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『REZ』以降のテクノとクラブ 前編


〜94年3月

 「REZ」「ACPERIENCE」「BARBARELLA」の衝撃から感じとれた《遠くの国で起こっているすごい何か》が日本に上陸した最初の記憶は、間違いなくCLUB VENUSが招いたダレン・エマーソンの来日だったと思う。それはテクノもハウスも素人も玄人も関係なく、みんなが驚き興奮した瞬間であり、未来を期待したくなるような出来事だった。私達の世代の大半がここから始まったような気がする。石野卓球氏がうるさく唱え続けてきた新しい《テクノ》というものが凝縮された電気グルーヴの『VITAMIN』から流れてくると、もう誰も素直に反応せずにはいられなかった。とにかくすべてが知りたくて、レコードやCDに貪りつく日々……。
 そのうち大阪発で当時まだ21歳の田中フミヤ氏の〈とれまレコード〉から、卓球MIX入りの限定500枚のレーベル1番目のレコードがリリースされ、瞬時にして完売。それを受けるように東京からは〈フロッグマン・レコード〉が発足。それを記念した大晦日〜元旦の渋谷FFDでの「スペシャル・フロッグ」には600人もの人々が集まった。現在はまったく違う位置にいる人達も、みんな一緒になって何かしでかそうとしていた時期だった。

 しかしこの頃クラブ側の人間は、急激に増えつつある電気グルーヴ経由のテクノファンを迎え入れる体制をみせる反面、ひどく警戒していた。「若者に新しい音を」などと言いながら、ほとんど信用されていなかったように感じる。昔からそこに居た人達はその場所を、新しく来た人達はやっと見つけた遊び場を、お互いに守ることで必死だった。
 この頃の話題の人物といえばエイフェックス・ツイン異常な作曲数と奇妙な発言で注目の的となる。ヒットしたのはアトランティック・オーシャンの「WATERFALL」。誰もが買っていました。そしてここに至るまでの流れの集大成として「テクノボン」(野田努・石野卓球著)が当初の予定より大幅に遅れて発売。しかし若い人の反応は意外に少なかった。

 まだこの頃は準備期間の段階のようなものだったので、来日アーティストも数少ない。12月の終わりにデトロイトからライブを行うためにやって来たURや、3月にDJとして来日したレフトフィールドのポール・デイリー、そして同じ頃にはホアン・アトキンスがひっそり日本にやって来ていた。
 とにかくのちにいい思い出として語られるにふさわしい、トランシーな音とかピュアな雰囲気とかそういうものが一番自然に生まれていた時期。そう考えるとこの頃から「LYOT」「RED BULL」「MIMAS」「CHANGES OF LIFE」などを一列に並べてコンピとして出していた『TRESORⅡ』はやっぱり少し異質だった。

94年4月〜94年8月

 そして新たなステップ。オービタル来日!の事件。渋谷ON AIRいっぱいの人達が、まるで子供みたいに目を輝かせながら聴いた「LUSH」や「CHIME」や「HALCYON」は本当に素晴らしく、夢のようだった。ここで一気に加速がついた。デイヴ・エンジェルもドラム・クラブのチャーリーもジャスティン・ロバートソンもDJをしに来てくれた。そして楽しかった。
 我らが電気グルーヴは、テクノ初心者のためのわかりやすいコンピレーション・アルバム「テクノ専門学校」をソニーからシリーズ化。3大テクノレーベル〈RISING HIGH〉〈WARP〉〈R&S〉のバッヂ(おまけ)が大好評となった。雑誌方面では「REMIX」を辞めた平田知昌氏がクラブベースの雑誌「LOUD」を創刊させ、周囲をビビらす一方で、テクノベースのミニコミ「DELIC」はKEN-GO→氏が辞めたことにより、自然消滅する。

 これらの出来事は今からすると重要な歴史のひとつではあるが、当時はそれほどたいしたことには思えなかった。そんなことよりもっと近くについて……7月の新宿リキッドルームのオープン、来たるべきトランス・サマー襲来のことで頭がいっぱいだった。リキッドルーム開店一発目はなんとアンダーワールド&ドラム・クラブ。誰もが言うように、たいしてよくなかった1日目に比べて、人も大入りでダレンのDJも聴けた2日目の方が圧倒的に盛り上がった。その興奮を維持させたまま、ついに石野卓球氏が自分のパーティー「TAB」をスタートさせる。

