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三浦貴さんの記憶① ~プロ入り前~

「元巨人・三浦貴さん 45歳で死去」
 ――7月25日の朝、この一報が目に入ったときは、寝耳に水の出来事でとにかくショックを受けました。意味わからん。ありえない。やだやだやだやだ、そんなのイヤだ! わけもわからず泣き続け、悲しいという感情が襲ってきたのはもっと後になってからでした。
 たしかに昨年療養されていたことは存じ上げていましたが、復帰した噂もあり、現に今年の春季大会で姿をお見かけしたので大丈夫だと思いました。たまにしか姿を見られない我々一般人からすると、たまに生存確認できているから特に大事にしていなかったのです。楽観バイアスですね。
 毎日気を抜くたびに彼のことを思い出しては時も場も構わず涙してしまい、無気力状態が続いています。食事も喉を通りません。絶望という眼鏡をかけて、ただただ毎日を歩いています。なんだかんだと結びつけてしまって、毎週のように行っていた現地観戦にも、足が向かなくなっていました。
 四十九日が迫り、この悲しみを何とか払拭していい加減前を向かないといけないと思ったのと、彼とのことを忘れないためにも、自分の気持ちを綴っておこうと書いた文章です。脱線しまくりの長文&駄文のうえ、自分語りで、あくまでも自分用の備忘録です。あと、若干のフェイクも交えています。書けないこともいっぱいありましたが、彼のステキさを少しでも外に解放できたら幸いです。


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三浦貴さんの記憶② ~巨人時代~
三浦貴さんの記憶③ ~西武時代・引退~
三浦貴さんの記憶④ ~指導者時代~
三浦貴さんの記憶⑤ ~さよなら~


 私は三浦貴さんの大ファンでした。なりふり構わず好き好きアピールをしていた頃(黒歴史)とは違うものの、引退後はささやかに、だけども衰えることなく彼を応援し続けました。これができたのは、彼が教員という立場から安定して野球に携わっていてくれたためです。この点では、他の多くの元選手ファンよりもかなりラッキーで、幸せなファン人生だったと思います。


プロ入り前

衝撃的な出会い

 三浦投手のことを初めて認識したのは1996年、私が小学3年生だった春休みまでさかのぼります。テレビでセンバツを観たのです。西武球場の近くに住んでいたため、友の会に入りNPBは時々観に行っていましたが、こと高校野球に関しては、テレビで放送されていたら暇つぶしに観る程度。試合を生で観たことも、観ようと思ったこともありませんでした。出場校も把握していなく、そのときも、埼玉県代表の試合だということにテレビをつけてから気づきました。
 というわけで、こたつで寝転がりながら、浦和学院-東海大仰星戦を、序盤の2, 3回あたりから眺めはじめました。結果は、スコア的には浦学のワンサイドゲーム。選手たちのプレーする姿を見て私は非常に感激し、最後までテレビの前から離れられませんでした。贔屓目にしていた埼玉県代表が勝った嬉しさだけではありません。プレー自体がキビキビと気持ちよく、それなのに選手たちは楽しそうにしていたからです。強い学校は大抵雰囲気が怖いし、楽しそうな学校は単にヘラヘラしていて印象が最悪でした。それらどちらでもない、キビキビと楽しそうの共存? みたいなナニカを感じとったことを、ひどく強く覚えています。
 西武もまぁ強いけど、自己犠牲を厭わないきっちりとした感じが強いと言いますか(今と大違い!)。この前季はオリックスの胴上げを目の前で見せつけられて、常勝慣れした私は正直うんざりしていました。そんなタイミングと重なったのも、浦学に惹きよせられるのに丁度よかったのかもしれません。どうしてそんなに「楽しそう」にこだわったのか謎ですし、より相応しい表現がある気がします。ですけど、こんな雰囲気のティームを見るのは初めてだったのです。

