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The day a burden was lifted.③

推しを通して繋がるご縁 編


・10周年ライブと初めてのオフ会


結成10周年を記念して開催された、「FAN FESTA 2008 〜10 YEARS SPECIAL 〜」

和歌山では、ずっとオンラインで交流していたファンの方々と、初めて会えて。
生身で(?)会うのは初めまして、なのに、もう何度も言葉ではやり取りをしていたから、顔を見て話せるのが、なんだかこそばゆい恥ずかしさと、安心感があった。
この方たちには、ライブが開催された紀三井寺運動公園だけでなく、ミノスケ社長(現会長)が経営してるお店「センプレコンテ」にも一緒に連れて行ってもらったり。

好きなもの「コブクロ」が真ん中にあるから、年齢とか関係なくみんな仲良くなれる。

ちょっと年上の先輩ファミさん方は、それからずっと、ずっと、私の支えになってくれた。

約2万4千人が集った紀三井寺。
今考えると、よく母を連れていったな私&よく着いてきたな我が母、と思う。(体力的な心配)

記念ライブは、暑さとの戦いでもあった。
でも、夕暮れに照らされながら唄ってくれた「Answer」や「時の足音」、感動的な歌声は、一生忘れることはできないと思うぐらい。
とにかく歌声が神がかって圧倒的なステージだった。


・広がるファミさん達との縁

10周年ライブ以降、彼女達と出会えたことで、コブクロだけでなく、別のアーティストさん(馬場俊英さん、ワライナキさん)のライブにも行くきっかけを貰ったのも、大きな転機になった。

※野外ライブ参加後の母は、というと。
その後、馬場さんのZepp公演や、コブクロの宮崎公演にも一緒に行ってくれて。
音楽を楽しむことに、年齢は関係ない、ということを一番近くで教えてくれた。(今は、足腰が痛いから、ライブはもういい、と言ってる…体力大事。)


福岡、大阪、京都、岩手。
島に暮らしているだけだったら、きっと出会えなかった人たちとの縁。

オンラインでも言葉は交わせる。

でも、直接会いに行くと、その何倍も、何十倍も楽しい時間を共有できる。


「会いたい人に、会いに行く」
その想いが、いろんなことで疲れ切っていた私が再生する原動力になっていた。


・日本各地を飛び回る日々


毎年コブクロのツアーが開催されれば、福岡、宮崎、大阪、広島など、あちこち飛んで行った私。
会場に行けば、いつものライブ友さん達と会えるから、年に一度の、近況報告会みたいになって。
大事な、大事な存在ができて、本当にコブクロに感謝してた。

私はもともと、結構ひとりでどこへでも行けてしまう。
ライブに行く、となると、必然的に島を出ないといけない。乗り継ぎや目的地への交通手段をバーっと調べて、ある程度把握できたら、ぴゃーっと飛んでいける人だった。
それは、結局、一人で行動するから、だったと思う。

私がライブに参加するときはいつも、ギリギリまで仕事をして、高速船、飛行機、新幹線を乗り継いで、ライブ会場にもギリギリに着く…みたいなスケジュールご多かったけれど。

ファンの方達との交流が続く中、やっと、時間に余裕を持って、その土地ならではの美味しいものを楽しんだり、時間をかけて観光したり。
誰かと一緒に時間を過ごすことで、ライブ以外も楽しむことができるようになっていき。
ファミ友さん方とは、直接会って、顔を見て、本当にたくさんの話をした。
自分のこと、家族のこと、仕事のこと、人生のこと…etc. お互いに、励ましたり、一緒に泣いたり、笑ったり。

ひとつひとつ、私の世界を広げてくれ、支えてくれた。


・ふたたび心を動かすもの

振り返れば2008年以降、毎年のようにあちこちライブに行っていた私だけれど、精神的にボロボロになっていた時期もあった。

2009年の年の暮れに、祖母を数え101歳で見送ってからは、その哀しみから抜け出せず、自分でもどうにもできない日々が続いた。心がポッキリ折れてしまっているところに、重ねて愛猫も亡くしてしまい。さらに、(たぶん)結婚する予定だった人とも、色々あって別れて。
何をする気にもなれないし、外にも出れなくなるぐらい動けなくなっていた私を、遠くからずっと、ずっと支えてくれたのも、コブファミさん達だった。

本当に、ただ「同じアーティストが好きなだけ」の仲間、という次元の話ではなくなってきて…

一年、一年、年を重ねながら、互いの環境が変わることもありつつ、アーティスト自身の活動休止等もあったけど、その間も変わらず、ライブ友さん達との縁は続き。

私の中の「大事なもの」の割合は、気がついたらコブクロ関連のものが大多数を占めている状態になっていた。


今の会社を親戚から引き継ぎ、自分が予想もしていなかった肩書きを背負わなければいけなくなったときも、「轍」の歌詞に励まされた。


「昨日を振り返るなら 見えない明日に目を凝らせ
 こんなに強い自分がいることに気づいたのは
 この道が 誰でもない 自分で選んだ道だから
 しがらみの中をかき分けて進め
 傷だらけの両手が いつの日か輝いて見えるまで
 開いた扉 通り抜けても それじゃ強くなれやしないよ
 閉じた扉 タタキ潰してゆこう 君の未来の方へ」
2001年リリース『轍』より

ある年のツアーで、宮崎市民文化ホールでこの曲を歌ってくれたとき、私は、アリーナ席中ほどの端っこの席にいた。(ステージ右脇裾に近い)
アップテンポで盛り上がる、ノリノリのこの曲。
最初はにこにこで手拍子していたのに、二番になったら急に、この歌詞がズドンと胸に落ちてきて。

進んだことのない道を、これから歩んで行かなければいけない不安と恐怖でいっぱいだった、当時の私のために歌ってくれているかのように感じて、ボロボロ泣いていた。

祖父母を見送ってからというもの、高齢者に接することすら辛くなっていた私の心境を、周りの家族は知らなかったと思う。
仕事を引き受けるにしても、周りから頼み込まれて、最終的には断れずに承諾したようなものだけど。
この道を進むと「決めた」のは、わたし。
自分が選んだ道を、誰かに肯定してもらいたかったのかもしれない。
涙を拭いても拭いても止まらず、ツアータオルに顔を埋めて、歌声に浸っていた。


『そんな時は 僕のところへおいで 歌を唄ってあげよ
 涙かれた その後にだけ見える光 明日を照らす
 どんな時も 僕はいつでもここで歌を歌ってるだけ
 閉じた扉 タタキ潰してゆこう 君の未来のほうへ』
黒ちゃんが、ステージ端まできてくれて、「ここで」のときに胸を叩きながら、歌ってくれた。

あぁ、私には、この歌があるから大丈夫だ。
彼らが唄ってくれるから、大丈夫だ。
そう勇気づけられ、癒されて、歩んで行けた。



コブクロが好きになればなるほど、いつしか私は…

・グッズが出れば全部買わずにはいられない。
・アルバムシングルも、過去インデーズものまで、全て集めないと気が済まない。
・スマホの写真フォルダが彼らで埋まっていく。
・ライブツアーも、可能ならば全公演追いかけたくてだらなくなる。
・複数公演参加できるファミさんに嫉妬し始める。
・アーティストの言葉を全信頼するようになる。

…などなど。
ちょっと、執着と依存が気になる感じになっていき…

コブクロライブに行き始めて、気がつけば10年以上経ち。

そしてやってくる、コロナ禍。
当たり前に楽しんでいた、音楽の場も、急に不安が募る制限ばかりの息苦しい場になってしまっていた。

→④へ続く


沼に入りかけの頃のお話しはこちら🫱

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