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人は見たいところしか見ない


……って本当?

人は見たいところしか見ない、とネットの普及につれ言われるようになった。サイトで商品を検索すると、履歴とAIに記憶される。すると、今こんな商品が流行ってます、おすすめ、という画像とリコメンドが追随して送られてくる。ああ、私が好きなものをみんなも好きなんだ、やっぱりこんな流行ってるんだ、と似たような品を買って満足……ネットは、その人が見たいものをのみ届けてくれる。それ以外のものがあることを検索者は知らないでいてしまうが、必要のないものは要らないのだとしたら、ネットが取捨選択をしてくれるのに越したことはない。

しかし本屋に行くと、自分が欲しかった物以外にも出会える。それがアナログとデジタルの違いだ、と人は言う。そうして好みでもないものを衝動買いしてしまうのだが、新しい出会いも生まれる。その一方、自分の好みに自然と目が行くということはアナログでもやはりある。


アナログでもデジタルでも

もともと、「人は見たいものしか見ない」とは、ネットが出てくるよりはるか以前より言われていた。
でなければ、どうして昭和19年の太平洋戦争末期、帝国陸軍の快進撃を多くの国民が信じただろう。そもそも台所に米がなくなっているというのに。兵士は何を食べて「華麗なる転進」「我が軍の損壊は軽微」なる戦いをしていると思っていたのか。
鴻上尚史の『不死身の特攻兵』(講談社新書)によれば、正確に戦績を報道・記録した新聞もあったようだが、次第に売れなくなって潰れていったとか。結局、人は「神国日本の勝利間近」など、活字が華々しく躍っている新聞にお金を払うのである。

  脳の検索・アクセス機能と裏返し


 そうした「短絡アクセス機能」は情けないだけではない。学生のとき、図書館でアルバイトしたことがある。6万冊もある蔵書の中から、一瞬で自分にあう本を選んでいける利用者を何人も見た。スーパーへ行って何千種もある品の中から今夜の夕食に必要な食材だけぱっぱっと選べるのは、求めるものにすっと目が行く人間の、脳の運動神経、ひいては取捨選択力あってこそだ。「見たいものしか見ない」から、集中して選べるのである。

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 そうした、「自分の好みがわかっている人」「集中して選べる人(他の本には見向きもしない)」の中に、いつも田舎暮らしの本を借りていく人がいた。
『スモールハウスの作り方』『50代から始める田舎暮らし』『田舎暮らしのバイブル』などなど、正確なタイトルは忘れたが、とにかく枠5冊一杯、夢にあふれた本を借りていくのである。夜しか来ないから、おそらく会社員、そして40代。おそらく、早期退職をして、信州あたりで農業をやりたいのではないか……と皆で話していた。図書館のカウンターに座っていると、それぞれのライフスタイルや趣味嗜好が恐ろしくわかってしまうのである。

『森の生活』は都会人のバイブルだった

また、私も人のことはいえないのだが、いろいろなタイプの利用者が来るというのに、「田舎暮らしプレ予備軍」であろう彼の借りるものに「へえ」とか「いいじゃん」とひそかに思ってしまうのは、私自身が同じタイプだからなのだった。
特に私が好きだったのは都会人のバイブルといわれるHD・ソローの『森の生活』である(写真)。30代の青年が都会の教師を辞め、マサチューセッツ湖畔の丸太小屋に住む。夏には夏の、冬には冬の実りを楽しみながら自給自足の生活を送り、家計簿までつけて、都会で高い家賃をはらって朝から晩まで働くより、土を耕し最小限の狩猟をし、ワインを醸して暖炉で本を読むほうが、金もかからずストレスもたまらず、人間らしい暮らしだと表明していくのである。友達は一人、本の趣味の合う、やはり近くの森に住む男。彼との語らいで秋の夜はふけていくのである。

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こんな美しい暮らしがあるだろうか。エコ小説といわれるこのジャンルは、国木田独歩の『武蔵野』や、武者小路実篤の『新しき村』など、日本にもあるが、ソローの『森の生活』ほどには憧れを感じなかった。
ジャック・ロンドンの『荒野の呼び声』はエコ小説というよりは冒険小説だが、アラスカの原野を犬ぞりで駆け抜け、金鉱堀りをする主人公は、都会の株屋や不動産持ちとは別次元の、たくましい身体を氷の原野に捧げる自然の子なのである。

それに比べると、日本の田舎暮らしって、「五人組」とか「組合」とか出てきてしまう。アメリカのネイチャー田舎暮らしは、よけいな人付き合いもいらないし自然もダイナミックだし、なんて素敵なんだろうと。そして、図書館に来る「田舎暮らしプレ予備軍」氏も、日本の泥臭い自然主義には見向きもせず、やはりソローのようなカントリーライフの本を借りていくのだった。

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幻の荒野

その後、予備軍氏は図書館に来なくなった。憧れの田舎暮らしを実現させたのか、あるいは単に越しただけか、それはわからない。数年後、私はかろうじて都心を逃れ、武者小路実篤が「新しき村」を創生した武蔵野に住んでいる。車の免許を持ってないと、田舎暮らしどころではないこともわかってきた。

