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また顔をあげて飛ぶために。サッカーに救われて日々をつなぐ


先日行われた天皇杯決勝は、最高の試合だった。

一週間も前から楽しみに待ってしまった。

チケットは完売し、満員だという観客席の壮観なこと。赤と青で綺麗に塗り分けられた人の波に、夥しい数のフラッグがはためいている。
二時間以上をTVにかじりついていたのも、久しぶりのことだった。
内容について触れることは避ける。凄い試合だった。そうとしか言葉にできない。
感動する、ってきっとこういうことを言うのだろう。最高の雰囲気に劇的なドラマ。筋書きがあるわけではない、ひたすらにベストを尽くして得たものが人々の胸を打つ。

観たかったものが、そこにあった。

楽しくてたまらなかった。観ることができて幸せだと思った。

今年もこれで終わり。来年もまた、私は笑ってサッカーを観ていたい。
またひとつ、そんな目標ができてしまった。


そろそろ社会復帰がしたいなあ。何かできることないかな。

そう思って、求人情報やボランティアの募集を覗く時間が増えた。見るだけならタダで幾らでもできる。
心を壊して、療養に入ったのは昨年の10月。夏にいちど復帰を試みて、見事に失敗した。それから私は、働くのが怖い。
焦ったって余計に悪くなるだけだと頭では分かっていても、先立つものがなければ生活はできない。このままずっと、働けなかったらどうしよう。不安は拭いようがない。

現実に押し潰されそうな日々の中で、毎週末にやってくる試合は欠かさずチェックしていた。
勝ってくれといつも願っては叶わず。先制しても失点するのではないかと怯え、失点すれば、ああまたかと項垂れ。きっと、今日も勝てない。そんなふうに思ってしまって、自分が嫌になる。
いったい私は何が見たいのだろう。ただでさえ悪い精神状態に追い討ちをかけている。勝って欲しいのに、それを信じられない。負けることに慣れてしまった罪悪感。観ていられず、途中でリタイアして結果だけを追う日もあった。

楽しい、という感情すら失っていた。何にも興味が湧かず、無感動。それでも、なぜ観てしまうのだろう。半ば惰性のようにサッカーを観続けるうちに、時間は流れていった。
毎日、何もできずに日々をやり過ごす中で、「サッカーを観る」という目的を持った時間は救いだった。また来週、観なきゃいけないから。まだ残留できるから。降格が決まって、もう最後だから。そして気付いたら、今年が終わろうとしている。

この一年、どうやって暮らしていたのか、自分でもさっぱり分からない。毎週サッカーを観ていたら、なんだか生き延びてしまった。


好きという想いだけを頼りに、一歩ずつ階段を上っていく。少しずつ、少しずつ、リハビリのような一年だった。

無感動になってさえも、見ないことはできなかった。

惰性でも毎週追い続けるうちに、負けるのを辛いと思う自分に気がついた。リーグ戦の終盤はしんどかった。試合の動きで一気一憂することに耐えられない。でもそれは、感情が動いているからだ。そうやって、心が回復しているのを感じた。

画面越しに緑色の観客席を見ては、あそこに行きたい、と思った。いつも力強い太鼓が聴こえては、一緒に手を叩きたいと思った。行かれない自分がもどかしくて、悔しかった。何かをしたい、と思えるようになった自分が嬉しかった。

90分間を通して観るのは、体力も集中力も必要だ。久しぶりに行ったアルウィンでは、前半でギブアップした。後半戦のDAZNをラジオのように聴きながら帰り、それでも行けたことに達成感を覚えた。また行けばいい、次はもっと体力をつけて、最後までいようと決めた。

来年のシーズンパスを買う資金が欲しくなり、できそうな仕事を探してみる。また無理をしてしまっては観戦できなくなる。好きなことをしたいからこそお金が必要で、優先順位を間違えてはいけないと自分に言い聞かせる。


サッカーが好きだ。自分で思っていたよりも、はるかにずっと。

ベッドを出ることすらできなかった日を思えば、アルウィンに行けるなんて凄いことだ。

一人というのは、いっそ気楽だ。行きたい気分なら行き、いつ帰っても自由だから。
そして、一人だけど決して孤独ではない。ここにいる人の目的はみな同じ、誰に何を気負うこともなく、他のことは考えなくて良い。みんな、松本山雅が好きな人たち。ただそれだけで、そこにいて良いのだ。

Twitterで繋がって知り合った人たちもいる。私は決して絡みが多い方ではない、交流の場に出ていくことも稀な有り様なのに、「薄荷さん」として私を覚えていてくださり、そして声をかけてくださる。心配して、励ましてくださる方が何人もいた。
なんて有難いんだろう。本当に嬉しくて、救われる思いがする。

山雅サポばかりではない。noteを書いたことによって、サッカーを観ていたことによって、出会えた人たち。そこにはただ「サッカーが好き」という想いがある。何も頑張らずとも、好きという想いだけで人の輪に混ざれる。
ちゃんと社会の中にいる、という感覚。

自己肯定感がぶっ壊れた私に、サッカーは居場所をくれた。

何もない空虚な日々を、押し潰されそうな気持ちを、社会との関わりを、繋いでくれたのはサッカーなのだ。

落ちてしまったら、すぐには飛べない。またいつか飛びたいと思いながら、できることを少しずつやるしかない。
もしかしたら、もう飛べないかもしれないと不安になるけれど、そこで初めて見える景色だってある。

来季の対戦カードに想いを馳せながら、そんなふうに思う。観たい試合がたくさんある。行ったことのないアウェイばかりだ。いっそ、当分はのんびり暮らそうかなあ。焦る気持ちがふっと薄れて、心が軽くなる。

ああ、またサッカーに救われている。

上ばかり見なくたって、今しか見えない景色を見て、どうせなら楽しみながら、また登っていきたい。


何もしなくたって明日はやってくる。
冬を越えれば、春とともにサッカーのある週末が待っている。

雷鳥と共にまた頂を目指したくて、顔を上げていたいと思う。


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