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Emma Bennett 絵画という静物

(http://www.emmabennett.info/ ) エマ・ベネットの作品画像はこちらからご覧ください。見比べながらお読み頂くと伝わりやすいかと思います。


Daniël Seghers - Bloemenkrans - MSK Brussel


 −静物画 (Still Life)

 エマ・ベネットの作品を見た瞬間に誰もがその絵をこう名指しするだろう。黒く塗られた背景に花や動物の死骸などいかにも静物画らしいモチーフが浮かび上がっている。だが写実的に描かれた対象とは対称的に画面の構成は抽象的である。私たちは次いでこう考え始めることになる。

 −これは静物画なのだろうか?

 冒頭のダニエル・セーヘルスの作品と、ベネットのホームページのトップ画像(2016年2月15日現在)、『Stung(2011)』を見比べると、絵の一部をそのまま模写したかのような類似が見られることからも16,17世紀の静物画を引用していることは間違いないだろう。

 静物画と一口に言っても、古代から現代に至るまで動機や概念の異なる多様な試みがなされてきたが、特にベネットが扱っている16,17世紀の静物画を今回は静物画と呼ぼうと思う。

 その16,17世紀静物画というジャンルを一般化することが許されるなら、その多くに好んで用いられるモチーフに、摘まれた花やこれから腐りゆく果実、人間の頭蓋骨や動物の死骸などが挙げられる。

 静物画は、上記のような失われ行く美しさや命を描き、絵画として保存することで、逆説的に命の儚さ(ヴァニタス)を表しているというような語られ方をする。時計、パイプ(の煙)やロウソク、宗教的な象徴など、時の変化や命が無常で儚いものであることを寓意的に読み取らせるものを絵の中に取り入れるのもそのためであり、当時はそういった儚さを表すことが静物画を書く際の暗黙の了解となっていた。

Flowers in a Vase. Netherlands, between 1606 and 1684. From the collection of Count Karl von Cobenzl, Brussels. Bought by Catherine the Great in 1768


 また、静物画が試みた「現在・この瞬間」を保存しようという企ては当然、写真のような十分にリアルな実在感(本当らしさ)をその画面に要求する、つまり細密で写実的な絵を描く技術が必要とされた。

 富や豊かさが無常であることを示す絵には、より多様な種類のものが台座の上に乗るため、様々な性質・質感の対象を描きわける技術を示すという目的が存在していたが、その際に描かれる対象は台座に並べられたものだけであり、細密な描き分けや実在感の演出には当然背景の描写などが邪魔になるため、背景は控え目な色や、黒、それに近い暗色・影のような色が中心になっていくことになる。

Cornelis de Heem - Unknown

 静物画から儚さと写実性という二つの要素を見つけることが出来たが、これらから直接ベネットの作品を説明することは難しそうである。儚さを描いていると言われればそうともとれるが、それならば扱われる対象に頭蓋骨や聖書も含まれるであろうし、現代においてわざわざ16,17世紀の静物画からモチーフを引用する理由も判然としない。背景に関しても一見すると他の静物画と同じ目的のため背景に黒を選んでいるように思われるが、17世紀後半のオランダ静物画の明暗を更に強くしたような(コルネリス・ド・ヘームの静物画の最も明暗の激しい絵のような)徹底した黒によるコントラストは、ヘームが生まれる20年ほど前に(そしてその父で同じく静物画家ヤン・ダヴィス・ド・ヘームがまだ幼子の頃に)その生涯を終えた画家、カラヴァッジョの背景と対象の描き分けをむしろ想起させる。


 実際、明暗の激しい静物画はカラヴァッジョらの大きな影響の下で形成されたバロック絵画の中で製作されている。またその技法本来の意図は彼の絵画の中にこそ際立って発見されるものである。そして、カラヴァッジョからの技法的・思想的な引用を確信させるのは、彼女の作品『And, Afterwards』(2009)(=上の画像。ベネットのHPでも確認可能)と、カラヴァッジョの作品『聖マタイと天使(聖マタイの霊感)』(下の画像)を見比べたときだ。カラヴァッジョの天使の衣の部分だけが、ベネットの絵の斜めに連なるイメージの右端に描かれていることがわかる。このことは偶然の一致ではないだろう。

The Inspiration of Saint Matthew - Caravaggio

 カラヴァッジョの明暗のコントラストでよく指摘される劇的効果の本質は、出来事の要素のみに光を当て、諸要素の因果関係のみを抽出することで、出来事・事件そのものを絵画によって生起させることにある。彼の強烈な明暗法はテネブリズムなどとも呼ばれ、特にその効果が有効に使われている作品は1600年以降に描かれた宗教画の数々であろう。