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ソローのネイチャー文学に車は出てこない。出てきたらあんな美しくない。しかし田舎にガソリン満タンの車が必須とは何という矛盾か。そしてまた、私は、自分と同じような考えが発端になったのかもしれない本に出合ってしまうのである。映画化されていたらしいが知らなかった。ジョン・クラカワー氏が書いた『荒野へ』(写真・集英社文庫)である。

「東海岸の一流大学を卒業したスポーツエリートでもある青年が突然、資産をすべて福祉団体に寄付し、何もかも捨ててアラスカの荒野へ。4か月後、凍てついたバスの中で腐乱死体で見つかる」……


 見返しにあったあらすじ紹介。1992年の本当の事件を追っている。いったい何があったのだろうと強烈に惹かれた。遺体のそばに散らばっていたのは食糧でも服でもなく、本。#ジャック・ロンドンの『荒野の呼び声』や、#ソローの『森の生活』があり、死者の手で線やメモが残されていたという。

森の生活ほか

青年がなぜ亡くなったのかは、クラカワーが結末で解いている。それよりも、登山家でありドキュメンタリー作家であるクラカワーが、青年の心の軌跡をたどるために、青年がバイトしていた会社の同僚や近所の人々に丹念に取材していった記録が印象に残る。

・東海岸からアラスカ荒野入口までは自分の車で行ったが、そこから先は「これは廃棄者です。ほしい方はどうぞ」と張り紙をして、バックパック一つで荒野に入っていった。(富士の樹海に入る若者のようだ)

・途中で地図を捨てた。地図さえあれば荒野で道に迷うこともなかったのに。クラカワーは、「アレックスは地図にない場所を探したかったのではないか。だが、今は地球のどこにも未開拓の地などない。そこで頭の中だけでも原野にするために地図を捨てたのではないか」と興味深い考察をしている。確かに地図がなかったら一歩先は白い闇。わくわくする未開の地で冒険が始まる。
 

人は、見たいものを見る。見たくないものは、「捨てて」しまえば見なくて済む。

ロンドンはただの飲んだくれだった?


クラカワーは、そこからさらに、青年の頭の中だけでつくりあげられていった「幻の荒野」に言及する。
遺品の日記に、ソローやロンドンへのあこがれが綴られており、実際に読みさしの本もあったことから、彼らのような荒野の冒険、地図のない田園の暮らしに憧れてアラスカの原野に足を踏み入れていったことは容易に想像できる。まさに、ロンドンの小説『荒野の呼び声』のように。
だが、現実と小説は違う。実際に犬ぞりを駆って金鉱堀をしたジャック・ロンドンは、荒野でマッチを失くし、凍死にいたる男の所作を美しい短編で著わしている(『焚火』)が、金鉱堀でもうけた後のロンドンは、ただのでぶの飲んだくれになった。ロンドンのファンなら誰でも知っているが、青年は、それを故意にも見逃したのだと。「故意」という二字が恐ろしい。

そして私は思い出したのだった。ソローの『森の生活』について、友人にすすめたとき、「これ面白いよ。でもなぜ都会人のバイブルなんだろうね。全人類のバイブルじゃないの?」と尋ねながら貸したのである。一読、友人は、「文章は美しいけどふざけるな。田舎暮らしは別荘じゃない。だいたいこいつ、都会で暮らすより田舎暮らしのほうが人間らしいといってるけど、そもそも2年しか暮らしてないじゃん」

えっ 2年? ソローって都会を捨てて一生湖畔で暮らしたんじゃないの?


よく読むまでもなかった。見返しにもあとがきにも、家計簿にも2年ぽっきりの歳月しかないことは明らかに書いてあった。2年で逃げ帰ってくるんじゃ自分のヒーローにならないから、私も故意に見逃していたのである。

実際の田舎暮らしはとてもハードなもので、「引退したら田舎暮らし(農業)」はそれこそ幻想だと、雪国出身の友人は言う。いつかと憧れるヒマがあったらすぐ始めたほうがいい。体力のあるうちに。仕事や食料は近所の地縁からやってくる。だから孤独はありえない。孤独で、友人ひとりきりで、暖炉の火を見つめながら本を読んで暮らすのは、都会でしかできないのだと。ソローの『森の生活』はだから「都会人のバイブル」で、海山の厳しい自然と戦っている人々には、まったく別荘暮らしの絵日記に過ぎないのである。

もしもどうしても「荒野で大冒険」がしたかったら、入念な準備が必要だろう。もちろん地図を捨ててしまうなんてありえない。地図、コンパス、防寒着、テント、固形燃料、炊事道具、狩猟道具、今なら携帯電話。それをバックパックに詰め込んで歩いたら、「動く都会」みたいなもので、どうしても自然には還れないのである。
大学生だったアレックスは、それくらいのことはわかっていたはずだ。小説と現実の違いも。それでも「比喩じゃなく」すべてを捨てたのは、自殺だったのか。私は、

あるから頼ってしまうのであって、なければ自然の野生がよみがえり、人間も狼のように、自然と一体になって暮らしていけるのではないか―― 

そう、アレックスが信じたように思えてならない。その結果が餓死だったわけだが、かつて人間は、葬式もなく、自然にかえっていったわけだ。それと同じ運命をアレックスがたどった――そう思いたいのだが、うちすてられたバスの中で亡くなっていたことに、最後に彼が頼ったものを思い、やるせない。バス。自然を蹂躙する道路の上を走るもの。

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本で書かれる自然は「舞台設定」に過ぎない

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