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今更ながらPERFECT DAYS

2024年98日目。
「オッペンハイマー」でも「Winny」でもなく、今更ながら「PERFECT DAYS」を観てきました。

修行僧の如くルーティンを務める毎日は、一日も同じ日ということはなく常に新鮮であるように感じることができて、でもそこにはちゃんと感情の起伏もあり、主人公はそれさえも受け入れることで日々充実して生きている。私自身、行動をできるだけルーティン化したいという欲望を持っていますが、それは、世界は常に変化してしまうので、それなら考える部分を減らして変化を楽しんだ方がよいと考えるから。なので、その意味で共感して観ていました。

てか、最後の役所広司の表情、アレどうやって演じたらできるの?笑っているのに泣いたような目とか。

一方で、
少し前に観たアキ・カウリスマキ「枯れ葉」では、ラジオからウクライナでの戦争のことが幾度となく漏れてきていたわけで…

そのことの対比で言えば、テレビもラジオもない、 もちろんSpotifyも知らないこの主人公の人生は社会から切り離されていて、本人もそれを承知で「世界は複数」と語る。そんな、ある意味理想化された隠遁生活はまったく持続できないと(生活保護業務も携わった経験からも)思いました。この理想郷は、瞬間的に現れた、極めて微妙なバランスの上に成り立っている儚いものでしかない。そこに価値がないとは言わないけど、それでいいのだろうか?と自分は思ってしまう。
達観も、社会の中であくせく考えて生きることも、結局は同じところに繋がっている…のだとしたら、自分は後者の方を選ぶ方の人間だと思います。だってその方が面白そうじゃん?その意味では、共感しなかったです。

もうひとつ。
なぜヴェンダースはこの物語を日本を舞台に撮ったのか?先に企画があり、ヴェンダースに持ち込まれた経緯は検索して知っていますが、だとしても、あのような物語にしなくてもよかったはずですし、ヴェンダースは欧米を舞台に同じテーマで作品を制作してもよかったはずです。
ヴェンダースは小津安二郎をレスペクトしているとのことで、小津作品をほぼ観ていない自分にはその影響がよく分からないのですが、この物語は舞台を欧米にしてしまってはリアルではない、あるいは逆に生々しい物語になってしまうから、日本(のようなところ)を舞台にしているようにも感じられます。(そのように感じるのは、今読んでいる三原順『SONS』で、なぜ舞台を白人社会にしているのか?という疑問に重ねてしまっているから…ですね。)

しかしそこには限界もあるわけで、一緒に観に行ったパートナーからは「日本人はあの場面でハグはしない。そこでちょっと醒めた」との感想をもらしていて、なるほどと思いました。

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