウラくん、スギウラさん、スギウラちゃん──
 涙がとめどなく溢れてきます。自分が惨めだからでも、悔しかったからでもありません。別れを惜しんでくれる人々の温情が嬉しかった、ありがたかった。
 この時に至って、ようやく気づいたのです。わたしは孤独ではなかった。歯科医というプライドで塗り固められたちっぽけな殻に閉じこもっていただけだったのだ、と……。
 最後の宴席の翌日、患者さん宅で朝を迎えたわたしは、彼らに見送られて旅立ちました。
バックミラーの中で手を振り続ける彼らの姿を目に焼きつけながら。

 時は4月。
 行く手には、残雪をいただく雄大な山脈が青く輝いていました。きっといいことがある。きっといい人が待っている、そう自分に言い聞かせてステアリングを操ります。だけど、やがて日が暮れてくると、峠の彼方に置き去りにしてきたはずの苦い記憶と、これからの不安が交互に胸のうちをよぎっていきます。

苦い記憶を置き去りにして、故郷へ逃げ帰ったのでした

 その時でした。自動チューンで流れていたFMラジオから聴こえてきたのが、長渕剛さんが歌う『ろくなもんじゃねえ』、その歌詞がようやく立ち直りかけていた精神を切り裂いてゆきます。

どこかで誰かが俺を待っていてくれる
夢中で転がりやっと見つけたものに
心を裏切られちまった
心を笑われちまった

「ホント、ろくなもんじゃねえな、俺」
 口ずさむことはありませんでしたが、故郷との境を成す黒い稜線に沈む夕日をにらみ付けながら、ため息混じりに呟いていました。

難航する就職活動

 現在はどうかわかりませんが、歯科の勤務医を募集している施設はそう多くはありませんでした。ましてや失業保険もありませんから、とにかく働き口を探さねばなりません。就職情報誌や斡旋サイトどころか、スマホさえ世に出ていない時代です、知り合いのツテで民間病院の歯科が勤務医を募集していると聞いて問い合わせたら、すでに大学教授が、余った医局員の受け皿として押さえていたり、業界誌の募集広告を見て電話をかければ、
「最初の3カ月は無給。そのあと、使いものになりそうなら正式採用」
 と、未熟なキャリアと足元を見透かしたような弁。求人標に偽を載せるのはれっきとした犯罪行為ですが、今も昔も歯科勤務医に労働者としての人権なんか存在しません。
 残るは、勤務医をインセンティブで縛りつけて酷使しているとの悪名高い某医療グループしかない。しかし、それでは最初の就職先の二の舞になりかねない──そんな思いから歯科医ではなく、運送業などの就職を模索しはじめたそんな時、国家試験浪人していた後輩が電話をかけてきました。
 この春、晴れて国家試験に合格、わたしに借りていた国試対策の資料や問題集を返却したいのだ、と言います。彼は実家に帰らず、学生時代から過ごしてきたアパートで暮らしながら国家試験に備えていたのでした。
「おめでとう。親御さんも仕送りが大変だったよね」
 わたしが尋ねると彼は、あっけらかんとした口調で、
「I先輩が勤めている医院で歯科助手のバイトをしていましたから、そんなには困りませんでしたよ」
 と申します。そしてさらに、
「I先生、もうすぐご実家にお帰りになられるんで、後任の先生を探しているんですよね」
 次の瞬間、わたしは、
「I先生の後釜に俺、入れてもらえないかな」
と告げていました。

事例②非会員のミニマム診療所

「わかった。スギウラがその気なら、今日の昼、俺んとこへ来い。オーナーに紹介してやるから」
 これで就活は終わった、そう安堵しながら、電話の向こう側にいる先輩に深々と礼をしていました。

 先輩が勤務していたのは、古くからの住宅地の中心にある、それまた古くて小さな診療所でした。既に私服に着替えていたI先輩は、ご自慢のマイカーを玄関の真ん前に横付けにして待っていました。
「久しぶりだな。飯でも食いながらゆっくり話そうや」
 挨拶もそこそこに、言われるまま幌を全開にした中古の輸入ロードスターの助手席に乗り込みます。蹴飛ばされたように走り出した車の中で、先輩はギアを切り換える合間に、缶コーヒーを手渡してきました。
 頭上には、間もなく満開を迎える八重桜の並木が覆い被さっていました。その濃い桃色が流れ飛んでいく様を見上げながら、甘ったるいコーヒーをすすり、胸のうちに独りごちていました。
 故郷に帰って来て、よかった──

オープンカーを駆る先輩の余裕がうらやましかった

 先輩が勤務していたのは、非会員の診療所。
 もとの開設者が重大な不正請求を行い、保険医停止処分を食らっているあいだに癌が発覚、そのまま帰らぬ人となったとか。息子は首都圏の私立歯科大に通う学生で、彼が帰ってくるまでのあいだ、診療所を勤務医でつないたのでした。I先輩で3代目、そしてわたしは4代目の勤務医になります。
 食事を終えて戻ってくると、オーナーである開設者の未亡人が待っていました。上品な感じの人でした。
 先輩は、恥ずかしくなるほどの美辞麗句でわたしをオーナーに紹介します。先輩の口から嘘八百が飛び出すたびに、オーナーは目を細め、いちいち頷きます。契約書を取り交わすのは後日ということにして、診療室の見学をさせてもらうことになりました。
 座面のクッションが抜けた古いタカラベルモントのユニットが2台、パノラマとデンタルはわりと新しいものの、オートクレーブはなく超音波滅菌器のみ。根管長測定器も無かったので、あとでわたしの私物を持ち込んだくらい、まさに野戦病院もかくやと思わせるほどのレベルでした。
 スタッフは歯科助手が2人。しかし、当時のわたしには身に余る幸せでした。口うるさい理事長も乱診乱療も厭わない同僚もいない、ここならば自分ひとりで気ままに診療ができる、そう思ったのでした。
 オーナーに、
「これなら十分やっていけそうです。よろしくお願いいたします!」
 と告げましたが、彼女のにこやかな表情とは裏腹に、 わたしの背後に控えるI先生の口からちいさく舌打ちが漏れるのを聞き逃しませんでした。
 案の定、オーナーが診療所と棟続きの居室に戻ってから、
「おいスギウラ、あんなこと言っちゃイカンぜよ。いつも、あれが足りない、これが欲しいと言っておかねぇと、何も買っもらえないからよ。オーナー、ひどくケチだからな、覚えときな」
 さらに後日、I先生の送別会と、わたしの歓迎会を兼ねた酒の席で、
「今さら言うのも気が引けるけどよ、俺は正直、あの診療所は勧めないぜ。何かあったら、とっとと辞めることだ。特にオバハンには気をつけろ。いいな、オバハンには隙を見せるんじゃねえぞ!」
 この時は、I先生が言う“オバハン”は、オーナーのことだとばかり思っていました。さらにI先生は締めくくりに、
「スギウラ、俺を恨むなよ」
 と告げ、濃いめに作ったウイスキーを一気に飲み干すと、そのまま二次会々場のソファで眠りに就いてしまいました。
 わたしが対峙した3人目のお局様、それがまさしくI先生の言うオバハンなのでした。
つづく


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