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【Lisztomania!】Case1:ブート盤とTシャツマニアの話 前編

各地に生息する音楽好きの方々にそれぞれの音楽遍歴や音楽にまつわるあれこれについて
お話を伺う連載企画です。

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 中央線に乗って立川方面に向かい、三鷹を通り過ぎてその次の武蔵境駅で降りる。改札を出て線路沿いを東小金井方面に向かってしばらく歩いていくと、高架下に鳥のマークの丸い看板が目印の「Ond(オンド)」がある。ドアを開けると目の前のショーケースには美味しそうなケーキ、その隣に彩とりどりのデリが並び、珈琲のいい香りがする左手のカウンターではこだわりのクラフトビールも飲むことができる。

 Ondは3つのショップと2つのショップからなる複合カフェで、他にカレーやソフトクリーム、パフェなどもあり、イートインスペースでゆっくり食べることができる魅力的なお店。もちろんテイクアウトも可能。BGMにはRhyeやThe SmithsやWhitenyが流れている。近所にあればいいのに。足を運ぶたびにいつもそう思う。店内の音楽を担当している「markhor DELI(マーコールデリ)」の大八木さんは大の音楽好きで、空いた時間に音楽談義を交わせるのも私がこの店に訪れる理由のひとつ。この企画を思いついたときから初回はまず大八木さんにしようと心に決めていた。話が期待以上のボリュームに膨らんだので初回は前編後編の2回に分けて公開します。


〜Case:1 大八木元太郎(マーコールデリ店員)の話 前編

──今までの音楽遍歴を中心にじっくりお話を伺いたいと思います。まず最初に、持ってきていただいたものを……。

大八木 えっとですね、こんな感じで履歴書を書いてきました。

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──わー、最初からハードルを上げてきた(笑)。じゃあこれを見ながら話を聞いていきますね。

大八木 いやあ、僕ロッキンオンの2万字インタビューとか大好きだったので、ちょうどこのタイミングで自分の音楽遍歴を語れる機会を頂いたのはありがたいですね。最近この店のビール担当の若いスタッフの音楽好きの子と一緒に西新宿に行ったときに、自分がどんなものを聴いてきたか、どんなレコード屋に通って何を買ってきたかを振り返って伝えたんですけど、その作業がすごく楽しかったんですよ。音楽にはまらなかったらこの予算で何が買えたんだろうとか考えますけど(笑)。

──あるあるですね(笑)。車を何台買えたんだろうとか。

大八木 郊外だったら家が建つのかなーとか(笑)。

──このいかにもゼロ年代の若者って感じの写真は何年前ですか?

大八木 これは15年くらい前です。一番クラブに行ってた頃ですね。

──枠外に「りえこちゃん、グラム、スウェード」って書いてあるのは?

大八木 僕は両親と姉2人がいて、普通のポピュラー・ミュージックを聴くようなごく一般的な家庭で育ったんですけど、小学生の頃に親戚の家に遊びに行ったときに10歳くらい年上の従姉のりえこちゃんの部屋に呼ばれて、「今イギリスではこういった音楽が流行っているよ」と教えてもらったんですね。そこでスウェードのブリクストン・アカデミーか何かのブートのテープを渡されたんです。

──でた、大八木さんといえばブート盤!ブートから始まるんですね(笑)。

大八木 そう、スタートから本当に間違えてるんですよ(笑)。小学生でグラム・ロックもおかしいし、まずブートからって時点でおかしいですから(笑)。それを聴いたときに、テレビで流れている音楽とまったく違うし、男性なのに甲高い声、あんな妖艶なギターを聴いたことがなかったので驚いて。当時はユニコーンの後期辺りの音楽は知ってた感じですけど、そこでスウェードとイエロー・モンキーを同時に教わったり、これはあとで気付くんですけど、パルプの「Differrent Class」とかその前の頃のテープも渡されてたみたいです。でもとにかくスウェードは大きかったですね。

──小学生でスウェード!イギリスで流行ってると教えられて、憧れてしまう何かがきっとそこにあったんですね。

大八木 そうですね。ミュージック・ライフみたいな古い洋楽雑誌の切り抜きを渡されたのを見たら、髪が長いし、男性だけどブラウスがはだけて素肌が見えてたり、お客さんにもみくちゃにされていて、なんかやっぱりアンモラルなものというか、あんまりよろしくない人達なんだろうなと子供ながらに感じて。歌詞カードもコピーして貰ったんですけど、失業保険のこととか、公園団地でお金がなくて玉ねぎかじって凌いだとか、小学生にはまったくピンとこないですから(笑)。

──いかがわしさみたいなところに惹かれたんですかね。知らない世界というか。

大八木 小学校の同級生は誰もグラムなんて、スウェードなんて聴いてないですから。共有できる人もいなかったですし。自分の中だけで完結していましたね。

──ちょっと特権意識みたいなのもありました?

