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夕凪のとき(2)

「そうだね、離婚しようと思っている」
 ここしばらく不機嫌な顔と態度しか見せない夫に「そんなんじゃあ、離婚しちゃうよ!」と、笑いながら伝えた私に、返ってきた返事。それが、全ての始まりだった。
 土曜日の夜。まるで「明日は、天気が良さそうだから散歩に行こうと思う」というのと同じくらい、軽い口調だった。あまりに唐突すぎて、私は、冗談としか受け止められなかった。
「もう、冗談、やめてよ」
笑いながら伝えたのに、言い終えた瞬間、一気に胸が騒ぐ。自分でも、不自然に口元が引きつるのが分かる。そして、そんな自分に動揺する。
 ー嘘、だよね? 冗談、だよね?ー
 けれど夫は、スマホに目を落としたまま変わらない無表情で、
「いや、冗談なんかじゃない。本気で、離婚しようと思っている」
そう静かに、だが、きっぱりと即答した。

 「そんなんじゃあ、離婚しちゃうよ!」それは、今まで幾度も私が、夫に投げてきた言葉だった。でも、決まってそれを言うのは、悪ふざけの最中で、半ば夫を試すような気持ちだった。本気で別れるつもりでその言葉を伝えたことは、一度だってなかった。そして、夫は夫で、私の悪ふざけを承知の上で「嫌だよ!」と、頬を膨らませて拗ねたふりをした。それが、常だった。それが当たり前で、それ以外のシチェーションも答えもないはずだった。だから、私は、今日も夫から「嫌だよ!」という返事が返ってくるものとしか思っていなかった。
「離婚、本気で考えているよ」
夫は、私の目を見ることもなく、そう繰り返した。
「冗談でしょ?」
身体中に鼓動が、響く。
「冗談なんかで、こんなこと、言わない」
夫は、そういうと、ゆっくり私の方に向き直った。結婚して、25年。付き合ってきた期間を加えれば、もうすぐ30年になる夫。その表情は、私が初めて見る冷たく感情を殺したまるで能面だった。
 ー誰だろう、この人?ー
そこにいるのは、私の夫である筈なのに、私の知らない全く知らない人だった。ただ、夫の姿形をした人だった。

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