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『おやすみ、お母さん』を通して。

はじめに

 先日、2月4日(土)にシアター風姿花伝にて『おやすみ、お母さん』を観劇した。本公演は風姿花伝プロデュースVol.9として企画された舞台であり、登場人物たる母と娘役を実の親子である那須佐代子さんと那須凛さんが演じるという、なんとも挑戦的な公演だ。

 演出に新国立劇場で芸術監督を務める小川絵梨子さんを据え、衣装は今年の第三十回読売演劇大賞最優秀スタッフ賞を受賞されている前田文子さんが務める他、音響、照明、舞台美術、ヘアメイク、どれをとっても素晴らしく、随所にそれぞれのテクニカルスタッフさんのこだわりが感じられるものだった。

『おやすみ、お母さん』フライヤー

 舞台はもう全公演終了しているので、ここから先はネタバレ全開で『おやすみ、お母さん』の観劇を通して思ったことを綴っていこうと思う。

 この記事では二つのことに言及する。
 ひとつは脚本の達成について。『おやすみ、お母さん』(原題”night, Mother”)は今から40年も前、1983年にピュリッツァー賞を受賞した作品であり、半世紀近く前に生まれた物語だが、この作品が持つ不条理演劇に対するカウンターは未だ色あせていない。
 もうひとつは翻訳戯曲の困難について。日本語は1音節に対する意味情報が少ない言語である。その性質ゆえに日本語に翻訳された戯曲、映画の吹き替えには大きな制約と困難が生じる。そしてその壁は元が優れた作品であればあるほど高くなっていく。

 舞台に限らず芸術は観る視点(Point of view)が増えれば増えるほど楽しめるというのがぼくの持論だ。noteではこの記事に限らず、さまざまな作品についてぼくの観点を提示できればと思っている。

1.不条理演劇のその先へ

1-1.不条理演劇とは何か

 一概に音楽といってもポップスやロック、ジャズやクラシックなど様々なジャンルがあるように、演劇の世界にもさまざまなジャンルが存在する。その中のひとつが不条理演劇だ。

 喜劇や悲劇といった言葉なら、舞台になじみのない人でもだいたいのイメージがつくだろうが、不条理演劇と言われても、それがいったいどんなものなのか想像がつきにくいと思う。

 不条理演劇とは、人間、特に現代人の不条理性や不毛性を描こうとする戯曲や演劇の手法もしくはその手法に基づく演劇活動そのものを指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86%E6%BC%94%E5%8A%87

 と、ウィキペディアで説明されるが、そう言われてもますますよくわからない。
 わからないものには具体例を。ここでは不条理演劇の代名詞と呼ばれるサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の内容を簡潔に紹介してみたい。

 この作品は二人の浮浪者のゴドーという人物を待ち続けることに終始する。二人はゴドーに会ったことはなく、永遠と実りのない会話をし続ける。舞台は二幕構成だが、一幕と二幕で似たような展開が繰り返されるのみで物語的な進展はなく、永遠に二人がゴドーを待ち続けていること示唆して幕を閉じる。

 『ゴドーを待ちながら』という作品の特徴をぼくなりにまとめると
①終わりがない。
②出来事の因果関係(原因)が明らかにされず、妥当性の高い解釈を絞ることもできない。
となる。
 そしてこの二つの特徴は多くの不条理演劇に見られる特徴だと思われる。

1-2.『おやすみ、お母さん』の背後に隠れる不条理演劇

 舞台『おやすみ、お母さん』は母と娘のやり取りによって二人の周囲の人間関係や過去に起こった出来事が記述されていくのだが、その内容を注意深く観察すると、この舞台の背後には前日譚として一つの不条理演劇が隠されていることがわかる。

 娘ジェシーはてんかんの症状を持ち、そのために多くの不条理に巻き込まれている。夫から切り出される離婚、彼女が実家に住むようになってから家に来なくなった隣人(母親の友人)、すぐに職場をクビになってしまう、などなど。この舞台で語られる事柄はジェシーの目線から見ると非常に不条理的で、理由のわからない出来事ばかりである。