大八木 それは僕、ずっとあります。大学に入るぐらいまでアングラなものだったり、マイナーなものを神保町や西新宿に通って自分の足で稼いでいたので、俺はお前らとは違うんだみたいなことをずっと思ってましたね。友達もいなかったので。そこから入り口だったUKの音楽をずっと聴くようになったんですけど、当時住んでた家に隣接した図書館にロッキンオンが置いてあったので、従姉から聞いたバンドのことが知りたかったらそこでメモをして、CDのレンタルもあったので、小学生の頃はそこで借りてテープに落としてましたね。UK以外だとスウェードの直後にグランジ・ブームの後追いもしてひと通り聴いたんですけど、でもやっぱり振り返るとUK一色だったなあと。

──そうですよね。大八木さんの聴く音楽の傾向ってUK全般なんだろうなという気がしてたんです。テクノも聴いてますけど、ドイツっていうよりはUKの音に入れ込むのかなと。

大八木 はい。それこそ……(と、着ていたマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのトレーナーをおもむろにめくってお腹を見せる)ベルトまで僕は全部UKに染めていて。

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──(爆笑)それ、すごい面白いんですけど!

大八木 ちなみにこの中に着てるTシャツはポーティスヘッドです。全身UKでこうやって毎日過ごしています(笑)。

──ははは!そんな人いますー?(笑)。質の高いパフォーマンスをありがとうございます(笑)。いや私、大八木さんが前にリバティーンズのあのジャケットを持ってるって言ってたので、今日それを着てきたらどうしようと思ってたんですよ(笑)。

大八木 ナポレオン・ジャケット(笑)。そう、あれ大学に着て行ってましたからね(笑)。ストロークスとリバティーンズは初来日も行ってて、その頃はバンドもやってたのでこういうのやろうぜって盛り上がってましたねー。

──バンドをやってたんですか?

大八木 そうです。僕はギターで。それこそ数少ないアメリカのインディーものではジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンが大好きで、60年代のTesco MJ2というジョンスぺとまったく同じギターを買いました(笑)。基本的にミーハーなのでバンドTシャツもそうですし、形から入るのが好きですね。

──物に愛着があるタイプというか。物欲ですね。

大八木 それはすごく強いと思います。

──いつもブート盤を買ってるじゃないですか。ブートのどこに魅力を感じますか?

大八木 やっぱり普通に日本で生活してて、NMEとか読んだときに、あ、このバンドは今ヨーロッパ―ツアーしてるんだ、って知っても行けないじゃないですか。そういった時にブート盤を買うことによって、このライブではこんなセットリストでやってるんだ、とか、ドラムが変わったら音がどう変わるのか、とか、追体験をするのが僕にはブートしかなかったんですよね。中学生や高校生では行けないですから、西新宿に行ってブートを買って、行った気になるっていう。あとやっぱり他の人が持ってないもの、近くのユニオンやHMVで手に入る正規盤では満足できなくなってくるとそっちに行くので。

──なるほど。今はどこでもセットリストが知れてね、ツアー動画まで見れるし。すごい時代ですよね。そんなに気軽に見れていいのかって気もするんですけど。

大八木 YouTubeなんて考えられなかったことですから。それで間口が広がったり、地方の子たちが音楽を好きになるきっかけができるのはいいことですけどね。やっぱり我々はなくて苦労した世代なのでね。

