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酒と泪と手段と目的

 世の中には、2種類の人間がいる――

 飲酒が手段である人間と、目的である人間である。

 

 こんにちは、丁_スエキチです。2021年4月末現在、東京では飲食店での酒類提供が停止され、ネット上では都政を非難する声が溢れ、歓楽街の路上に居座って酒を飲む人間が増え、かくいう僕は閉店間際のやよい軒でご飯を3杯おかわりして腹が苦しいところです。アルコールより炭水化物。

 ついでに言えば自宅のテーブルの上にはウイスキーの瓶が中身を七割ほど残して鎮座しており、冷蔵庫にはカナダドライとウィルキンソンもスタンバイしているので、その気になればいつでもがっつり酒が飲めるぜ、という心の余裕を抱いています。

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スーパーで売ってたCLAYMORE。それはそれとして後ろの積読がカオス。どれも殆ど読んでいない。読め

 しかし、世の中の人間全てが「家でいつでも酒が飲めるぜ」というマインドで心の余裕を持てる、というわけでもないだろうな、とも思うのです。冒頭に言ったとおり、酒を飲むことが手段である人と目的である人がいるためです。(そもそも飲酒をしない人もいるので、より正確に言うならば3種類の人間、と言うべきですが)

 飲酒が目的である人というのは、美味しい酒を飲んで楽しむ、酒と料理の組み合わせや店の雰囲気を満喫する、というように、「酒を飲む」という行為そのものに重きを置いている人。一方で、飲酒が手段である人というのは、飲み会で酒を飲む、友達と飲んで話に花を咲かせることを楽しむというように、「飲酒に付随するコミュニケーション」に重きを置いている人、と言えるでしょう。

 本来、別にどちらが優れている/劣っているということはないはずです。しかし、昨今の情勢は、後者の飲酒が手段である人たちといかんせん相性が悪く、そんなコミュニケーション目的の飲酒を規制する施策によって、前者の飲酒を目的とする人たちも不利益を被っている、という印象を受けます。
 そのため、陰陽二元論が大局的に支持されて対立を一方的に生み出してばかりの魔のSNSことTwitterでは、「一人じゃ酒も飲めないのか」と飲酒が手段である人々を馬鹿にしている人も見受けられます。

 しかしながら、結局、飲酒が手段・目的のどちらであるかというのは常に一貫性の下にあるものでは無いでしょう。普段は飲酒を目的として酒を飲んでいても、たまに親しい者と飲む酒は美味しい。酒と言えば誰かと飲むためのもの、という人であっても、たまに一人ぼっちで飲む酒の味は悪くない。

 酒が手段である人も、目的である人も、どちらもまた自由気ままに酒が飲める世の中になるために、今だけは、飲酒そのものを目的としてなるべく一人で飲んでいきたい、そう思いました。

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