好きの反対とは。
好きの反対は無関心だ、等という言葉をよく耳にする。
いや、好きの反対は嫌いでしかないだろう。
無関心とはその人や物事に対して何の感情も抱かないのだから、好きの反対とは言い難いと思う。
私は興味のない事については何の感情も抱かない。
好きという正のエネルギーを使う感情に対して、嫌いは負の感情、無関心はそのどちらも使わないじゃないか。
実際、私はあまり人を嫌いと思うのは好かないのだが、それも負の感情を使うほうが生の感情を使うことや何の感情を持たないことよりも疲れてしまうからでもある。
しかして、嫌いな人は目にも入れたくなく徹底的に敵として認識することに対して、無関心である人間に対しては敵という認識は無いのでその人が何をしていようが苛ついたりすることもないし、私が知っている範囲などで助けを求めている場合は助言などもする程度にはあるのに対して、好きな人へは生きているだけで有り難いし、何か少しでも力になろうと務める。
しかし、嫌いな人間に対しては正直、息をしているだけでも苛立ちを覚える。
最低な事を言わせて貰えば、「お前、何で生きてんの?」である。
私にとっての嫌いはそこまでの感情を抱くので人を嫌いになりたくないのだ。
だが、私も菩薩ではないので嫌いだと思う人は居る。
そこから離れ、幾月か経てばどうでも良くなるが、それは無関心とはまた別で、お前が不幸になろうが助けを求めようが助ける気はないし私の中で過去の物、そして現在に存在しない物との認識になるだけで、無関心とは違う。
興味のない人間にはそこに居る認識はしているが、私が不快になる事、敵となることがなければ何をしていても構わない。私はお節介なので、見える範囲で何か手伝えるのであれば手伝うこともあるよ。ぐらいの認識だ。
なので、「好きの反対は無関心」という言葉に違和感を覚えながらも世間での認識はそういう物なのか、という感じだった。
格言じみたものに違和感を覚えながらもそういうものなのかと無理やり納得してはいたが、こうして思想を思考に変えられる場所を得たので吐き出してみようと思い、綴ることにした。
他人の考えにばかり便乗するのも自分が無いのだろうなぁ、個性個性と言いながらも個性的な人を模して右向け右とでも言わんばかりで個性的なものが没個性になっていくのは何とも嘆かわしいものですね。
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