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ふと思い出す昔話

 先日、誕生日を迎え、生まれて半世紀が過ぎた。
 わたしが子どものころは泉重千代さんがご存命で、明治生まれのひともまだそれなりにいたはずだ。あまり考えたこともなかったけれど。

 誰でも子どものころは、無知で無教養でほんとうに無礼なものだと思いたい。
 わたしが中学を卒業したあともしばらく住んでいた街は、たぶん少しだけ、治安がよくなかったのではないかと思う。といっても今で言うほど「治安がよくない」というレベルではなかったと思うが……いわゆる校内暴力が盛んだった年代なので、全体的に校内は荒れがちだった。クラスにも、「ヤンキー」と呼ばれる素行不良の生徒が男女ともにいた。
 ちなみに「ヤンキー」という単語を「ぐれている子どもたち」の意味で用いるのだと知ったのもこのころだった。ふつうにアメリカ人のことだと思っていて、当時仲のよかったゆりこちゃん(仮名)に笑われたことがある。

 さておき、そんな環境の中学校で、たまに窓硝子も割られたりしていた。正直、中学校にたいした愛着もなく、教師を含む大人はみんな話が通じなくてだいきらいで、自意識に圧し潰されて喘ぎ、いつでも死んでしまいたい中学生だったので、へえっドラマみたいなことが起きるんだなあ、くらいの感想しかなかった。

 ほんとうにほんとうに、あのころは自意識が重すぎて、早く死にたかった。誰とも自分の好きなものを分かち合えず、ただ読書をすることだけが楽しみだった。
 そんなわけで、中学以前はあまりにも暗黒時代でほとんど忘れてしまった。もちろん意図的に忘れようと努めた。それでもおぼろに憶えていることがいくつかあるし、唐突に思い出すことがある。

 十年くらい前に、オタク的に明治時代にはまって、幕末長州が好きだったので、山口県へ行ったりしていた。とてもわかりやすいはまりかたである。
 墓や生誕地へ行き、思いを馳せる。合戦場も行った。わたしの推しは山口の合戦場にある金麗社の、説明ボックスから流れてくる音声ガイドでめちゃくちゃ褒められていて、彼が褒められることなどかつて一度としてなかったので、録音せねば!と後年録音機器を持って改めて訪れたら、その音声ガイドは壊れてしまって二度と聴けなかった。つらい。
 ほんとうに彼は褒められていたのだ。詳細はもう思い出せないけれど、彼が褒められることはほとんどといっていいほどないので(せいぜい徳富蘇峰が近世日本国民史でちらっと褒めてくれたくらい……)、記憶にしっかり刻んだ。しかし年々忘れるので、ここに書いておきたい。

 そんなわけで、明治年間に思いを馳せるようになり、詳しく当時の生活様式を調べて何やら趣味で書いたりもした。(お察しください)
 そうするうちに、当時の生活様式などにも詳しくなってくる。

 わたしの中学のとき、女子は家庭科で男子は技術科だった。家庭科の先生は、お世辞にも見目がよいとは言えない、年配の婦人だった。女生徒たちは嘲りを込めて「○○婆(ばばあ)」とあだ名で呼んでいた。○○のところには姓の略称が入る。

 当時、教師と生徒のあいだに信頼関係なぞ結べる空気はまるでなかった。教師は看守で生徒は何かの動物だった。今のように体罰が不可ではなかった。体育教師は竹刀を持って校内を闊歩し、不良の男子生徒を殴りつけることはざらだった。なので生徒も教師のことは好いてはいなかった。たまに特定の生徒を贔屓する教師もいたが……そういえば、確か二年のときの担任があからさまにひとりの女生徒と親密な振る舞いをするのを見てしまい、わあっ きもっ と思ったりもした。担任の名前は忘れたが女生徒は確か村瀬さん。(女生徒はどうせ姓が変わっるとやろと、うろおぼえを堂々とバラしていくスタイル)
 家庭科の先生が暴力をふるったわけではないが、女生徒たちは年取った女性教師を「ばばあ」と呼ぶことに抵抗はなかった。もちろんわたしもだ。
 その先生が、あるとき授業の雑談で、言った。