 そして、そのキビキビ楽しそうなナニカを最も体現していたのが、そう、エースの三浦投手でした。
  な、なんて美しい人なんだ!
  +゚*。:゚+✧(*✪▽✪*)✧+゚:。*+゚
  どうしよう! どうしよう!
投げ方がとにかくきれいで、あらゆる所作がピシッとしていました。粋で鯔背というのは、こういうことなんですね! ピンチを作っては凌ぎ、作っては凌ぎ、爽やかにベンチに戻っていくんです。投げても打ってもスマートにこなしていく様が画面越しに伝わってきました。
 私、毎度ワンパターンのように身体能力お化けに惹かれるんです。幼い自分に三浦投手の素質がわかったのかは疑問ですが、グラウンドで躍動する姿から何かしら感じとるものがあったのでしょう。単なる男前とか強いとかでなく、異様な美しさを放っていました。そして、ちょくちょく打たれて、細身でちょっと頼りなかったのも心クスグられました。細い顔に切れ長の目、頬のホクロと独特のなで肩から、どこか和風美人に抱くのと似た艶やかさも感じました。
 ゾクゾクしました。人生で1番、ゾクゾクしました。

 次の試合予定をチェックし、家族で出かける等しないことを祈りました。その願いは叶い、岡山城東戦はちゃんと最初から観ることができました。熱戦、熱戦、大熱戦。土壇場で追いついたときはすごく興奮しました。三浦投手はまた1人で打たれて守って打って走って、一所懸命でした。結果的には延長の末、わちゃわちゃして負けてしまいました。これはなかなかの名勝負だったぜ!

 もう見られないのは残念でしたが、勝敗はあまり関係ありませんでした。この選手と、そしてこのティームと出会えたのが嬉しかったのです。これら2試合を経て、彼等のことを応援する人生を送りたい、いや、そうすべきだと悟りました。傍から見ればキモいと思います、こっちは本気ですけど。
 ただ、悪いことをしている気分だったので、ファンになったことを大っぴらには言えませんでした。なぜ関係ない高校を応援しているのかと問われたときに、一目惚れしたからなんて言うのは恥ずかしいったらありゃしないですからね。
 あ、もちろん、今は堂々と浦学信者を公言しています。きっかけが三浦の代ってのは聞かれない限り言わないけど〃◡〃

文字で応援

 その後、小学生なりに浦学野球部について情報収集しました。家にあったNPBの選手名鑑によると、鈴木健と、巨人の清水というルーキーが浦学出身でした。高校は、中学ほど地域性が濃すぎず大学ほど薄すぎず、すごくちょうどよい面白さです。12球団全選手(外国人含む)の高校以降の球歴や出身市町村を覚えたり、拡大コピーした日本の白地図に、強豪校の所在地を書きこんで遊んだりしました。あの頃の記憶力、我ながら羨ましいです。とにかく名鑑はへなへなになるほど読みましたね。
 名鑑以外の収集法は、もっぱら新聞の地域欄やスポーツ欄。大学野球のスタメンには出身高校が書いてある場合があり、大学によって偏りがあって面白いです。毎週毎日のように全国でいろんなカテゴリの野球の試合、いろんな大会が行われていることを知り、横をカテゴリ、縦を時系列とした新聞記事のテーブルを作成し、すぐ断念しました。ですが、今後の人生の楽しみが増えてウキウキしましたね。大人になったら、日本中野球を観て回るぞ!

 閑話休題。浦学は春の県大会を2位突破して関東大会まで進出しました。春季大会の存在を初めて知りました。といっても、新聞で結果をチェックするという応援しかできませんでした。今冷静に振り返って、17期周辺はメンバーも豪華で相当強かったと思います。ってか三浦がすごい! 前年は秋関王者だったんですよね、もう何回も関東制覇していますが、この代が初めて。あぁ、勝ち上がりぶりをリアルタイムで体感してみたかったです。
 そしてついに夏県です。なんとか観戦に行きたいと画策したものの、親への話の切り出し方に困り、断念しました。それだけでなく、夏休み(休み前の土日?)にコールド勝ちの1試合だけテレビ観戦して、田舎に帰ってしまい、県大会はほぼ観られませんでした。久々に映像で再会して幸せでしたが、他の試合は新聞で結果を知る次第です。だがしかし! ちゃんと勝ちぬいてくれて甲子園を決めてくれたじゃないですか! さすが浦学。
 選手権本番は、新聞のトーナメント表を切りとってそれはそれは楽しみにしていました。それなのに、お盆で和尚さんが来るタイミングに試合が重なり、結局中盤から観る羽目になりました。当時の私にはまだ録画という概念や能力がなかったのが悔やまれます。試合はというと、完敗でした。観はじめてすぐにホームラン連発を喰らいました。三浦投手はノックアウトされて凹んで(泣いて?)しまい、仲間に頭をぽんぽんされ励まされていました。感情出しすぎ。相手の高松商は、投手がいかにも打ちそうで強かったです。大分忘れていましたが、↓を観直して少し思い出しました。優勝候補と勝手にもち上げられて早々に敗退する芸をこの頃からやっていたのですね。