 例えば、本編で離婚の理由は夫に愛人がいたからだと真相が語られるが、それを知らなかった当時のジェシー目線では、なぜ突然別れを切り出されたのかがわからない。てんかんさえなければ、浮気の可能性にも思い至ったのだろうが、彼女は自信のなさゆえにその答えにはたどりつかない。

 彼女が自分のもとから人が去っていくのはてんかんのせいだと考えるのも無理はない。現に隣人が家に寄り付かなくなったのは彼女のてんかんが原因だったことが明かされている。

 だが、ジェシー目線だとある出来事の原因がてんかんである確証は得られない。本編中でも語られているが、彼女は発作が起こったことにも自分では気づかないことがある。仕事中にてんかんの発作が起こるからクビになるのか、それとも自分の能力が足りないからクビになるのか判断することができない。

 彼女はそういった原因を断定できない出来事に遭遇し続けていた。まさに不条理演劇的なシチュエーションではないか。

1-3.不条理演劇のその先へ

 ここまでの内容を踏まえて『おやすみ、お母さん』という作品の達成について述べたい。とは言え、この作品の背後に不条理演劇が隠れていることを述べるため、すでにその達成について触れているのだが……。

 結論から言ってこの『おやすみ、お母さん』は終わらないはずの不条理演劇を終わらせている。どういうことか。
 不条理演劇の不条理演劇たる大きな特徴は原因が明かされないこと、妥当な解釈ができないことにあるのだった。この作品はその不条理演劇で隠された原因を告白(告発)することに終始している。

 例えば、前項で記したように、離婚を切り出された原因は夫の不倫にあるとわかるし、てんかんの発作を気味悪がった隣人が家を訪れなくなったのだと明かされる。そして最終的には彼女の人生の不条理の元凶たるてんかんが母のエゴ(あるいは価値観)のせいで治療されなかったことまで明かされる。

 そしてすべての謎(不条理な出来事が起こった原因)が明かされると、ジェシーは彼女自身が冒頭に宣言した通りに自殺を実行して幕を下ろす。

 この作品は上述のように不条理演劇の不条理がなぜ起こったのか、その原因を明かしていく舞台だ。そして人間は永久に続く不条理には耐え切れず、不条理には終りがあると結論付けて終演する、不条理演劇のその先を描いた作品なのだ。

2.翻訳と時間の問題について

2-1.日本語の情報量の少なさについて

 普通に生活しているだけでは気にも留めないことだが、日本語は外国語に比べて音の数に対して持つ意味(情報量)が少ない。例えば自己紹介をするにも次のような音の差異がある。

日本語の例文「ぼくの名前は太郎です」
英語の例文「My name is Taro」

 これら二つの文章はそれぞれ自分の名前を他人に紹介している。それぞれ声に出して読み上げてみて欲しい。
 日本語の場合は「ぼくのなまえはたろうです」と一字一字すべてに音があり、12音節で構成されていることがわかる。
 対して英語の場合「マィ」「ネーム」「イz」「タ」「ロー」の5音節で構成されている。日本語は英語に対して同じ意味の言葉を伝えるために7音節(「たろう」の「ろう」を「ろー」と捉えるにしても6音節)も余分に音を発していることになる。

 上記の例は例外的なものではない。ほとんどすべての文章で日本語はメジャーな外国語に対して音の数が多くなる。つまり日本語は音の数に対する情報量が少ない言語なのだ。

 もうひとつ『おやすみ、お母さん』の翻訳に触れた例を挙げてみよう。

原文「I will do」
翻訳「絶対そうなるの」

 この翻訳は脚本内の文脈や「Will」という単語が持つ意志の強さを的確に読み取った優れた訳だが、音の数は原文に比べて明らかに増している。
 原文は「アィ」「ウィl(ル)」「ドゥー」の3音節に対して翻訳では「ぜったいそうなるの」の9音節だ。同じ意味を伝えるために、翻訳では原文の3倍もの音数を要するのである。

