ボリス・グロイス「Trump’s America: Playing the Victim トランプのアメリカ:被害者を演じる」について

今回は、e-flux journal 2017年9月号に掲載されたボリス・グロイスの論文「Trump’s America: Playing the Victim トランプのアメリカ:被害者を演じる」を紹介したい。原文は以下で読むことができる。https://www.e-flux.com/journal/84/150668/trump-s-america-playing-the-victim/ 2年半以上前の論文であり状況は多少変化しているものの、コロナ禍においてそしてBLACK LIVES MATTER運動が盛んになっているなかトランプが悪い意味で存在感を示している現在においても、現状を理解するのに役立つことであろうと考え、急遽本論を紹介することとした。(以前、個人的に本論の試訳を制作していたという理由もある。)グロイスは美術の批評家、理論家であると言ってよいと思うが、本論では美術に対する言及は皆無であり、純粋に社会や政治に関する論考である。本論と内容的に一部重なり美術の問題にも議論を敷衍させた論考として、『思想』グロイス特集に掲載されたボリス・グロイス「思想の言葉 超民主制としてのコンテンポラリー・アート」がある。以下のサイトにおいて日本語で読むことが可能だ。 https://www.iwanami.co.jp/news/n24005.html 
では、さっそく要約してみよう。

私(グロイス)はトランプ現象をヨーロッパの視点から見ており、現代のナショナリズム運動という広い文脈に位置付けてみるつもりだ。ヨーロッパの伝統において政治思想には三つの主要な系統がある。リベラル思想、ナショナリズム(もしくはファシズム)思想、社会主義思想。ネオリベラリズムもしくはグローバリゼーションと右派ナショナリズムとの対立は現代の政治を定義しているように見える。新しい右派と古典的なファシズム運動との差異は、後者は攻撃的で拡張主義的であるのに対して、前者は自己防御的であり保護主義的であるということだ。ポスト冷戦期はグローバリゼーション、つまり脱領土化の時代であったが、新しい右派のイデオロギーは、世界経済と政治への領土的なものの回帰として見ることができる。
少なくとも西洋諸国において主に移民に対する態度が現代の政治風景を構造化している。新しい右派政党の反移民政治は、アイデンディティ・ポリティクスの領土化として特徴づけうるものの効果である。これらの政党のイデオロギーの主要な前提は以下のとおり。あらゆる文化的アイデンティティは、そこで繁栄できそして繁栄すべき自分自身の領土を持たなければならないし、他の文化的アイデンティティからの文化的影響によって妨げられてはならない。世界は多様であるべきだが、世界の多様性は領土的多様性によってのみ保証されうる。
右派プロパガンダは、こうして再領土化され多様化した世界秩序の主要な敵として、グローバル化し脱領土化したエリートを見ている。彼らは、グローバルな金融市場のみに関心を持ち自国の人々に関心を持っていないと非難される。ごく少数の人々はグローバリゼーションから利益を得るが、大多数は取り残される。加えてこの大多数は移民によって危うくされる。この問題にはただ二つの解答だけがあることを我々は知っている。すなわち、社会主義とナショナリズム。グローバリゼーションは二つの形態において自らを提示する。裕福なグローバル化したエリートと貧しい移民である。裕福なエリートに対して貧しい移民と団結するか(社会主義の解答)、貧しい移民に対して裕福なエリートと団結するか(ナショナリズムの解答)。少なくとも今のところ西洋諸国の人々が社会主義という選択を拒否しナショナリズムという選択を受け入れる傾向があるのは明らかだ。冷戦の終焉においてネオリベラルなグローバリズムが社会主義的国際主義に勝利したことの効果である。
社会主義的国際主義とネオリベラリズム的グローバリズムの実際の差異とは、前者が国際的な連帯に基づいている一方、後者はグローバルな競争に基づいていることだ。ネオリベラリズムからネオファシズムへの道のりは実のところとても短い。両者とも競争を信じている。ネオリベラルの人々は自分がつねにこの競争の勝者であるだろうと考える傾向がある。敗者はつねに例の他者であるだろう。しかし、新しい右派は競争の勝者となることにあまり確信を持てず、この確信のなさが彼らをラディカルな右派へと突き動かした。
アメリカにおいて、文化的アイデンティティの概念そして一般的にアイデンティティ・ポリティクスは伝統的にマイノリティの政治に関連している。したがって、それは伝統的に左派的政治として見なされている。だからこそ、白人のマジョリティが右派からのアイデンティティ・ポリティクスを始めたのは驚くべきことであるように見える。だが、両者のアイデンティティ・ポリティクスの理由は同じである。今日アメリカは中国やメキシコといった世界中の国々からの競争に直面していて十分に強いとは感じていない。トランプが受け入れ利用したのはこの弱さの感情である。ここにおいて、アメリカのアイディンティティを救い保護するという問題が急を要するものとなり、アイデンティティ・ポリティクスはマイノリティではなく国全体に専念し始めるため真にネオファシズム的になるのである。
ヨーロッパの伝統では文化的アイディンティティという概念はつねに右派の政治の基本的概念であった。そして、左派から右派へのアイデンティティ・ポリティクスのこうした移行は文化的アイデンティティの論理構造によって開かれる。ここで、アイデンティティ・ポリティクスは「垂直の連帯」と呼びうる現象を生み出す。連帯という概念は歴史的に、搾取階級に対する被搾取階級の闘争に結びついている。それゆえ、階級闘争の文脈において連帯はつねに「水平の連帯」であった。マルクス主義の伝統において階級は生産力の発展における役割を通して経済的に定義された。そして、ある特定の人物との水平の連帯はこの人物が自らの階級を去ると無効化される。アイデンティティの真に左派的な概念は階級のアイデンティティなのである。しかし、もちろん、文化的アイデンティティと抑圧のあり方が被抑圧者の身体に刻み込まれるようになると、事はそう単純ではない。女性間の連帯、黒人間の連帯は、その不利な経済的・社会的地位によって決定づけられた。だが、もし女性が起業家になったり黒人が政治家になったりしたらどうか? 他の女性や黒人はそうした人々との連帯を断ち切るべきか? あるアイデンティティを持った人がトップにまで昇りつめるならば、それは「アイデンティティの格付け」といったものを変化させることを意味する。その格付けは、社会的・経済的成功に対する異なる見込み、そのアイデンティティを持った人の社会的地位に関する異なる想定に関連している。これが、水平の連帯が垂直の連帯へと変容する地点である。
現在理解されているようなアイデンティティとは主観的な態度ではなく系譜的または社会学的事実である。アイデンティティの生産はつねに他者による仕事なのである。系譜学は生態系ecologyに密接に関連している。同じアイデンティティを持った人間的動物の再生産は、この再生産が行われるビオトープの持続可能性を必要とする。右派政党の思考は文化的もしくは経済的というよりもむしろ生態学的なのである。これらの政党は人間的動物を含むように生態学的関心を拡張し、あるアイデンティティの特徴を持った人間の身体の(再)生産を促進するだろう特定の生態系を組織しようとする。領土的多様性と差異への広範な関心は、グローバルな文化市場と特にツーリズムの拡大の効果である。現代の文化消費者は文化市場の多様性と真正さに興味を持っている。この意味において、新しい右派政党は、異なるアイデンティティの特徴を持った人間的動物をグローバルな舞台で競争させる現代のネオリベラルなグローバリゼーションと完璧に共存可能なのである。
今日、我々は19世紀に後戻りしている。グローバル化した市場とローカル化した文化との、インターネットとマリーヌ・ル・ペンとの組み合わせを目撃しているのである。そして19世紀と同様、この組み合わせに対する唯一のオルタナティヴは、社会主義というオルタナティヴである。しかし、このオルタナティヴはグローバルな政治実践において再現実化するにはまだ少し時間を要するようだ。