ちなみに高松商2番手の神田は元ロッテの神田義英。

 どっと疲れたのを覚えています。この年の夏休みは毎日往復7.8kmを走っていた(小学校中学年の児童の筋肉の成長からして、これだけの長距離を日常的に踏ませるのはよろしくありません。陸連のガイドラインも上限5kmです。ちなみに三浦は昔、毎日30km走ったと豪語していましたが、いくらピッチャーでも長すぎだと思います。長距離のジョグはキロ5~6くらいで30分、ノースローの日で小一時間という感じでしょう。30kmなんてただのマラソン好きのドMです)のに、この日はサボってしまいました。目を閉じて、プレーする選手たちの姿を瞼の裏にじんわりと染みこませ脳裏に焼きつけて、よーく寝ました。負けた悲しみは意外となく、戦いぬいた充実感でいっぱいでした。浦学生の野球人生は、まだまだ続くんです。

 当時はまだ進路に興味はなく、情報収集の術もありませんでしたので、三浦投手はじめ浦学のことはしばらく放置していました。4番の石井がドラフトで横浜から指名されたのを知って嬉しかったです。
 三浦投手が進学するのかも、大学野球のことも三浦投手のレヴェルも各球団の補強ポイントも、私は何一つわかってはいませんでしたが、三浦投手は近い将来必ずやプロ野球選手になれるという自信がありました。一体何様だよ。卒業後、新聞で「三 浦①(浦和学)」を見つけたときは小躍りしました。はい、即座に東洋ファンになり、今に至ります。

ドラフトと初めての観戦

 三浦のいない浦学も魅力たっぷりでしたよ。耳道&阿久津の18期。松坂に土をつけた主砲小板&サウスポー南真の19期。9点差逆転のミラクルを起こした20期。埼玉史上最高の試合と語り継がれる決勝戦を繰りひろげた21期。この試合はなぜか苗場で家族皆で観ました。
 ちなみにこの夏は、初めて現地観戦をした年でもあります。大宮からでなく、野田線に乗り換えて大宮公園駅から県営に行きました。まずは共栄の中里を観ました。見たこともない、ぐわんと浮き上がるような球を投げていて、強豪高校の投手って生で観るとすごいんだなと心底感心しましたが、人生であれ以上の高校生の直球って見たことないですよ!(なお中里は三浦とも縁のある選手です……が、ググっても出てこないので自重。)
 そして市営まではしご。初観戦ではしごなんて、高度すぎるぜ。多分鷲高戦だったと思うんですが、いやぁ久喜北陽戦かもしれない。なんかあんま覚えていないんです。初めての生浦学なのに~なんで~ダメじゃん自分。ちゃんと乗り換えできるか、球場にたどり着けるか、お金やお昼ご飯の心配をしていたことと、中里の球は覚えているんですが……。

2000年11月15日、17日の讀賣新聞。
読み返すと、巨人が十分唾つけているが、三浦は逆指名していないから当時はドキドキだった。
どういうわけか弥太郎や中里に線を引いていなく、私の心に余裕がないことが窺える(?)。

 この秋のドラフトは、私にとって忘れられないドラフトになりました。
 三浦の登板を新聞でチェックしていたのに加え、この頃には雑誌も立ち読みするようになりました。野球好きな同級生たちと共同出資して図書館制度を運営していました(人数が減り途中で崩壊した)が、皆NPBには興味あれど、アマチュア野球やドラフトに興味ある人は少ない。そっち系は全部立ち読みでした。
 最終学年となった三浦は写真つきで紹介されることもあったものの、評価はその他選手という感じ。ハーレム大会にも出るくらいだったんですが! 無茶 大車輪の活躍をした秋季リーグが始まった後の雑誌では掌返しで露出が増えました。読みがことごとく「たかし」になっていて、始めは間違いかと思ってショックでした。特に阪神が高評価をしていたり指名予想されていたりしたので、縦縞の三浦を妄想していました。ただ、本人の意中の球団は巨人と書いてありました。
 私の中学には班ノートなるものが存在し、その日あった出来事などを書くのを班員5人ほどで回していきます。私は雑談はとても苦手なので、ほとんど数学の話か野球の話を書きました。そこで1ヶ月以上ドラフトを取り上げました。人生初のドラフト・レポートですね。やるからには質のよいものをと思い、よい選手とは何か、どんなところを見ればよいのか、どんな指標があるのかなどを必死に学びました。ただ、当時はネットサーフィンしてもなかなか情報が集まらない時代。動画なんてないから自分で観に行くしかない、がお金も自由もない。雑誌の立ち読みで事前情報を頭に入れ、テレビで甲子園を観て選手の感想をメモする、といったところです。根市とか筑川とか。北陸の三羽ガラスが全員未出場で困りました。最後から2番目は中里1人を、ドラフト直前の最終回は三浦1人を取り上げました。1ページでよいのにたしか見開き6ページくらい使っちゃいました。班ノートごときに、なけなしの10円で新聞をコピーしたり絵かいたりして。あれ、今見てみたいなぁ。
 夜のニュースか何かでドラフト特集をやっていて、5秒くらい三浦が映りました。あああ? 今三浦のこと言った? って感じで、青い球場と青いグラブの残像だけ目に残りました。

