気仙沼ほてい_

ぼくが思う7年前。

7年前のあの日のことについて書く。それだけは決めている。決めてはいるけれど書けない。キーボードの上に置いた手がマネキンのように動かなすぎて、腹ごしらえにトーストを焼くことにした。…焦げた。

あの日とは、2011年3月11日のことだ。

正直に告白すると、ぼくはあの日起こったこと、そこから続く一連のこと、そのすべてに対して無関心であった。ニュースや記事やつぶやきは流れてくるから目を通そうとするが、最後まで読めない。もしくは、文字面は読めるが体にも心にも入ってこない。しかしこのことさえも、よくよく振り返るとそうだった、そんなレベルである。一方で思う。

ぼくみたいな人も、多いんじゃないか。

では、そんなぼくが、あの日のこと、そこから続く一連のことについて考えてみようと思ったきっかけはなにか?

「書くことの尽きない仲間たち  車で気仙沼まで行く。」

この企画である。この企画自体であり、古賀史健さん、浅生鴨さん、田中泰延さん、永田泰大さんが書いた文章である。テーマは、「東京で、それぞれが思う7年前」。考えるではなく、思う、ならやってみようと。

あの日、ぼくは関西にいた。クライアントさんのコンサルティング中に本棚がカタカタと揺れた。会話にもならないか、ちょっと揺れましたかねぇ、程度。仕事が終わりメールボックスを開いて、事の重大さを知った。東京にある本社のメンバーたちの安否確認や緊急の帰宅命令のメールがずらり。

電話で家族の無事だけを確認して、止まった新幹線に乗れず、どこも満室ばかりの中からやっと取れたホテルへと戻る。でもなんだか、一人になりたくない。一緒に出張に来ていた社長とダラダラと無駄に長く晩御飯を食べた。部屋に戻ってはじめてテレビをつけた。何度も何度も画面に映し出される津波の映像とナレーターの暗めの声のトーンだけが、起こったことの大きさを感じさせてくれた。

東京に戻って、母と弟と再会。怖かった、と言っていたが、案外ふつうだった。不便だったは、電車が不規則で車内が暗かったこと、コンサルティングや研修の仕事が取れにくかったことくらい。( こうやって書くのが )申し訳なくなるくらい、記憶に残っていないのだ。

じぶん事ではなかったのだろう。
生きるのに忙しかったのだろう。

そんな言い訳めいたことばが思い浮かぶ。

しかしぼくは、その年を境に人生が大きく動きはじめることになった。これはぼくに限ったことではないようで、そういう人の話を何十人と聞いてきた。そう考えると東日本大震災自体や被災地に関して、関心があるない、行動してるしてないだけでは測れないナニカがあるように気がしている。

意識上ではなく、人間の集合無意識という地下奥深くでつながっている水路みたいなものを通じて、( あまりにも )静かに、大きいインパクトが広がったのではないかと思う。

そういう意味では、あの日からいまに至るまで、あの場所一帯で( 事実は知らないことが多いけれども )、どれほどのことが起こってきたのだろう…。

考えだすと、感じだすと、怖くなる。
できることなら、( 全力で )目を背けていたい。
恥ずかしいが、偽らざる本音な気がする。

だからぼくは、今年はじめて、あの場所に足を運ぶことにしようと思う。

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ということで、車で気仙沼へではなく、電車で気仙沼へ行く予定です。その場所をじぶんの足で歩いて、じぶんの肌で風を感じて、その形式をじぶんの目で見てこようと思います。

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