 とにかく素晴らしい夏だった。みんな大好きだった「BARBARELLA」のスヴェンもイエローのパーティー「ZERO」が招いてくれた。心待ちにしていたアンディー・ウェザーオールの来日は中止になったが、それすらどうでもよかった。私達には夏があったし、その夏の真っ盛りにはデリック・メイがやって来たから!
 ダンスミュージックの喜びが、熱い空気とともに一気に膨れて頂点に達した。とにかくはじけたこの季節、クラブではトランスとアシッドハウスしか聴かなかったような気がする。ヒットしていたのはエンピリオンとか、今やハッピー系のアイドル、ドイツのYO-Cことマイク・ヴァン・ダイクとか……。当時の記憶といったら、Tシャツ、エビアン、リキッドルームのクーラーの匂い、明け方の外の蒸し暑さ、頭で鳴り続ける「DO DA DOO」。その程度しか思い浮かばないくらい頭が真っ白になるまで踊りまくった。両手だって、もう挙げずにはいられなかったのだから。
 そして最終兵器となる予定だった「テクノ専門学校〜R&S講座」はC.J.ボーランドが急病のため欠席となり、ボーランドのお詫びの言葉とソースのヘタクソDJとサン・エレクトリックのライブによって、怒涛の夏休みは静かに幕を閉じた。  

94年9月〜94年12月

 さて、夏休みは終わったものの、まだ熱さは残っています。こなした仕事すべてが話題のハードフロアが来日。しかも呼んだのはハードフロアを日本に広めた張本人、石野卓球氏のイベント「TAB」。人が多いのなんのって!例えレコードのまんまの音でも曲自体が良いので大盛り上がりだった。ここからはじわじわと夏から押し寄せていたハードな音へ一気に交代。ついさっきまでトランスかけてた人達が「もうトランスはダメだ」とアシッドハウス、ハードハウスといった言葉を並べ立てる。
 気温の変化に伴い、よりディープに変化していった時期。10月に入ると、デヴィッド・ホームズがクラブ・ヴィーナスで来日。ちょうど次の日にオープンしたCISCOテクノ店でも特別にDJを行ってくれた。そしてその2日後、東京ではまだ外タレイベントのゲストとしてしか知られていなかった田中フミヤ氏が、月イチで平日のイエローにて「DISTORTION」をスタート。ロンドン帰りのミニマルなセットで客を驚かせた。しかしそれよりもっと驚いたのが、当時TVブロスの記事で話題を呼んだジェフ・ミルズのDJプレイ(ちなみにオーガナイザーは、やはり久保憲司との対立が話題を呼んだコニー・イー)。誰にも似ていないスタイルが、どんなレコードよりも衝撃的だった。

 この秋の来日ラッシュのメンツはかなり凄い。前記の2人の他に、「SHOT IN THE DARK」が売れ売れだったローラン・ガルニエが疑うほどの激ウマ技を披露し、大好評。そして「年間NO.1イベント」とまで言われたMEGADOGの実現。バンコ・デ・ガイア、イート・スタティック、マイケル・ドッグは無視されるかのように、リチャード・ジェームズばかりに注目が集まる。間髪入れずにやって来たのはデトロイトのカール・クレイグ。イエローと王子3D CLUB BIRTHで計4回のDJを行ったがやや地味だった。あとは94年最大クラブ・ヒット「RED2」のデイヴ・クラーク、エアー・リキッド、マイク・ヴァン・ダイク、ジュノ・リアクターなど。なんだか毎週外国人が来てました。
 それ以外では「テクノ専門学校」シリーズをVOL.3で終了宣言した電気グルーヴが、自分達のツアーのオープニングDJに田中フミヤを起用するという、大胆な試みを決行。しかし、なかなか難しい結果に終わったように見えた(でも私の友達でこれをきっかけにクラブに来るようになった子がいるくらいだからなんらかの影響はあったはず)。

 話題だった人物は「IN THE DARK WE LIVE」やX-PRESS 2のREMIXが凄かった、フェリックス・ダ・ハウスキャット。残念ながら予定されていた来日は中止となる。この頃からDJ、ライターの間では「シカゴ・ハウスがやばい」が連発され、年末へと向かった。
 そしてこの年の外国人任せだった状況に喝を入れるかのように大晦日にON AIRで行われた「GIANT TAB」は、日本のテクノDJ大集合で素晴らしい盛り上がりをみせ、何より心に残るイベントとして多くの人を喜ばせた。  

後編に続く。
『REZ』以降のテクノとクラブ 後編

(SUGERSWEET第8号 1996年7月)

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