──その苦労を同じようにしてほしいなんて思わないですけど、やっぱりその苦労があったからどうしても執着が強くなっちゃうところはありますよね。

大八木 だから僕も現代の中学生からスタートしてたら、ここまでブートを掘ったりバンドTシャツを集めたりはしてなかったと思いますね。で、僕とにかくずっと友達がいなかったので、ひとりで音楽を聴くこと、本を読むこと、深夜ラジオを聴くことで自我を確立していったわけなんですけど、高校に入って1年の頃は自分をひた隠しにして波風立てずに生きていて、高2で人生の大きな転換期を迎えるんです。私服の高校だったんですけど、クラスが変わって新しい教室で席に座ったら、目の前の子の背中に「バットホール・サーファーズ」って書いてあったんですよ。えっ⁉と思って「あのー、音楽好きなの……?」って声を掛けたら、僕の方はボアダムスのTシャツを着てたので「お前ボア好きなの?」って言われたんです。そこから交流が始まって、そいつは学校の裏に住んでいたので、じゃあ音楽が好きなら会わせたい奴がいるからおいでよ、と家に呼ばれて。その初めて出来た友達はなんと双子で、その双子の兄もすごい音楽好きだったんですね。で、家にはターンテーブルもレコードもあるし、見たことのない音楽がいっぱいあったんですよ。それまで自分はひとりでブートを集めてて、ある程度の知識を持ってると思っていたんですけど、そこで世の中を知るんです。で、その子の兄の方の学校の友達も集まって、その家が情報発信基地みたいになってましたね。

──わあ、それいいなあ。夢みたい。

大八木 で、その仲間には小学生の頃にお父さんの影響でニルヴァーナの来日を観に行ったことのあるすごい奴もいて、小2の頃からローリング・ストーンズを聴いてたっていうような。そいつが僕らの中のピラミッドの頂点にいて、海外のインディー事情にすごく詳しかったんです。その双子の家に野郎ばっかり7~8人集まっていたときに、みんなで月に1人5枚ずつ買おうと決めて、1枚はライナーノーツを読むために国内盤で、っていうのを全員でやったら30枚以上集まるじゃないですか。それをみんなでシルクロードみたいに交換し合って、音楽の知識を蓄えようっていうのを始めたんですよね。そうすると自分の予算では買えない分が人から回ってくるので、そこで広がりましたね。あと何よりも音楽好きの友達と遊べるっていうのが楽しくて。

──じゃあその場所に行けば教えてもらえるようにもなって、すごく楽しい時期で、いい思い出ですね。

大八木 はい。で、その友達とバンドを組んで文化祭で演奏するんですよ。クラスのヒエラルキーの上位にいる人達は体育館でメロコアをやって女の子達にキャーキャー言われてて、僕ら底辺組はソニック・ユースをやったんですけど、うるさいから視聴覚室に追いやられて、ただ暴れたいだけのラグビー部員でその部屋が埋まるっていう(笑)。ちょうどその頃に仲良くなったみんなで一緒にライブに行くっていうのが始まって、明治大学の学園祭で人力トランスに行く前のジャンクなボアダムスを観たりもして、貴重でしたね。でもそれと並行して自分の中で好きなUKのライブにも行ってて、印象的なのはレディオヘッドの「Ok Computer」のツアーですね。やっぱりUK好きの中でレディオヘッドはでかすぎましたから。友達の家ではわりとアメリカのオルタナティブな音楽を聴きながらも、自分の中では根本にずっとUKが残っているので。

──核になってるんですね。やっぱりスウェードが残ってるのかな(笑)。

大八木 あとはブリット・ポップも大きかったですね。マッドチェスターもグランジも全部後追いなんですけど、ブリット・ポップは間に合ってるので、あのブラーVSオアシス戦争なんかも直撃世代だった頃で。

──どっち派でした?

大八木 当初はずーっとオアシスでした。あの兄弟喧嘩も含めて面白かったですし。でも歳を取ると共にデーモン・アルバーンのすごさとか、グレアム・コクソンがいかに面白いギターを弾いていたかが年々わかってきて。ゴリラズもそうですし、やってることがヒップホップに近いなと思うのが、デーモンは自分がブラーで成功した後にいろんな若手をフックアップしてるんですよね。テクノのミュージシャンをデーモンが発掘してて、アクトレスっていう僕の好きなミュージシャンもデーモンから教わったり。やっぱり長い目で見るとデーモンってすごいんだなって思いますよね。オアシスに関して言うと、中学校の時はお金がなかったので自分で手書きのオアシスのTシャツを作りました。3枚780円の白地のTシャツを買って、自分であのロゴを書いて、唯一買えたFILAのジャージを着て、外側はブラーで中はオアシスで学校に行ってましたね(笑)。

