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処世術と真理、ミクロとマクロ、二枚舌

 こんにちは、丁_スエキチです。

 先日、Twitterを眺めていて成る程なぁと思ったツイートがありました。

 「女性は葬式のとき割烹着持ってくとええで!」という(男性にはない)マナーへの批判のツイートがあり、それに対し「割烹着つけたら台所に逃げられるという利点がありまっせ」という主張のリプライがあり、それに対する反論として「性差別を肯定的に捉えることは性差別の強化に過ぎず、(この場では)不適切だ」という場面で登場した一節のツイートです。

 処世術と真理をはき違えてはいけない、ということに納得しつつも、最近よく考えていることに改めて思いを馳せました。

 ミクロとマクロで最適解が違う、ということに。


ミクロとマクロ

 ここで僕が言っているミクロとマクロというのは、個人社会、と言い換えることができます。
 例えば、ある社会問題に対処したいというときに、マクロな最適解は「社会を変えること」、だと思います。社会そのものをより理想的な形にするために、システムや価値観から変えていくための行動が、マクロでの最適解であり、先に紹介したツイートでの「真理」にあたるのではないか、と思います。
 一方で、ミクロな最適解は「自分が変わること」でしょう。社会を変えるには長い時間がかかります。それが企業や政府ではなく、個人の力に発端するものである場合は、特に。それを待っていられないと判断したならば、自分の行動を変えてしまったほうが手っ取り早いことも多々あります。「処世術」は、きっとこちら側です。時としてそれは諦めであったり、迎合であったりもするでしょう。

 そんなミクロの最適解とマクロの最適解は噛み合わないことが多く、全員が処世術に合わせてしまえば社会はいつまでたっても変わりません。さながら囚人のジレンマです。合成の誤謬です。反対に、社会を変えるための行動を個人が行うと負担になって損をしてしまうこともあり、これまたうまくいきません。世知辛い。


例えば、ジェンダーロールの話

 僕のTwitterの裏アカウントはリベラルと反リベラルが同時に流れてくるイカれたタイムライン構築に成功しているのですが、反リベラル(ついでに言えばアンチフェミニズムかな)の文脈でよく「ジェンダーロールから降りよう、なんて言葉に従うな」というのがあります。

 男はこうあるべき・女はこうあるべきといった規定がなく、行動や嗜好その他諸々が自由である社会は、選択肢が豊かであって生きやすい社会だと考えられます。そういう意味で、社会からジェンダーロールを減らしていくことは良いことです
 一方で、個人がジェンダーロールから降りてしまったからといって、生きやすくなるとは限りませんし、場合によってはかえって生きづらくなることもあります。(性格的・経済的に)男らしくない男は恋愛や結婚などでは不利、といった話はよく出てきます(もちろん恋愛なんてケースバイケースですが)。個人でジェンダーロールを降りることは最適解ではない、と言えるでしょう。

 ジェンダーの問題に限らず、ルッキズムやエイジズムだって、社会が差別することはなくしていくべきだけれど、個人の嗜好レベルになってくるとどうしようもないですし、反対に社会を変えるために見た目をよく見せることをやめても、自分はなかなか利益を得られず、むしろ社会に迎合している人の方がそれなりに楽しそうだったりして、大変です。


例えば、二次創作の話

 さて、実在の競走馬の擬人化コンテンツである「ウマ娘」について、R18二次創作はやめとけという風潮があります。オタク達は普段は表現の自由だなんだと言っているのにどうした急に、というツイートもちょいちょい見られました。
 一次創作ではなく二次創作であること、公式からアナウンスが出ていることや、ウマ娘が実在する生物個体の擬人化コンテンツであり、その背後の権利者の協力があって初めて成り立つものであることを加味すべきですが、正直言うと僕もダブルスタンダードをかましている気がするな、と思っています。

 本当に表現の自由のマクロな理想を言うならば、「あらゆる表現は自由であるべきだし、ウマ娘のR18的な二次創作の表現を行うことも一つの自由であって、普通のウマ娘二次創作と等しく認められるべきだ」と主張することに一貫性があると思います。

 しかし、そのような主張に基づいて作られた二次創作がコンテンツに悪影響を及ぼす、という最悪のシナリオが想像可能であるため、コンテンツが終わって欲しくないファン個人にとって、自由を主張することは自分に不利益となります。したがって、公式のガイドラインやR18制限を是とする風潮は妥当である、と判断します。
 表現の自由という真理は大事ですが、それ以上に、公式が継続してコンテンツを出せるための処世術の方が遥かに大事なので、ダブスタをしているわけです。少なくとも僕のスタンスはこうです。これもまた、ミクロとマクロで最適解が異なるものと言えるでしょう。


二枚舌でありたい

 「今ここにある課題に対してどう振る舞うのが最適か?」と考えたとき、個人のミクロなスケールでの答えと社会のマクロなスケールでの答えは往々にして異なり、時に相反します。個人が誰も行動せず、みな迎合しかしなければ、問題は再生産されてしまい社会がいつまで経っても変わりません。でも社会のために行動をしたならば、苦しい思いのしわ寄せはその個人にやって来ます。

 僕はたいへん欲張りなので、社会をより良くできるような理想を追い求めながらも、自分が心地良く生きるために上手く立ち回ることを優先する、そんな二枚舌でありたい、という結論に達してしまいました。

 たしかにダブスタかもしれません。言行不一致かもしれません。一貫性がなくて信用できないかもしれません。

 しかし、マクロな社会の生きやすさのために抱く信条と、ミクロな個人の生きやすさのために行う言動、その間に必要なのは一貫性ではなくて、視点の切り替えのためのゆるやかなグレーゾーンなのではないか、と思ったのです。ゼロイチで考えて、ミクロな世界にマクロな視点を取り入れるのはナンセンス、マクロな事象をミクロで語るのもナンセンス。クマバチは空を飛べますから。

 台所で料理するならスリッパを、レースで走るならスパイクを履く。別に常に同じ履き物をしている必要はないはずです。ただし、場違いなところでスパイクを履いて、誰かを傷つけることはしないように気をつける。スリッパで走って、転ばないように気をつける。そうやって処世術と真理をはき違えないように使い分けながら、上手いことやっていきたいものです。

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