「昔は、朝起きたら着替えて、食事をしたら、出かける前にまた着替えたんですよ」

 それを聞いた、クラスでも派手なグループのうちの、いちばん短いスカートを穿いた女生徒が、笑った。「そんなのあるわけない」「ばかみたい」と。
 わたしはそれを聞いて、おっ、はいからさんだな、と思った。確か、はいからさんでそういう描写があった気がするのだ。あるいは何かほかのマンガで読んだのだろう。
 でも、授業を受けるほとんどの女生徒が笑っていた。信じていなかった。

 この一場面を最近になってしきりに思い出す。

 母の晩年に、小学校のときの女の先生は、終戦時に大陸にいて、集団自決をした、と聞いた。はっきり思い出したのはそれがきっかけだ。
 あの先生は、お年寄りだった。先述のエピソードは昭和末期だったのでわからないが、たぶん教師の定年は60歳だったはずだ。それでも、いま思い返すとそれ以上に見えた。家庭科などの専門科目でせいぜい副担任しか持っていなかったので、もしかしたら定年後もつづける制度が当時あったのかもしれない。と考えるくらいにはそれなりに年取って見えた。

 つまり、くだんの先生は、もしかしたら大正生まれくらいだったかもしれない。ということは、学校の先生として勤務できるなら、女子師範学校的なところで学んだのかもしれない。もしかしたら……と、ふと思い出したそんな一場面から、どんどん妄想は膨らんだ。

 もしかしたらあの先生は、戦前には、起きたら着替えて、朝ごはんのあとで外出着に着替えるような生活をしていたのではないだろうか? 家庭科の授業というと当時の我々はばかにしきっていたが、ある意味で礼法も学ぶような感覚だったのではないだろうか? つまり、もともとはいいところのお嬢さんだったのではないだろうか? 没落したのか自分で生計を立てることを選んだのかはわからないが、その可能性はなくはない……!

 こんな妄想ができるようになったのは、明治時代にはまっていろいろな文献を読みあさったおかげだ。
 つまり、知識が増えたので、背景を想像しやすくなった。

 おとなになるといろいろなことを、知ろうとしなくても知ってしまう。そして、過去に起きたことを思い返すと、あれはそういう意味だったのか……とわかったりする。

 あの先生のことを思い出すと、微妙な気持ちになってしまう。荒れ気味の中学校の家庭科で、生徒に尊敬されているとは言えなかった気がする。(だいたい、小中の期間、教師を「尊敬」したくなるようなことがあったためしがなかった)
 もしむかしお嬢さんだったのに没落して教師だったならせつないなあ、と今のわたしは思ってしまう。確か独身だった気もするが事実はもう確かめられない。そろそろご存命か否か、という年齢だろう。淋しく晩年を過ごしたら、過ごしていたら、……と思うと、どうにもやるせない。

 知識が増えるといろいろなことを妄想してしまう。中学のときたった三年、しかも週に二度の家庭科をもってもらっただけで、相手にとって自分は何千人のうちのひとり程度なのに、自分にとって相手はひとりなので、いろいろと考えてしまう。脳みそが暇なのかもしれないが……そして、あまりよくない妄想をしてしまうのは、わたしがネガティブだからだろう。

 あの先生が、その後は我々のことなど関係なく、楽しい生活を送っていたらいいなあと、今では思う。
 わたしは決してよい人間ではない。きらいな相手は苦しんで長生きするがいい、と念じるタイプである。小学校の高学年で受け持ってもらった担任については、大嫌いすぎて今でもそう念じている。
 だから余計に、通りすがっただけの、あのときの先生が言った「朝ごはんを食べるときと出かけるときは違う服だった」が、おそらく自身の体験からだっただろうことに、今さらながら感謝するのだ。
 そんな作法が生活の中で生きていたころのひとからなまの声を聴けて、ほんとうに運がよかったと思う。

 ところで、先生の雑談で真っ先に笑った、二年三年と同じクラスだったヤンキーの女生徒は、最初は長いスカートをはいていたが、三年になると膝上10~15cm位のミニスカートになっていた。よく考えたら時代の最先端をいっていたのでは? 高木さん。(女生徒はどうせ姓が変わっるとやろと、うろおぼえを堂々とバラしていくスタイル)(二度め)