──その頃からTシャツ愛が(笑)。面白いですね。

大八木 そこからブリット・ポップが落ち着いて、98年頃からはレディオヘッドだったり、スピリチュアルライズドが好きだったので遡ってスペースメン3を聴いてみようとか、あとはやっぱりトリップホップに影響を受けましたね。マッシヴ・アタック、ポーティスへッド、トリッキーとか。

──ブリストル・サウンドですね。まあ暗いですよね。

大八木 その頃ちょうどアメリカでリンプ・ビズキットとかのミクスチャーが流行るんですけど、過剰すぎて体質的に合わなくて。そのときにポーティスへッドみたいな、サンプリングを使っていかに音数を減らして飛ばすかの引き算の美学のほうに興味を持っていたので、それに対抗しようと思って聴いてました。内に籠る音楽が好きなので、アメリカでいうとエリオット・スミスとか、フレーミング・リップスやマーキュリー・レヴなんかのデイヴ・フリッドマン繋がりの音楽を当時は聴いてましたね。

──デイヴ・フリッドマンもうるさいけど内向的な音楽ですもんね。

大八木 ナードだろうな、ギークだろうなと勝手に親近感を覚えてましたね。あとこの頃は豊洲のフジロックにみんなで行って、イギー・ポップのアンコールの「The Passenger」でステージに上がりました。イギーと肩組んで。当時のWOWOWの映像にも僕、ちらっと映ってます。それで騒ぎすぎてうるさくて、メイン・ステージのビョークが怒ったっていうのをあとで聞きましたけど(笑)。

──ビョークを間接的に怒らせたんですね(笑)。でも、話を聞いてるとすごく楽しい高校生活だったんじゃないですか?

大八木 ですね。その仲間と出会ってからは本当にガラリと変わりましたね。で、その後は大学に入るんですけど、最初の身体検査で並んだときに、前にいる人がレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのTシャツを着ていたのでまた話しかけて、一緒に身体検査で回るうちに盛り上がってしまって、そいつの友達と一緒にバンド組もうって話になり、出会ったその日に一緒に暮らすことに決まりました。もう2日後には荷物を持って押しかけて。

──ははは。運命じゃないですか。そのときはどんな音楽ですか?

大八木 ブラーとウィーザーをやってましたね。

──結構明るめというか、元気な音ですね。じゃあその頃は勢いがあったんですか。

大八木 そうですね。あとそのときに初めて大人の友達ができたのが大学の英語の先生で。きっかけは英会話の授業のときに、何かの比喩表現か例題としてポリスの「見つめていたい」を出したんですよね。で、とっさに「あ、スティングだ」って言ったら授業のあとで「音楽好きなの?」と声を掛けられたんですよ。コーネリアスやYMOが好きな方で、音源の交流があったり、自作の音源を聴かせて感想をいただいたりしてましたね。20代後半くらいの先生だったんですけど、そこでクラブの情報が入ってくるんですよ。それまでライブハウスには行ってたんですけど、ダンス・ミュージックはロッキンオンに載ってるプロディジー、ケミカル・ブラザーズ、アンダーワールドは好きだったっていうくらいで。アンダーワールドに関しては多分大久保さんと同じだと思うんですけど、電気グルーヴのオールナイトニッポンで知ったんですね。卓球さんが今のイギリスの音楽はこうだよ、と教えてくれるガチな時間帯があって……。

── おすすめ曲のコーナーですよね。え、それ何歳の話ですか?だって私が高校生ですよ。

大八木 えっと、小学生です。頑張って起きてましたね。深夜ラジオの時間帯の情報って自分から取りにいかないと絶対に手に入らないものですから。夜更かししてるのも楽しかったし、それこそブート盤じゃないですけどクラスの誰も知らないことを知れるのが楽しくて。電気も好きだったんですけど、結局あのコーナーで聴いた「Rez」とかのほうが衝撃的でしたね。

── あれは衝撃的でしたよね。じゃあ既にそこで土台が出来上がってるというか、耐性はあったんですね。で、クラブデビューが始まる?