 宗教画の目的は聖書に記述された出来事を、現前させ追体験することにある。彼の生々しく現実性を追い求めた細密な描写が、絵画のリアルさに一役買っていることは確かだが、強いコントラストの光と影が絵画の構造の根底で重要な役割を担っている。このことを20世紀の美術史家、ロベルト・ロンギは、「フォトグラム」、「ルミニスム」、「リアリスム」などの概念/言葉を使って説明した。それはどんなことかというと、つまり出来事の瞬間に人が捉える視野は、投射したスポットライトのように目撃した部分を照らし出し、他の部分はぼやけている。そのため出来事を真に(視覚経験に近く、というより視覚経験を引き起こさせるために)リアルに描こうとしたカラヴァッジョの絵画の光と闇のコントラストは強くなる。

 ロンギの言葉を借りれば、「網膜は、それだけではつねに曖昧でぼんやりとした視野しかもたないため、真実を伝える鏡のなかにあらわれるように、視野を切り取って浮かび上がらせればよいのではないか」(1)「こうしてカラヴァッジョは―ほとんど科学的発見であり、いずれにせよある一つの実験であったが―彼特有の経験に基づいた「視覚の箱」を発見するに至った」(2)。これがカラヴァッジョの背景の黒の重要なポイントと言えるだろう。ロンギは19世紀にはじまるモダニズム絵画における「視る」ことへの問いに近いものをカラヴァッジョの中に見出していたといえる。

 実際に、視覚(その眼球の絶え間ない移動と視覚系の情報処理)において、見ることというのは同時に他の何かを見ないことを意味する。視界にあるすべてのものを凝視することは現実には不可能だ。人は9つの文字を瞬間的に見た場合、4~5つまでしか記憶することが出来ないという実験結果もある(3)。このことは視覚と記憶に問題がまたがっている事を示している。

 記憶というものは時間の経過で失われるか変形していく。私たちは何気なく出来事を経験するが、その出来事の全体を一挙に捉え(視)ているわけではないし、すべてを完全に脳に焼き付けることも出来ない。出来事の体験は持続的な時間の中で生起する情報とその記憶の集合であると言える。出来事は感覚器官(たとえば眼球)から常に断片として知覚され、記憶され、それを繋ぎ合わせること=想起することで記憶、時間的経験がそのつど私たちの脳に統合されたイメージとして生まれる。

 つまり、カラヴァッジョは出来事を記述する複数の要素(本来時間・空間的に隔てられている※たとえば、友人に出会って立ち話をしている途中で猫が道の反対側にいることに気づいた。これを一挙に捉えることは出来ない。またこのときの友人の服装を仔細には視ていない。)を、光を投射することで描き、劇的なコントラストによって配置した。断片的な記憶の統合のように、経験する出来事として絵画を視させた。

 画面は確定された時制や空間をもたず、それゆえ我々は絵画の前で、絵画の内部で起きている事件に、まさに目の前で起きた出来事のように没入する。言い換えれば、(一見するとひとつの客観的な場面を現しているように見える)複数の時空・記憶に所属するイメージ群は、その都度、鑑賞者にその事件(出来事)の時間を再構成し、歴史を記述・想起することを要求することになる。

 ベネットの作品に目を戻そう。カラヴァッジョとベネットには見かけやモチーフ以上のつながりは見つかるだろうか。ベネットの絵画にはカラヴァッジョのように想定される場所や、目撃される出来事は存在しないようだ。対象は必ずしも台座の上には落ち着いておらず、台座をもつ場合も、そのほとんどの部分が背景の黒に飲み込まれ、敷かれた布が垂れ下がることで、台座の輪郭を示す程度である。そして17世紀静物画において台座に並べられていた静物は、画面の至る所に配置される。壁にかかっているのか、そもそも空間自体が存在するのかは背景の黒に塗り潰されて認識できない。

 もう少し詳しく彼女の作品を見ていこう。するとすぐに描かれた対象=イメージが水でもかけられたように滲み、伸ばされ、色が背景の黒に溶け出している箇所が見つかる。更に小さな船が(黒に塗り潰されて本当にそうか判然としないが)水面を切ったような波紋を浮かばせて描かれている。ここには花や果実、布といったイメージが背景の黒い水面に溶け出してしまう。という構造が見て取れる。

