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慰霊の日に読む沖縄文学~東峰夫『オキナワの少年』~

 沖縄には4人の芥川賞作家がいます。去年の慰霊の日にご紹介した大城立裕が最初の受賞者で、次に東峰夫、そして又吉栄喜、最後に目取真俊が続きます。
 今年の慰霊の日は2人目の東峰夫『オキナワの少年』をご紹介したいと思います。作品が発表されたのは1971年。大城立裕の『カクテル・パーティー』と同様、まだ沖縄が米軍占領下にあった頃です。
『カクテル・パーティー』が知識人の大人の視点から描いた作品であるのに対し、『オキナワの少年』は貧しい少年の視点から米軍占領下の沖縄を描いています。最大の特徴は「島くとぅば」(うちなーぐち)と呼ばれる沖縄独自の言葉がふんだんに用いられていることです。例として冒頭部を引用します。

ぼくが寝ているとね、
「つね、つねよし、起(う)きれ、起(う)きらんな!」
と、おっかあがゆすりおこすんだよ。
「ううん……何(ぬ)やがよ……」
目をもみながら、毛布から首をだしておっかあを見上げると
「あのよ……」
そういっておっかあはニッと笑っとる顔をちかづけて、賺(すか)すかのごとくにいうんだ。
「あのよ、ミチコ―達が兵隊(ひいたい)つかめえたしがよ、ベッドが足らん困(くま)っておるもん、つねよしがベッドいっとき貸らちょかんな? な? ほんの十五分ぐらいやことよ」
ええっ? と、ぼくはおどろかされたけど、すぐに嫌な気持が胸に走って声をあげてしまった。
「べろやあ!」

『オキナワの少年』(東峰夫著)より

 地の文と会話文の違いが非常に明瞭です。沖縄の言葉は「日本祖語」から分かれて独自に発達したもので、他の地域の言語との隔たりは大きなものでした。琉球処分後、沖縄の為政者や知識人の基本姿勢は日本(ヤマト)への同化でした。戦前には「方言撲滅運動」が展開され、沖縄戦の只中では「島くとぅば」を使用する人をスパイと見なし、時に殺害するという苛烈な状況を生みます。
 作品中でも安里先生は「島くとぅば」を使いません。子供同士の会話もヤマトゥグチ(標準語)が散見されます。主人公のつねよしと以前まで親しかったはずの恵三は、絵画から数学に興味を移し、常にヤマトゥグチを用います。恵三とつねよしの関係は、理性的で先進的なものは日本(ヤマト)側にあり、感性的で未発達なものは沖縄側、というメタファーにも読めます。

 つねよしが言う「べろや」とは、「島くとぅば」で「嫌だ」という意味です。「べろや」は本作品において繰り返し登場します。『オキナワの少年』における通奏低音はこの「べろや」です。タイトルが漢字ではなく片仮名で『オキナワ』と表記されているのは、米軍の占領によって変容していく沖縄の姿を暗示したものと言えるでしょう。
 沖縄の土地が奪われ軍事基地化され、「島くとぅば」が奪われることで文化が剥奪されていく。生きるために女性たちは米兵相手に売春せざるを得ない日々。つねよしと彼の家族も持っていた土地を奪われてコザに移り住み、風俗店を営んでミチコーネエたちの商売から上前をはねる形でお金を得て生きています。そんな沖縄の状況に対し、つねよしは「べろや!」と言い、脱出を試みます。

 慰霊の日は沖縄戦の犠牲者を追悼する日とされています。この「犠牲者」とは、果たして亡くなった人だけを指すものでしょうか。凄惨を極めた地上戦と、その地上戦の後に続いた占領の時代。奪われたものは人命だけではなく、押し付けられたものは基地だけではありません。「べろや」と声には出さずとも、つねよしと同じ思いを抱えていたのは1人や2人ではなかったはずです。そして、戦争が終結したはずの今もなお「べろや」と抵抗する人たちがいることを、彼らは沖縄の日常の中に存在していることを、『オキナワの少年』という作品は静かに突きつけます。

 今年もまた、あなたの手元にこの作品が届くことを私は願っています。「島くとぅば」を用いて著されたこの作品が、あなたにとって沖縄を知る入り口の1つになりますように。

2024年6月23日 慰霊の日に 菅野 紫 拝

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