大八木 はい。大学2年の頃にバイト先の友達のUK好きの子とクラブに行こうってことになって、2人とも初めてなので「お金は靴下の中に隠した方がいいよね?」とか言って(笑)。初めてだからやっぱ老舗がいいよねってことになって、新宿のローリングストーンっていう山崎洋一郎さんが働いていたクラブがリクエストができるみたいだし行ってみようと。で、全然わかってなかったので開店時間の19時に行っちゃったんです。かわいいですよね(笑)。でもその日は結局朝の6時まで半日もいたんですよ。とにかく大きな音が流れて大人の人たちが踊り狂う、バンドが演奏しているわけでもないのに盛り上がって、自分が作ったわけでもない音楽を流す、っていうのがものすごく衝撃的でした。そこから新宿のアシッド、渋谷だったらルビールームとか、そういう場所のイベントに手あたり次第、週3くらいで行ってましたね。そのうちすぐに自分でもやってみたくなって、DJの方に機材は何がいいかとかを訊いて教わりました。

── じゃあもう本当に楽しかったんでしょうね。リクエストができるってことは、知ってる曲が流れると嬉しいって感じなんですか?

大八木 そうです。楽しかったですねー。いわゆるロック側のフロア・アンセム的な曲が流れると最初はそれだけで嬉しかったですし。あと音楽を聴いて踊ってる女性がいるとキュンとくるので(笑)、それもたまらなかったですね。

── DJはレコードでやり始めるんですか?

大八木 基本的にコレクターなのでLPだと場所を取るし、CDで集めてたんです。なので最初に人に借りたのはCDJなんですけど、世代的にPCDJが出回り始めた頃なので自分で手に入れたのはPCDJからですね。その頃クラブに通ってて仲良くなった女の子がミニマル・テクノに詳しくて、プラスティックマンの「Spastik」を勧めてくれたんです。で、最初にあの曲を聴いたときに、自分のオーディオ機器の設備が整ってないから音が足らないんだと思ったんですよ(笑)。あれで正解だと思わなかったので。

── ちょっと壊れたのかな?飛んでる?みたいな音ですからね(笑)。

大八木 で、わからないのが悔しいから掘るだけ掘ってみようと思って、リッチー・ホウティン、リカルド・ヴィラロボス、スティーヴ・ライヒまで辿り着いちゃって。

── ライヒまで。ダンス・ミュージックじゃなくなってるじゃないですか。

大八木 そこでミニマルを極めようと思って、一時期は骨格だけの音楽に行ってましたね。リッチーはいまだに好きですね。

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食べ出したら止まらない
マーコールデリの魔のグラノーラ


── で、社会人になったあたりで、ここでまたブート盤が再加熱ですか?

大八木 使える予算が増すことによって、もう手が付けられない状態ですね。給料を貰ったら最初に電話代とか交通費とか必要最低限のものを計算して剥離して、それ以外を全部音楽にぶち込むっていう生活をしていたので、貯金なんてないですね。あとフェスが始まったのも大きくて、僕サマソニ派なんですけど、それに向けて色々とお金を組み立てて生活してましたね。

── 貯金なんてないですよね。そう、バンドTシャツは何枚持ってるんですか?

大八木 500枚はありますね。

── 500枚⁉それどこに置いてるんですか?

大八木 もう部屋では管理できないので倉庫を借りて、そこに置いてます。自分の中でレギュラーとか殿堂入りのものは手元に置いて、あとは年に1回入れ替え戦があるんですね。大体把握してるので、今度あれとこれを入れ替えようとか、フェスに行くから取りに行こうとかそういう感じですね。

── すごい(笑)。記憶してても、持ってないと思ったら持ってるとか、持ってると思ったら持ってないとか、間違えることはないですか?

大八木 それはないですね。ブート盤だとジャケ違いで同じ公演とか、そういうミスはありますけど。

── 殿堂入りするのはその年の気分によって変わるんですか?

