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クレア・ビショップの論考「情報オーバーロード Information Overload」について

クレア・ビショップが『アートフォーラム』誌の2023年4月号に「情報オーバーロードInformation Overload」という論考(BISHOP, CLAIRE. “Information Overload.” Artforum International, Apr. 2023, pp. 122–89.)を発表したので、久しぶりに(本格的には3年ぶりくらい?)noteを更新してざっくりと紹介することにしたい(ここで論考をすべて読むことができる)。実は「情報オーバーロード」は、約2年前に東京藝大GAでビショップがオンライン特別講義を行ったときの第一日目(学内向けで一般には非公開) のものと同じタイトルであり、内容的にも重なる。したがって、そのときのレクチャーをその後ブラッシュアップしたものがこの論考であると考えることができるだろう。個人的には、藝大のレクチャーを拝聴してとても興味深く思っていたので、いずれちゃんとした論考として発表されるのを楽しみしていた。そして、末尾にあるプロフィールによれば、本論考はVersoから刊行予定の著書『Disordered Attention: How We Look at Art and Performance Today』から抜粋として今回掲載されたという(Amazonによれば来年の8月刊行予定となっており、ビショップによれば、より長いバージョンがそこには載るとのこと)。

ビショップが本論考で論じているのは、リサーチ・ベースド・アートである。国際展や現代美術の展示で近年よく見かけるアート形態ではあるが、ビショップが言うように「今まで明確に定義されたことも、さらには批評されたこともない」。それをビショップがこの論考で行おうと言うのである。ビショップはサーチ・ベースド・アートを定義することから始めている。それはまず、空間的に散らばった大量の素材に裏付けを与えるためにテクストと言説を当てにしていることによって特徴づけられる。さらに、水平の軸(ガラスケース、テーブル)が、垂直の軸(壁)に対して特権化され、全体の構造は、多ければ多いほど良い(more is more)の論理に従い、抽出されたものというよりもむしろ付加的 additive である。そして、ビショップは、そうしたタイプの作品を見ると、ちょっとしたパニックの感覚を覚えると告白している。すなわち、これに目を通すのにどれだけ時間が掛かるのかという不安である。実際これは、ビショップに限らず、国際展などを訪れる観客の多くが抱く感覚であるだろう。彼女のそうした感覚が本論考の出発点となっていることに注意を払う必要がある。

ビショップはリサーチ・ベースド・アートの例として、最初にレネー・グリーンRenée Greenのインスタレーション《Import/Export Funk Office》(1992-93)を取り上げる。そこでは鑑賞者が使用者として、諸断片を探究し、総合し、潜在的には自分自身のリサーチのために素材を活用することさえできる人になることが目指される。そして、ビショップは、そのモデルがハイパーテクストであることを指摘する。当時ハイパーテクストはジョージ・ランドウのような論者によって、ポスト構造主義の作者理論やドゥルーズ&ガタリのリゾームの実現として称賛されていた。グリーンの作品は、ハイパーテクストのように多方向の視聴覚環境をつくり出すことで、(たとえばハンス・ハーケのように)作者の声が作品を支配するのではなく、観客がいかなる順番でも読むことができるようになっているのである。ビショップは本論考で、リサーチ・ベースド・アートを三つの段階に分けているのだが、この作品は、その第一段階に当たるという。

リサーチ・ベースド・アートの第二段階は、第一段階と年代的に重なるが、新しいテクノロジーとの反比例関係、デジタル・メディアの拒否、すたれたものとアナログのもの(つまり、35mmのスライド、セルロイド・フィルム、レコード・プレーヤーなど)に魅了されることによって特徴づけられており、タシタ・ディーン、マリオ・ガルシア・トレス、ヤン・ヴォーなどがその例として挙げられている。それはある意味、ナラティヴへの退行であり、第一段階のリゾーム的構造から、より慣習的な様式のストーリーテリングへの移行であるという。そしてそれは、しばしば非常に省略的で主観的である一方、自分自身の冒険を選択するよう鑑賞者に求めることはない。ここで支配的ナラティヴへの拒否は、個々の小さい物語への欲望として表れている。そこで、ナラティヴはフィクションと主観的思弁を通して紡がれる。ちなみに、ビショップによれば、ハル・フォスターが「アーカイブ的衝動」で論じていたのはこの傾向の作品であるという。

