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涙のギムレット

私が代々木でバーテンダーとして働いていた時に、普段は冷静なマスターに一度だけ怒られたことがある。そのお店には、もともとモルトを勉強するためにちょこちょこ通っていて、マスターが若い頃にバイクの事故で負った膝の怪我が悪化したことで、お手伝いさせて頂く流れになった。

出勤初日に、自前のベストやシェフエプロンは持って言ったのだけれど、蝶ネクタイは自分には似合わなかったので、お店のネクタイを借りることにした。そしてその差し出されたネクタイが「キティちゃん」柄だった。あからさまに嫌な顔をして他のがいいですと言うと、「お前は生意気なやつだな」と苦笑いされ、黒地に臙脂色のドット柄のネクタイにしてくれた。後日、その事を店を紹介してくれたバーテンダーに話したら、あのおっかない先輩によくもそんなことが言えたなと驚かれたが。ともかく、私にとってマスターはそのくらい大抵の我儘は聞いてくれるひとだった。まぁ、女の子には甘い人なのだ。(可愛い子には特に。)

それで、酷く叱られたのは、雨がざあざあと降りしきる冬のある日だった。お店はその日は暇で、お客さんは三人しかいなかった。若いカップルと、一人の物静かな中年の男性。一応ご挨拶はご来店されたお客さんすべてにする。しかし、それからの私の接客が問題だった。そのカップルの女性の方が、高校のOBであったこともあり、私の接客はそのカップルに偏ってしまった。

お客さんが帰られた後、なんだかマスターがムスッとしているなと思ったら、閉店後に一言、「何で一人で来ているお客さんをあんなに放っておいたの。」と恐ろしく低い声で言われた。

「バーテンダーは、弱い人の味方でないといけないんだよ。」

その一言に私は声を上げて泣いてしまった。ああ、そうだ。私は手を抜いていた。一人でいて静かで怖そうなお客さんだからと、挨拶もそこそこに距離を置いてしまった。私がもっと笑顔で会話をしていたら、もっとこのお店を好きになっていてくれたかもしれない。

マスターは24歳の小娘がずっと泣いているものだから、困り出してしまったのだろう。「いいよ、お前ギムレット練習してただろう。作ってみろよ。」と、自らはカウンターに腰掛けた。

私はレイモンド・チャンドラーの「長い別れ」にかぶれていて、ギムレットとライムジュースは半々が良いと憧れていた。しかしそれは昔のライムジュースが甘かったからであって、その通りのレシピで今作ったら、とんでもなく酸っぱくなってしまう。だから、私のギムレットはやや酸味を効かせたものにしてあった。練習すれど練習すれど、これというものが未だに掴めておらず、とんでもなく拙いと自覚していた。まだ溢れ続ける涙を拭くことも叶わずに両手でシェイカーを振った。上手く力が入らないな、と思った。シェイカーから指先に伝わる氷の冷たさで、余計に心が寒くなって泣けた。
 
どうぞ、と、ヒヤヒヤしながら出した。こんなの飲めないに決まっているじゃない。不味いと言われて終わりだと思った。

マスターは私の作ったギムレットを一口啜ると、もうまた一口啜った。

「振りが甘い。……でも、懐かしい味がするよ。」

それから自分が以前「マスク」という銀座のバーに勤めていた時のことを、面白げに話し出してくれた。

「先輩からの賄いで飲んだギムレットが、ちょうどこれに似た味だった。でもその量が凄いんだよ。丸い大きいワイングラスみたいなのに、波々注がれて出されて。残すと怒られるからさ、最後まで飲んだんだけど、終電まで10分くらいしかなくてイッキ飲みしたんだ。そんで店を出て駅まで猛ダッシュしてね、あと半分で駅ってところで倒れて救急車で運ばれたんだ。急性アルコール中毒。まぁ、当たり前だなよな。」

ニヤニヤと笑いながら話すけれど、こっちは全く笑えない。体育系のノリが昔よりだいぶ抜けた今の時代でバーテンダーをやれて、自分はラッキーだと、ひっそり心の中で胸を撫で下ろした。そしてそんな話を聞いていたら、私の涙はいつの間にか止まっていて、頬は糊が付いたみたいに少しベタついているのが分かった。

次の出勤日、バーの扉を開けると、マスターが何やらニヤニヤしていた。この方はニコニコとは笑えない。ニヤニヤなのだ。

「お前のギムレットを飲んでちょっと思ったことがあってね。ギムレットに使うジンを、冷凍から冷蔵にしたんだ。お前は結構すごい爪痕を残したんだぞ。」

そのレシピを変えたというギムレットは、前よりも口当たりが優しくなっていた。前のギムレットはもっとシャープな感じがした。

私はもうそのお店を辞めてしばらく経つけれど、まだギムレットのレシピはそのままらしい。

今年もあと2日。
今夜はご挨拶にマスターのお店に伺おうと思います。





#いい時間とお酒

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