大八木 それもありますし、思い入れとか、それこそ着てたらクラブで女の子に声を掛けられて嬉しかったっていうような(笑)、自分だけの付加価値もありますね。

── このTシャツのおかげでっていう、いい思い出が詰まってるんですね(笑)。じゃあ新しいのを買ったら手元に置いて、また入れ替えると。

大八木 あとはリバイバルもあるので、当時はあんまり好きじゃなかったけど年齢を重ねるごとに好きになったものを取りに行ったり。でも中学の頃からそうなんですけど、普通のお洒落がわかんないですね。裏原系のブランドものとか流行ってたけど高くて買えないですし、自分はそっち系のファッションが似合うと思ってなかったので。基本的にバンドTシャツと、ストーン・ローゼスに憧れてたので下は必ずフレアパンツ、シングルのライダースでバンドの缶バッジを付けるっていう。ずっとこれです。

── 冠婚葬祭以外はそれで(笑)。じゃあ……いくらあっても困らないですね、って言おうとしたんですけどそんなこともないか(笑)。自制が効かなくて、つい買っちゃうんですか。

大八木 それこそ僕が高校の頃って今ほどバンTが高くなかったんですね。高円寺の古着屋の店頭に段ボールがあって、3枚千円とか。お金がないから買ってたというのもあったんですけど。そういうので掘ったものが今だと原宿で5万で売ってたりしますし。当時の古着屋ではバンTはダサいものだという認識でしたからね。そこに反抗心もあって。いやいや好きだから着るんだぞ、みたいな。

── 自分のアイデンティティですよね。UKのベルト然り(笑)。

大八木 やるなら百やる、と思ってるので(笑)。あとは人生の転機でいうと2009年のサマソニですね。ソニック・ステージの昼に僕の好きな65デイズオブスタティックっていうシェフィールドのバンドが出て、あとはミュー、モグワイ、マーキュリー・レヴが出てエイフェックス・ツイン、深夜ステージは砂原良徳、ブルーハーブとゆらゆら帝国だったんですよね。だからご飯とトイレ以外は一日中ずっとそこにいるという。僕の中でフェスって言ったら一番その日が衝撃でしたね。で、そこて踊りすぎて腰痛が悪化して椎間板ヘルニアを発症して、サマソニの2日後に入院して緊急手術するんですよ。お医者さん曰く、来るのがあと2週間遅かったら一生管付きの生活だったよ、と。で、神経がかなりやばい状態だったので首から下が自分で動かせない状態だったんですね。

── えー!何が起きたんですか、サマソニで。

大八木 はしゃぎすぎたんでしょうね(笑)。でブロック注射っていう痛み止めを打たれたんですけど、合法的にとべるチャンスなのかなと思って、その間はスペースメン3だけをひたすら聴いてました(笑)。

── 幻覚を見てた(笑)。

大八木 それからちょうどその頃に日本のヒップホップにどっぷりハマり始めるんです。ブルーハーブはずっと好きだったんですけど、それ以外でいうとS.L.A.C.K.(5lack)ですね。何かの雑誌で野田努さんがS.L.A.C.K.を取り上げてて。

── 野田さんがS.L.A.C.K.ですか?意外ですね。

大八木 そうなんですよ。あのテクノの、オウテカの野田さんが(笑)。確かレビューでフィッシュマンズの名前を出して説明してたんですよ。で、聴いてみたら完全に持っていかれて。日本のヒップホップにこんな人がいるんだ、って。要は、俺ら悪いんだぜでもなく、ブルーハーブみたいに札幌からお前らの食いぶちよこせ取りに行くぜってのでもなく、ほんとに自然体のゆるい感じのヒップホップって初めてだったんですよ。怖くもないし、これなら僕でも聴けるなとハマったのがきっかけですね。あと最初に話した従姉の家が東武東上線沿いにあって、S.L.A.C.K.やPUNPEEは板橋レペゼンって言ってるので、あの沿線に住んでてこの音楽なんだ、って勝手に親近感が沸いてました(笑)。

── ちなみにその従姉のお姉さんとは大人になってからの交流はありました?

大八木 ええと、お正月に会うことはありましたけど、途中からあーやっちゃったなというか、こいつの人生変えちゃったなみたいな感じで、ほぼノータッチですよね。1本のブートのテープで人間ここまで狂うんだって(笑)。

── 影響を与えすぎてしまった罪悪感に苛まれてるかもしれないですね(笑)。

大八木 だからもしかしたら僕の知らないところでうちの両親に謝ってるかもしれないですね(笑)。

[後編に続く]

#音楽 #インタビュー






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