リサーチ・ベースド・アートの第三段階は、完全にポストインターネット的なものとして特徴づけることができるとビショップは主張する。ここでビショップが参照するのは、デイヴィッド・ジョーズリットの「アグリゲーション aggregation」という概念である(註)。それは、まったく異なる価値や認識論を表しているかもしれない相対的に自律した諸要素の選択と配置のことである 。ビショップによれば、アグリゲーションは「サーチの認識論」を反映していて、アーティストはもはや、自分自身のリサーチに乗り出すことはなく、既存の素材をダウンロードし、集め、再コンテクスト化するのみであり、そこではサーチがリサーチになっているという。本来のリサーチは、分析、評価、問題にアプローチする新しい方法を含んでいるのであって、「ググる Googling」ことによってあることを探すという予備段階としてのサーチとは異なっているからである。

(註)アグリゲーションについて詳しくは、デイヴィッド・ジョーズリット「アグリゲータについて」大森俊克訳、『美術手帖』2017年10月号、もしくは同じくジョーズリット執筆の「5 グローバル化、ネットワーク、形式としてのアグリゲイト」『ART SINCE 1900 図鑑 1900年以後の芸術』東京書籍、2019年を参照のこと。ちなみに、オクトーバー派第3世代のジョーズリットは、ニューヨーク市立大学大学院センターでビショップの同僚であり、リサーチ・ベースド・アートという文脈において、ジョーズリットによる「アグリゲータ」論に対して批評的介入を行なっているものとしてこの論考を捉えることもできるだろう。

この第三段階の最も典型的な例として、ビショップはヴォルフガング・ティルマンスの《真実研究所 Truth Study Center》(2005-)を挙げている。そこでは、第一段階における「公共図書館 free library」美学は、コンポジションに対する、より注意深くて凝ってさえいるアプローチによって取って代わられていて、《真実研究所》において我々は、ガラスを通して情報を読み取ることができるだけであり、それを手で扱うことはできない。アーティストによる配置のフォーマリズムは、素材同士の間に把握すべき結びつきがあること、真実はそこにある the truth is out thereということを示唆している。しかし、それぞれのガラスケースのなかにある素材は、ワードクラウドの視覚的類似物を形づくり、一連の特定の関係性というよりもむしろ漠然とした印象を伝えるのみである。それぞれのテーブルは実際上、インターネットにおけるサーチを物質的に再フォーマット化したものであり、展示されている品物同士のつながりは、主観的好奇心とアルゴリズムの合成であるように見えるという。

ここでビショップは、冒頭の不安もしくは「ちょっとしたパニック」に戻り、我々観客は、90年代のビエンナーレ・ブーム以降、ますます巨大化している展覧会を見るのに困難を覚えていると述べ、それを「アテンション・エコノミー」の問題と結びつけている。我々は日常生活において、スキミングやサンプリングといった技法を通してなんとか大量の情報を処理しているのであり、インスタレーションにおいて大量のテクストが展開されるとき、それは、感覚上の小休止というよりもむしろデータ・オーバーロードの継続として体験される可能性が高い。観客はそうした展示に対して「ポストデジタルな疲労」を感じているとビショップは主張し、多くのリサーチ・ベースド・アートのあり方に疑問を呈する。

