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【読書記録】N・Aの扉/飛鳥部勝則

人間は何かを極めると「メタ」を求める。それはミステリマニアも他人事ではない。メタ・ミステリ、アンチ・ミステリはよく聞くが、これは世にも珍しい「ミステリの幽霊」、ミステリーのゴーストだ。

僕が幽霊の話をしたら信じてくれますか? 幽霊は幽霊でも「本格推理の幽霊」なんです。一種の怪談のような、本格推理小説が幽霊になって出てきたような…そんな話なんです-。書き下ろし長編。(Amazonより引用)

というわけで、私が取り組んでいる「飛鳥部勝則ぜんぶ読む」プロジェクト、この「N・Aの扉」をもって「単行本(長編)はぜんぶ読んだ」となりました!!新作が増え、このプロジェクトが再開する日を心から待っています。それまでは短編作品を探して読む仕事に戻ります……。

記録を観てみると、最初に読んだ飛鳥部作品「ラミア虐殺」を読み終わったのが6月27日、そこから「黒と愛」「鏡陥穽」まで読んで、「冬のスフィンクス」「砂漠の薔薇」「バベル消滅」を電子書籍で読破、「誰のための綾織」「殉教カテリナ車輪」「ヴェロニカの鍵」「堕天使拷問刑」「バラバの方を」までをうちの区の図書館で借り、そしてうちの区に蔵書のなかった「レオナルドの沈黙」「N・Aの扉」という順番で読み終わったようです。
本当に、2021年の夏を注ぎ込んだなあ……としみじみ思いますな。発行順とは全然関係ないのですが、この「N・Aの扉」を最後に読んでよかったなあと思うのです。実際の観光としては1999年、3作目なのですが(3作目でこれを書くってどういうことだ、化け物か)

■N・Aの扉

冒頭に書いたように、この作品は「ミステリーの幽霊」、作中の言葉で言えば「本格推理の幽霊」です。
「メタ・ミステリ」と言って皆さんイメージがわきますか? 簡単に言えば「メタ」フィクションは小説の登場人物が「ボクは小説の登場人物だから……」と言い出すような作品です。小説の登場人物が「小説の登場人物」であることを自覚し行動する。小説が「小説である」こと利用したような構造になる。
皆さんが好きかどうかはわかりませんが、人狼ゲームなどのプレイヤー参加型推理ゲームでは、ゲーム内の言動ではなく「普段のあいつの性格から考えて、こういうことをするのはおかしい」といったゲーム外の要因を元に推理することを「メタ推理」と言ったりもします。
となると、「この推理作家の作風上、こいつが次に死ぬに違いない」なんて読み方をする読者は、「メタ読み」です。

あ、関係ないこと書いてると思ってますよね? 違うんだから! 本当にこれがぜんぶ関係してるの、この作品。

だからこそ、「N・Aの扉」は一読すると難解で、推理小説と呼べないという人も出てきそうだけど、じゃあこれが推理小説でなければ何なんだと言われたら「推理小説の幽霊」としかいえないんだな。

物語の始まりは、作家である石塚成文(筆名・速水成文)が小説家としてデビューした際の授賞式から始まる。そこで彼は学生時代の友人の田村とたまたま再会する。田村は今は売れっ子のホラー小説家になっていた。
そして田村は石塚に不思議な話を語り始める。自分がホラー作家になりたてで、2作目を書いていた頃に起きた不思議な物語を――

と、こんな感じで話は進みます。
正直、目次から気持ちが悪かった。

入口 『我らに残るただ一人の女、エヴァ』
第一の扉『N・Aの扉』
第二の扉『それからの孤島』
出口『ここは私の遊び場』―入口ふたたび
あとがき『ここは私の仕事場』あるいは『コウモリと暮らす男』

すべてを読んだあとには、この目次が完全なネタバレにしか見えない。そういうタイプの作品なのです。

この石塚という人物は、投稿小説で賞をとり作家デビューをし、その内容といえば絵画をモチーフにした推理小説らしいのです。ああ、それって、飛鳥部勝則本人がモデルなんだな、と思いますよね。これをすっと思い浮かべられる方が絶対にいいので、この作品は初飛鳥部勝則作品には絶対に向かない、と私は思うのです。

語り部が田村にうつってから、少年時代に田村が書いた推理小説について友人である川合が書いた書評が挿入されます。スタニスワフ・レムの「完全なる真空」のように存在しない作品への書評。これがとても印象的で、書評自体は「中学生なのにこんなしっかりした批評を……?天才じゃん」と思うのですが、推理小説の書評をつかったミステリ作品なので、まあもちろんそういうことなのですよ。すごいな。
※これについては大きなネタバレに関することでもあるけれど「第二の扉」との関連を考えるとぞっとしてしまう。

この作品には死人は出てこないし、大きな謎とトリックがあるといえばあるけれど、考えれば考えるほど「本格推理小説」の構成とは言えないとしか思えない。でも、やっぱりこれは本格推理小説の系譜のなにかであって、「本格推理小説の幽霊」なのだなあと思うのです。

本筋とは関係ない話ですが、田村が創作に行き詰まっていたときに、中学生時代に観たSLが動くと知り、そのSLに乗って新潟から福島に行くのですが、その際に川合を誘ったのが、村山槐多の特別展でした。
お恥ずかしい話、村山槐多についてはこれまでの人生で通ってきておらず(今でもあんまり知らないのですが)たまたま最近になって薦められて「悪魔の舌」を読んだのです。たまたま最近知った作家を、たまたま最近知った作家が書いている。なんやこれ、これが運命なんや……、と不思議な気持ちになりました。
もちろん、最近知ったからこそ、意識の浅いところにとどまっていて余計目についたっていうだけなんだと思いますが、こういう小さな共時性こそ運命なんだと思います。

高いけど講談社文芸文庫か、絶版だけど学研M文庫かで村山槐多の作品集買います……

■飛鳥部勝則ぜんぶ読んで

(短編はまだ全然読めていないんだけれども)

なんとなくですが、やっぱり作家の特性みたいなのがあって、作品も分けられるなあ〜とおもうのです。大きく分けると、おとなしいやつと派手なやつ。

派手なやつは、バイオレンスでグロテスク。鏡陥穽とか、ラミア虐殺&黒と愛、堕天使拷問刑とか。おとなしいやつはデビュー作である殉教カテリナ車輪とかこのN・Aの扉とか。おとなしいからと言って事件や作品がおとなしいわけではないんですが、表層的な部分のことです。

あとは特徴としては、絵画や画家を描くことと、叙述トリック――というか、物理トリックよりも物語としてのトリックが多いことですね。すぐ語り部や主人公を犯人にしよる。

個人的な趣味としては、派手で失われた青春をビリビリバリバリ感じる系です。失われた青春が世紀末にある、我々世代(年齢は秘密です!)は、失われた青春が新世紀にある人々とは相容れない部分があるのです。

終わらなかった世界に、終わらないミステリを。

面白い本の購入費用になります。