 このように日本語は音の数に対して持つ情報量が少ない。それは翻訳した脚本が元の脚本より音の数が増えることを意味し、同じテンポで演技をするのであれば、原文に即して上演するよりも翻訳ものの方が長い時間がかかることを示唆している。

2-2.『おやすみ、お母さん』の時間の制約による不都合

 さて、今回取り上げている『おやすみ、お母さん』には時間の縛りが存在している。舞台上に設置されている時計が8時15分の状態からはじまり、10時を指し示す前に終わりに向かわなければならない。

 この上演時間1時間45分以内という制約が今回の舞台を手放しに称賛できない理由を生んでいる。どういうことか。

 日本語は外国語に比べて音に対する情報量が少なく、同じ意味を伝えるためにより多くの音を必要とするのだった。そのため普通にやれば翻訳ものの上演時間は原文で上演するよりも伸びてしまう。だが、今回の『おやすみ、お母さん』には時間の制約がある。原文と同じ時間の中で翻訳したセリフを言わなければならないのだ。

 それがどれほど困難なことか。先ほど挙げた「I will do」と「絶対そうなるの」の例を思い出して欲しい。実際に言葉に出してみるとどうだろう。「I will do」と言い切るのにかかるのと同じ時間で「絶対そうなるの」と言おうとするとものすごい早口になってしまう。

 ただ言うだけならできないこともないが、これを芝居の中で行われなければならない。演技論についてここで詳しくは語るつもりはないが、感情を表現するのに時間は非常に重要な要素だということだけはお伝えしたい。

「絶対にそうなるんだ!」という気持を込めて「I will do」と発語しようとすると、おそらく1音節ずつ強調して「アィ! ウィl! ドゥー!」と平常な時より長い時間を使うことになると思う。
 それではそう言うのにかかったのと同じ時間で「絶対そうなるの」と言い切ってみよう。どうだろう。「I will do」と言うときにはあった意志の強さが少なからず損なわれてはいないだろうか。

 人の心の状態は言葉を発するテンポ(音と音との間にある時間)を規定する。翻訳した言葉を原文と同じ時間内で言おうとすると、どうしてもテンポが原文よりも速くなってしまい、感情を表現するのに必要な時間が確保できない。海外ドラマや洋画の吹き替えに少なからず違和感が生まれるのはそのためだ。

 そして『おやすみ、お母さん』は非常に優れた戯曲であるため、一つの言葉に複数の意味が込められている。その言葉が持つ意味を正確に翻訳しようとすればするほど、必要な音の数は増えていく。(翻訳の正確さを気にしなければ「I will do」を「そうなるの」と訳することもできた。)しかし音の数が増えれば増えるほど、1時間45分の制約が襲い掛かってくるのだ。

 また『おやすみ、お母さん』が母娘の心を繊細に描いた抒情劇であるという点も災いしている。感情と言葉のテンポとの不一致は笑いを生むが、この戯曲の良さは人を笑わせるところにない。この作品の最もわかりやすい良さである繊細な感情を尊重して正確に描写するには時間が足らない。

 今回の公演は原典をリスペクトした上で出来うるベストな舞台だったと思われる。悪いところは何ひとつなかった。ただ最初から無理があっただけだ。翻訳と時間の問題はこれまでも語られてきたし、これからも語られていくだろう。翻訳ものをやる場合にはこのような時間の問題にどうやって対処していくか考える必要があるのだ。

さいごに

 ここまで色々と書いてきたが、何はともあれ素晴らしい舞台だった。
 素晴らしいからこそ見えてくる問題、人の心に流れる時間と時計的な刻まれる時間の制約、についてとても考えさせられたし、自分の構想している次回作のテーマを深める機会にもなった。

 気づけばもう5,000文字近く書いている。ここまで読んでくれた人がいるのかどうかわからないが、これからも舞台の感想や創作日記なども発信できればと思う。スキやフォローをしてくれるとモチベーションになるので、ぜひお願いしたい。

 それではまた次回の記事で。

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