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集積とオリジナリティー



「自分」は何でできているか。

誰の何を見、誰の何を聴き、誰の何を読み、誰に何を学び、誰に憧れてきたか、がその人をつくる。

自分は「他人の集積」でできている、

最近そういうことを実感した。


人はゼロからものを生み出すことはできない。

自分の中に取り込んだもの、摂取したものからしか、ものを生み出すことはできない。
あまりにも当然の事だけれど。

誰もが誰かに影響を受けている。


そしたらその影響を受けた人、にも影響を受けた人がいる。

そしてその影響を受けた人が影響を受けた人にも...という風になっている。

そして自分も、もしかしたら誰かの中に取り込まれて、影響を与えているかもしれない。

そういう連鎖で世界はできている。

「自分」なんてものは存在していなくて、
「自分」は「他人の集積」でしかないのだ。

人が一人ひとり違うのは、その「集積」の組み合わせが違っているからに他ならないと考える。

そしてその「集積」が全く同じになる事というのはあり得ない。


これはまだ、大学に入って展示を始めたばかりの頃。
1年生の終わり頃から2年生の前半だったか。

「影響を受ける」ということを、極度に恐れていた時期があった。

人と同じになること、作品が誰かと似ること、
独創性が無いこと。

それを極度に恐れた。

展示を始めて、作品を「人に見せる」ということを強く意識するようになったからだ。

丁度その頃描いていた夜景のシリーズが、ある有名な作家さんと、あまりにも似てしまっていた。

モチーフも、絵の具の色味も、世界観も、タイトルの言葉選びもまるきり被ってしまっていた。
もちろん、自分は到底その方の足元にも及ばない。

影響を受けたというより単なる偶然だったのだけど、その事ばかりを気にしてしまい、悔しくて、悩んで何も手につかないほどだった。


それ以来、誰のものにも似ていない、オリジナリティーのあるものを作らなければと考えるようになり、誰かから影響を受けることも怖くなってしまった。

「好き」だと思える作品に出会うことが、怖い。

でも考えてみれば、無理な話だった。

誰のものにも似ていないオリジナル、などこの世に存在しない。

偶然の一致に関しては、まだ自分の中で答えが出ていないが、「影響を受ける」ことに関しては、もっと前向きに捉えるべきではないのか。

3年生になった今は、「影響を受ける」ことを恐れなくなった。

むしろ、良いと思った作品からは、積極的に良い影響を受けて、自分の中に取り込んで自分の中に既にあるものとミックスして、また新しい作品を作る。
そういう意識になった。


私が作ったものは全て、何かしらの影響を受けている。
他の作家の作品だけでなく、好きな音楽や小説、映画からも。


そして作った一つの作品の中には、複数の影響がミックスされている。

何の影響も受けていない作品は、無い。



丁度、果物をミキサーにかけてミックスフルーツジュースを作るようなものだ。

果物の種類は多い方がいい。

一種類だけだとそれこそオリジナリティーは生まれない。
オレンジをミキサーにかけたところでただのオレンジジュースである。


それより、そこにグレープフルーツも足してみようかなとか、りんご入れようかなとか桃入れようかなとか、シナモン、そしてアプリコットのリキュールも入れてみようかとか。

勿論、美味しいかどうかはやってみないと分からない。

取り込んだものの集積の掛け合わせが、独自の味わいを生む。ならば影響は「沢山」受けた方がいいと思った。
沢山というのは、種類を沢山。

今の自分はその数がまだまだ少ない。


私は決定的に影響を受けた人が何人かいる。

けれどまだまだ少なく偏っていて、オリジナリティーには到達できないと感じている。

だからこそ、これからは、好きだと思えるものに出来るだけ沢山出会いたいと思う。


沢山の人から影響を受け、独自のミックスをしていきたい。


それしか突破口は無いのだ。





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