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22歳,

22歳になりました。
何の節目でもなく何の機会にもなりませんが、ともあれ…
少し恥ずかしいお話をしようと思います。今までに書いてきたものの中から、重要だと思った記述を幾つかここに残そうと思います。大して有意義ではなく、ありふれた見解かも知れませんが自分で辿り着いた言語化として書こうと思います。


よくない感情というのは常に満遍なく存在し続けているものの、基本的には瞬間的に大幅に増大するものだということ  毎日毎日何行も何行も、全く別の苦しみについて書く、列挙して示すのは難しい  これが自分の辛さの程度、?

諦めたことについて考える、思いを馳せることが何かオシャレとかエモいとか思ってますか。馬鹿みたいで、割り切れてないだけ、未練がましい。物凄くダサい。真剣にコンプレックスになっているならまだしも、ファッションコンプなら物凄くダサい。
あと何年かしたら本気で冗談じゃない、コンプレックスになるよ
区切りや目途のつけ方は、沢山あると思いたい

この一年で嫌というほど自分がダメな奴だと見せつけられた これは大層苦しかったけど、ある程度自分の扱いに関しての指標を見つけられたと思う
自分の馬鹿さ加減、いかにダメ人間か、出来の悪さとか能力的精神的に可能かどうかとか 心の動き方、その物差し、概観について、妥協のつけ方が今までよりも上手くできるようになれたらいいなと思う
今までは一度落ちたらもうずっと永遠に落ちてゆくもので、そんな落ちていく自分を見つめるだけだと思っていた
でも今はどこかでそれを止めるための、まだ穴だらけの笊だけど、受け皿を持てるようになれたらいいなと思っている



余談ですが、

自分の扱い方や自分の認め方について最近新たな気づきを得ました。
結論から言うと、自分の育った場所の訛りを恥ずかしがってるようなくだらなさが、自分の弱さなのだということです。

私は、東京に来てからは自分の関西弁がコンプレックスになり標準語を使っていました。東京という地域を知れば知るほど自分の訛りが恥ずかしくなりました。しかしながら、節々のイントネーションですぐにばれてしまうのです。ばれたところで、もしかして関西出身?という会話になり寧ろ盛り上がるのですが、それでも私は方言を恥ずかしいもの格好悪いものとして捉えてきました。

映画「孤狼の血」を観ました。広島の暴力団抗争の物語です。
非常に面白いストーリーでもう5回も観たのですが、ここで話すのはその内容ではありません。広島弁です。
暴力団、雄々しい男性が使う言葉だからというのもありますが、私には劇中の広島弁が格好良く感じました。台詞がとか訛りがということではなくて、その猛々しさや自信のこもった発話にです。

どこに感動してるんだという話ではありますが、自らが発する言語にこれほど「自分の芯」が表れるなんて考えたことがなかったのです。私の関西弁といっても所詮は訛りと「~やろ」ぐらいで芯もアイデンティティも無いようなものですが、なら寧ろ、「恥ずかしがるほどじゃないことは恥ずかしがらなくていい」のだと胸に留めておきたいと思います。

例に挙げたのが方言というだけで、本質はそこではありません。自分が持っているものや胸を張ってよいことについて、今後はちゃんと前向きに捉えられたらと思います。


ありがとうございます。

九拝

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