以上がグロイス「トランプのアメリカ」の要約である。後半部分のコジェーヴやT. S. エリオット云々は、要約が長くなりすぎるし議論が煩雑になるのでバッサリと省略してある。興味深い議論ではあるので、興味のある方は原文を参照してほしい。いくつか個人的に興味深く思われた点を挙げてみよう。まず、トランプなどの新しい右派は自らを弱いものとして理解しているという指摘である。つまり「弱さの感情」に基づいている。彼らはまさに「被害者を演じ」ているというのである。したがって、それは自己防御的・保護主義的だ。それと関連して、第二に、右派による、アイデンティティ・ポリティックスの論理の流用という問題。もともとアイデンティティ・ポリティックスはマイノリティのためであり左派的であったが、今では同じ論理が右派によって、弱い立場にあるとされるアメリカの(マジョリティの)文化的アイデンティティを守るために流用されている。第三に、「水平の連帯」と「垂直の連帯」という区別。階級闘争の文脈において連帯はつねに「水平の連帯」であったが、文化的アイデンティティにおいては、一部の人々のみにおいて階級上昇が起こると、「水平の連帯」が「垂直の連帯」となる。グロイスにおいて、「水平の連帯」が経済的であるのに対し、「垂直の連帯」は文化的であると考えられていると言えるだろう。これに関しては異論もありうるかもしれない。第四に、右派の文化概念を生態学的なものとして捉えている点。それと関連して、領土的多様性と差異への関心において、新しい右派と(文化市場とツーリズムといった)ネオリベラリズムとの相性の良さも指摘されている。最後に、グローバル化した市場とローカル化した文化という19世紀的な組み合わせに対するオルタナティヴとして、グロイスが社会主義という解答を明確に選択しているという点である。彼は垂直の連帯ではなく水平の連帯を指向しているのである。もともとグロイスは1981年に東側から西ドイツに亡命した人であることを考えると、その上でこのような選択を行っていることは通常より重いものであると言うことができるであろう。

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