長所短所 環境の賽
ある人から見たら短所でも、また違う人から見たら長所である。
ほんとか?
と、懐疑的な私みたいな人間のために、そういうことを謳うポスターには、ちゃんと具体例が示されている。
『大人数だと積極的に話せない…』
「→聞き上手なのかも!」
とか。
因みに今思いついたのである。それくらい印象に残っていない。
そういうポスターは、大体、小学生や中学生の目に触れるようなところに貼られている。
こんなポスターを、1種類ではなく何種類も、私はその時代に見てきた。が、別に、自分が短所だと思うところを長所だと思ってくれる人間がいるとは、到底信じられるようにならなかった。そういうことを教えてくれる大人も周りにいなかったし、友達にはいい顔していたので頼りにしなかった。あのポスターの言ってることは本当なのか?
さすがに私のこの欠点、どんなに美化しても長所になりようがないと思うんだけど、と。
だが、ぼーっと考えてみると、たしかにそんなことは無いような気がしてきた。のが、高校生、ここまで生物学を学んできての感覚である。
何故そんなことを思うようになったか、といえば、ご想像の通り、進化論を学んだからである。というか、進化論の考え方が頭に組み込まれてしまったからである。そんな私の脳内を、以下に。
人間、ここまで種を繋いでくるのに、きっと紆余曲折あったはずである。最初は勿論、餌を採る能力が高くて、警戒心があって、攻撃力の高いのが生き残る時代だっただろう。……この生物は果たして人類と呼べるものだったのか、なんていうことは置いておいて、人類へ続く祖先の中に、そういう時代はあったはずだ。
ただ、現在の人類を考えてみると、群れをつくった人類の方が、その当時、生き残りに有利だったのだろう。おかげで現在の我々は、実質群れじゃないと相当に生きられないレベルになってしまった。事実、身体的に自給自足で生きられても、人は周りの人からの影響が無いと強く孤独を感じ、心体にストレスがかかって不調をきたすものが多いようだ。
だが、そこまで群れという形態に依存的になったのは、やはり長いこと、群れをつくるのが有利な状況が続いたからなのだろうと思っている。群れに大きく依存して、群れといると凄いパワーを発揮できるようになった。勿論そのパワーが中立的なものであることは言うまでもない。つまり、そのパワーは諸刃の剣、良いものでも悪いものでもありうる。言い換えれば、そうしたパワーを発揮した人類が、いついかなるときも生き残りやすくなるか?というと、それはその時の状況次第だ。
群れの中で生きるのが当たり前になった人類の中では、こんなことが起こり得たんじゃないかと思っている。まず、群れに適応的でない因子の自然淘汰及び意図的な排除。たとえば、群れでいるのに餌を独占しようとするやつがいたら、周りが自然とそいつから距離を置くようになってそいつが野垂れ死ぬとか、あるいは群れの構成員がそいつを攻撃して殺すとか、追い出すとか、そういうことが起こっていたかもしれない。
こうした、群れに適応しない因子を排除したいと感じる気持ちが、この中では優位性を持っていたかもしれない。そんな人類がリーダーとして君臨すれば、より多くの子孫を残せたかもしれない。
ということは、仮に、今日の我々が、その、群れにおける異邦人を排除したがる性質を持つ人類なのだとすれば、我々はめちゃくちゃ群れに適応していることになる。我々はまさしく群れに殺されなかった人類の末裔と言えるからである。
今自分が持っている(と思っている)欠点は、群れに殺されるような欠点では無いのだ。
3人を超えたグループの中で会話をするのが下手だとか、なんかいつも空気が読めなくて場がしらけるとか、言われたことのメタメッセージを受け取れないせいで気が利かないとかいう対人コミュニケーションの劣等感も、要領が悪くてやらないといけないことが終わらないとか、いつも方法ばかり探して実験思考がないとか、なんでもかんでも中途半端だとかいう自認するタイプの悩みも、現在に生きる我々が持つ特徴の何もかもが、周りに迷惑をかけた結果疎外されてしまうほどに深刻なものでは無いはずなのである。そういう現実があるのは、ひとえに環境のせいである。人類が一種の生物として、群れをつくって生きる時には大した欠点ではなかったのに、ある環境だと迷惑がかかる特徴になるだけなのだ。
だから我々は、我々が持ちうる特徴のどれも欠点として立ち現れないような環境づくりに勤しんでいるわけである。そういう環境を、探すんじゃなく創り出せるのが人間の大きな特性だ。
だが、ここまでの議論で私は、ある重大な内容をすっ飛ばして議論を進めてきた。
我々の進化は止まっていない。
我々が自然淘汰にある程度抗えるようになってからも、DNAの突然変異に代表される進化は等速で進んでいる。ということは、文明が栄えてから現代までの数千年の間で、もしかしたら群れに適応していない特徴が新たに生まれちゃってるんじゃないの…?私もそうした特徴を少しくらい、持ってしまっているんじゃないのか…?そうしたら、群れに受け入れてもらえなくなる?
そんなことはない。そんなことはさせない。
それが今の我々の生き方なのだろう。
多様性容認。多様性尊重。もちろんあまりに群れの破壊力の強い個体は淘汰されて然るべき、というのが現代の正義の考え方(という独断の解釈)であるが、それでもできる範囲で、人類の暮らす閉鎖世界の中だけででも、すべての人類が"欠点"を立ち現さなくていいように。そうした方針で、私たちは改革を続けている。改革とはそうあるべきだろう。
したがって、この世界に長所短所は無いのだ。
すべて、環境に左右されている。
今や私たちは環境をどうにかしようとすることが当たり前になっているが、私たちの特徴はすべて、環境に依存する。賽は昔は神の手にあった。
人類はいくつかを奪い取って、いくつかを投げる神の手を止めようとしたり、眺めて何が出たか予測したりしていて、いくつかはまだ手の届かないところにある。
ここまで書いて筆をおき、……今再び、大学生として筆をとる。
今この瞬間の環境で、うまく振るまえないから自分はダメなやつなんじゃないか、というのは、進化の観点から見れば、まったくそんなことはない。
まさに環境とは瞬間瞬間で変わるものだ。どこかで、確率論的に、自分の特徴が長所として立ち現れるときがくる。ここでいう確率論的というのはもちろんランダムにという意味であって、その確率が低いというニュアンスは一切含んでいない。
私はこのことを悟ってから、絶対自殺するまいと思った。私がもつ特徴は、きっとどこかでいつか長所となって立ち現れる。ヒトが生まれるときには、天文学的に存在する可能性の中からDNAの組み合わせが出来上がる。ざっと70兆通りだそうだ。そんな確率で出来上がった私は、いや、もはや全人類は、確実に無事に生きるべきなのだ。みんなが同じだけのレアさをもっていようと、ある一人のヒトがもつ固有性の意義は変わらないことがここで重要になる。私は、このレアな自分を最後まで生かしてみたい。生かしておかなきゃならない。だってこの先どう環境が変わるかわからないから。同時に、あらゆる他人をも大事にしたい。その人がそのヒトであるという固有性の意義を大事にしたい。
他者を大切にする理由がよくわからない無知な冷血だった私にひとつ与えられた、人間らしくあることの意味が、これだった。
人間らしくなりたい。夢への旅路はまだまだ続く。