 また一方では、未だ青々とした花や果実が炎を上げて燃えている絵もある。これも背景の黒が理解の助けになるだろう。草花は燃えてしまえば黒い煙と灰に変わってしまう=背景の黒に溶けて同化してしまうだろう。つまり、ここで描かれた静物を支えているのは台座や現実の空間ではなく、黒く塗り潰された何もない画面なのであり、更にここでの静物とは描かれた現実の対象ではなく、それを形作る(溶け、滲むところの)絵具、そしてその絵具を用いて17世紀から引用され描かれた静物やカラヴァッジョの天使の衣といったイメージ自体である。カラヴァッジョが光で浮かび上がらせ、観る者の前に現前=時間化させたのが「出来事」だとすれば、ベネットは「17世紀に描かれた静物画を中心とした絵画」に光を当て、切り取り、現前させる。

 両者の絵画は共に不可視の闇に支えられているとして、カラヴァッジョの描く出来事=視覚の不可視に対し、ベネットによる引用された絵画にとっての不可視の領域とはいったいどんなものだろうか。彼女の絵画において黒は背景だけにとどまらない。花の上にもポタポタと黒が虫食いのように散らされており、また花々・布・草の表面、果実の傷口に至るまで、あらゆるところに表れる無数の襞も同じく黒く塗られている。参照したであろう静物画と比べてみても、その襞の数と強調された陰影は特筆すべきものがある。

 ジル・ドゥルーズは、バロックを線の操作により無限に増えていく襞だと語った。この理論に直接的に依拠するとは言えないが、同じくバロック芸術を扱うベネットの画面における強調された襞を見れば、このドゥルーズの理論を無視することは出来ないだろう。ドゥルーズが使う襞という概念の根底にある意識は、宇野邦一訳『襞:ライプニッツとバロック』(2015)の訳者あとがきから引用すれば「襞という概念は、まず世界を構成する果てしない、ただひとつの布地を想定させる。襞がその布地の襞である限り、この襞(内)は、この布(外)と決して分離することが出来ない。」(4)「思考そのものが、つねに記憶の中に無数の襞を発見する過程であり、襞を拡げてはまた折り畳む試みである。襞は思考を可能にする無限の潜在性であると同時に、思考を妨げ困難にする錯綜した曲線の広がりそのものである」。(5)というものだ。

 ここで語られた「布」を黒く塗られた画布、「襞」を描かれた静物として読めば、ベネットの作品における「引用された絵画にとっての不可視領域=黒」にもそれが当てはまる。引用されたモチーフを支える布=台座となっているのは、想起されなかった引用されなかったモチーフの可能性の全体である。それらはいつか統合され意識にのぼるまでは認識されず、潜勢力として黒く塗りつぶされた盲目的な意識下の中に隠れている。

 ベネットは「絵画という静物」を描かれなかった無数の可能性を台座にした上で、事件記述的=想起的に描くことで宙吊りの状態で生きさせている。作品の中で、死んでいる兎が無邪気に走っているようにも見えてくる。

 当然いくつもの疑問が浮かぶ。たとえば17世紀静物画を断片化させ、再構成しているとして、引用元の絵画を想起させる、あるいは襞として表れることのなかった潜在的な可能性を示すとしても、この効果は引用元の絵画の数々を知っていることが前提になっているのではないか。しかし引用元の知識が作品の理解=作品が描かれた際の思考過程、選択や非選択を辿る手がかりになることは確かだが、鑑賞する=断片を結びつけイメージを読み取る際に、必ずしも引用元の知識が必要であるということにはならない。

 前提として何かを鑑賞するに際して、考えること知ろうとすること=絵画の思考を理解しようとすることが必要になるのは、どんな芸術に触れるときも同じだろう。

 今まで考察を重ねてきたことは、ベネットの作品全体に適用される技法と構造についてであって、作品ひとつひとつの考察とは、密接ではあるが同じではない。個別の作品は個別に鑑賞され、語られる必要があるだろう。

 ここでは作家の紹介に留め、筆をおくことにする。

(1)ロベルト・ロンギ「カラヴァッジョ(抄)」『カラヴァッジョ 鑑』 岡田温司・加藤花子訳 人文書院 2001年
(2)同上
(3)ジョージ・スパーリング 『The information available in brief visual presentations』 Psychological Monographs: Generaland Applied, 74 1960年
(4)ジル・ドゥルーズ『襞:ライプニッツとバロック』 宇野邦一訳 河出書房新社 2015年
(5)同上
(6)同上

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