 ドラフト当日は、すごくドキドキしました。(こんなレヴェルの投手なんていくらもいる。指名されるとか思い上がりだ。おとなしく阪神を逆指名しとけばよかっただろ)と自分の中の悪魔が囁き、どんどん自信がなくなっていきました。下校してテレビやニュースでも1位と逆指名以外は取りあげてくれなく、家のPCで検索しました。予想ページばかりで速報を見つけるのに苦労して、夕飯後にようやく、巨人から3位指名されたことが判明しました。
 まずは指名されたこと、それも意中の巨人だったのは喜ばしいことです。巨人は争いが激しいけど、1軍で試合に出ればテレビで観られます。最高のティームに入ったなと喜びました。厳しい世界なのは変わりない、でもきっと三浦ならがんばれるはず。ここはスタートなのです。
 三浦っていうすごいピッチャーがドラフトで指名されるよと騒いでいたので、後日同級生から祝福の言葉をもらいました。
 大学時代の三浦って、クソ生意気そうでかわいいですね~♪ 入寮時のダサめな三浦も個人的にはお気に入りです。迷惑かけちゃった、阪神2位、廃部したプリンスの伊達は、同じく高校の先生されていますね。応援しています。

ドラフト翌日、2000年11月18日の讀賣新聞地域(埼玉)欄。
討論大会のプリントの裏に貼ってあった。大卒の三浦だけ取材されていなく、画もない。

 三浦がドラフト指名を受けた翌々日、私は神宮第二球場にいました。この年は高校野球に続いて、大学野球観戦デビューも果たしたのです。三浦の秋季の活躍ぶりを見て、大学生のうちに観てみたいと想いを募らせていたのに、東都は基本平日だから、リーグ戦は観に行けなかったんです。観てる人なんて暇なじいさんと応援団しかいないし。この日は休日で、最後のチャンス。神宮大会の観戦です。東洋大-愛知学院大戦で、東洋の先発はもちろん三浦。私が初めて生で観た三浦でした。
 高校時代と比べフォームがパワーアップしている気がしました。クソ喰らえって腕をぶん投げて、蹴り上げた足が大きく上がって、めっちゃ美しく、そして想像よりはるかに豪快でした。よいよいと散々書かれていたスライダーは、誰にも打たれなかったですね。他の変化球もかなりの種類あったように見えました。打たれる三浦も好きだったんですけどね~その日は完璧に抑えて、全く危なげない試合運びでした。ガッツポーズも何度もしていました。結果は見事、完封勝利! それに加え、打ちまくって3の3、4出塁。東洋は、浦学出身者ばかりだし、観てわかるほどに足の速い人が多くてびっくりしました。まぁ、全盛期(大場、乾&鹿沼、藤岡)来る前で東洋が強かったのってこのシーズンくらいでしたけどね。生三浦最高! 来てよかった……。充実感でいっぱいでした。
 大学時代は途中(学校ごと)いない時期もあったけど、有終の美を飾ることができて、本当によかったです。
 ちなみにこの神宮大会の高校の部には、同じ学区内に住んでいる少なくとも3人(ベンチ入りは2人)が所属する岡山学芸館高校も出場していて、その観戦に来ていた知り合いの保護者に偶然お会いしました。アマチュア野球も楽しいナ。

※ 見出し画像は、鈴木健の浦学時代のユニフォーム。2011年センバツ時に訪問した甲子園歴史館に寄贈されていた。


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