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自己卑下論争



「私なんて大したことないから」
「私が言うのはおこがましいけれど」
「私なんかには勿体ない」

そんな自己を卑下する言葉ばかり使っていた時期があった。

だって事実だから


事実として、現実として
そうだから…と。

自己防衛

言っておくことで
多めに見てもらえる、なんて甘えていたのではないか

不毛な自己卑下大会

ある日、私以上に自己を卑下しがちな人に出会った
「いえ、私なんて。おかげさまでしかありません。」
「いえ、そんなことない私なんかお役に立てず、
あなたの力です。」
「いえ私なんぞが。」
「いえいえ、私なんて。」
…以下省略

不毛!
その次に

なんて勿体ないのだろう…
と感じた。
この人には素晴らしい実力があるのに


もったいないよ


ふと
はじめに書いた、自己卑下があまりに強かった時
前職で出会った敬愛する人に、都度叱られていた
ことを思い出した。

「あのさ、もったいないから!」
ある時は厳しく、それでも直らない時は
相当うんざりさせてしまったと思うが
とてつもなく優しく、“もったいないよ”
と言ってくれた。

庇わせてしまうようで苦しかった。
自己卑下を否定されると
現実を伝えそびれる気がして
自分を守れない気がして心地悪かった。

真意


私は社会人としてどうかと思うが
人の役に立ちたい、とこれっぽっちも思っていない。

ただ、
人の喜びや幸せそこまで大それたものでなくてもささやかな前進か若しくは少しの安らぎ、そういったところに居合わせると自分自身も嬉しい、幸せを分けてもらえる気がして。

そこに私の存在は影響していなくて良い。

どんな天気でも
どんな場所でも場面でも
誰かといても1人でもその人が幸せであることが何よりだから、だからこそ居合わせた時は幸せだけれど
それがずっと続くには私の存在で左右されちゃ
“本物”じゃない気がする。


「もったいないよ」の意味が分かったとき
叱ってくれたあの人は
私の本当の幸せを願ってくれていたのかも知れない、
と気付いた。


素直に「やった!」「できた!」「嬉しい!」
で良いんだよね、きっと。
自分も幸せであってこそ、人の幸せも分かるはず

そう言うわけでなるべく自己卑下しないようになった。

こんな駄文を読んでくれた人も幸せな日でありますように!(おっと危ない)



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