さらにビショップは、リサーチ・ベースド・アートの前衛であり、その第四段階を示しているかもしれないものとして、フォレンジック・アークテクチャー Forensic Architecture を取り上げる。それは、大学(ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ)に拠点を置いていることもあり、アカデミック化したアートであるという。フォレンジック・アークテクチャーは第一段階の作品と多くの共通点を持つものの、自らの制作物を観客個々の読解や解釈に委ねることなく、その論理的結論に至るまで観客の手を引いて導いていく。そこには、あいまいさや異議申し立ての余地はない。ビショップは、フォレンジック・アークテクチャーを非難するつもりはないと述べその意義を認めるが、どちらかというと批判的である印象を受ける。それはアカデミックなリサーチであり、ギャラリーでの鑑賞者の体験はいまだ、多すぎる情報を処理し視覚化する訓練のように感じられるというのである。

さまざまな形態のリサーチ・ベースド・アートを批判的に論じてきたビショップが、理想的なリサーチ・ベースド・アートとして挙げるのが、エジプトのアーティストであるアンナ・ボギギアン Anna Boghiguian(森美術館の「アナザーエナジー」展に出品していた作家の一人)の作品である。彼女のリサーチは、身体化されていて、持続に関わるという。彼女のすべての文学的・歴史的・哲学的読解は、これらの出来事が生じた場所で費やされた時間に基盤を置いていて、彼女が描きデッサンするすべてのものは、現場でもしくは自分自身の写真からつくられているからである。ボギギアンの作品は、サーチとリサーチの間、そして情報のアグリゲーションと独自の問い方との間の差異のいくつかを指し示していて、芸術的特異性 artistic idiosyncrasy を受け入れる。リサーチ・ベースドのインスタレーションにとって最も豊かな可能性が出現するのは、以前から存在する情報が単にカット・アンド・ペーストされ、アグリゲートされ、ガラスケースのなかにドロップされるだけでなく、世界を手探りで進む特異的な思考家によって新陳代謝されるときであり、それを行なっているアーティストの代表がボギギアンであるとされる。アーティスティック・リサーチは、二つのやり方でアカデミックなリサーチの制約に逆らうことができるとビショップは述べる。一つは、個人的なナラティブを容認し、フィクションとつくり話 fabulation を通して真実への客観的な関係性に異議を唱えることによってであり、もう一つは、単に情報的であるものを超える美学的形式においてリサーチを提示することによってである。その二つを総合しているのがボギギアンであると考えることができるだろう。

これが大体の内容であるが、個人的な感想を言うならば、リサーチ・ベースド・アートという、よく見かけるがきちん論じられたことのないアート形態の特徴を明らかにし、その上で三つの段階に分類してそれらの差異を示したことに、この論考の最も大きな意義があるだろう。これをきっかけとして、リサーチ・ベースド・アートに関する議論がさまざまな場所で進むかもしれない。しかし、本当にアンナ・ボギギアンの作品が、ここで論じられた他の作品に比べてリサーチ・ベースド・アートの最良の例であるのかに関しては、ビショップの論証を読んだ上でも必ずしも説得されず釈然としないところがある。芸術的特異性や身体化の重要性を強調する点など、良くも悪くもビショップの古典的な側面が出ている印象がある(そもそも『人工地獄』も、作家の特異性や(ランシエール的に解釈されたものではあるが)美学を参加型アートの議論に導入した点に大きな特徴があった)。とは言え、近ごろ日本において佐々木健や工藤春香といったペインターが、リサーチを身体化することを重視しつつ、リサーチ・ベースド・アートと呼んでもよいだろう作品を展開していることと合わせて考えるならば、そうした議論も理解できる部分がある。いずれにせよ、本論考は、リサーチ・ベースド・アートについて今後考えていく際、必ず参照されるべき(そして批判的検討を加えられていくべき)基礎文献となることは間違いないだろう。

本当は、藝大レクチャーとの異同や、そこからどのように発展したのかなども指摘できたら良かったのだが、さすがにそこまでの時間の余裕はない(もうすぐ授業が始まるので……)。読んだばかりできちんと咀嚼できていないところもあるだろうし、いろいろ端折っている部分も多いので、興味を持った方はぜひ原文を読んでみてください。


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