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物を所有すること

物を所有することについて考えている。考えているというのは文字通り考えているだけで、答えはまだ出ていない。物を減らす、増やさないというだけの話でもない。昨年急に亡くなった友人の部屋を後日訪れた際に、残された所有物からその人自身がありありと映し出された空間を目の当たりにし、いろいろとショックを受けた状態のままでいる。

亡くなった人の趣味が色濃く出ているCDやレコードや雑誌を大量に残されたら、家族は処分に困るだろう。集めた本人に自覚はなくとも、物の積み重なりのすべてがその人の生きた証になる。訪れる前は形見分けでもしてもらうつもりでいたのに、ひとつでも抜いてしまえばバランスが崩れそうな気がしてできなかった。なんで買ったのかと思うようなレコードにさえ、時代背景や当時のカルチャーからの影響と、長年捨てずに持ち続けたその人の性格が滲み出ていた。所有物が持ち主の代わりにまだそこで生々しい空気を保ち続けているような感覚があった。


若い頃に音楽を通じて知り合った同い年の友人は好きな物もすごく似ていたし、CDの棚なんて陳列の仕方まで自分の家かと思うほどで、Future Sound Of Londonの2ndのレコードと〈Bush Records 〉のレコードバッグと『Trattoria Menu.100』のボックスセットと王子3Dのフライヤーが同居する部屋を見回したら軽くめまいがした。ある一定の時期に同じラジオや雑誌で情報を得て似たような場所に通っていた関東近郊の若者の生態系というか、シーンに特化した90年代特集の記事などでは補えないリアルさを感じた。あくまでも趣味で音楽に熱中し、お金を費やしていた人間の個人の価値観が物のチョイスや配置にまで反映されていて、それはレコードを1枚ずつ査定する行為では決して判断できない領域に潜んだ小さな文化の記録のようにも見える。手放さずにいた物が本人にとっていかに大切だったのかがひしひしと伝わり、それを理解している私は昔のことを次々と思い出しては、目の前の懐かしいレコードの話をできる人がもうこの世にいないことを改めて悔やんだ。

物には制作した人びとの思いと共に、所有する人の思いも宿る。誰かに影響されて、夢中になって探し求めて、やっとのことで手に入れたり、人の言葉に流され、騙されたり妥協したり、時には世の中に反発したりもしながら、最後まで手元に残した物。物はいなくなった人や忘れた記憶を自然と補完してくれることがある。けれどそこに価値を求めない人や価値がわからない者にとってはただのゴミ。重たい。

サブスク主流、物より思い出の時代に虚しさを覚えながら、それでもまだ物を所有し続けたまま現在もなお生きている自分は残すのか。残さないのか。残すとしたら何が必要か。何をいつ手放すのか。いつか自分がいなくなる時には、残した物に価値を見いだしてくれる人がそばにいるだろうか。


#音楽 #エッセイ




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