血のしたたる坂道

1〈くだる〉

少し疲れたし喉も渇いてきたので、おれは脚を止めた。ゆっくりと身体の向きを変え、ゆっくりと腰を下ろす。目の前にはおれが上ってきた坂道が延びていた。この坂道はおれの背後にまだまだ続いている。目測でざっと三分の二ぐらいは上ったか。
おれは背中からリュックサックを降ろし脇に置き、ワークパンツのベルトに挟んであったタオルを抜き取り顔の汗を拭った。リュックから魔法瓶を取り出す。蓋をはずしてそれにアイスティーを注ぎ、一気に喉へ流し込む。砂糖を入れすぎたようで少し甘かったが、よく冷えていたので喉の渇きはだいぶましになった。蓋を閉めた魔法瓶は転がらないようリュックの上側にもたせかけるように置く。
喉を湿らせると今度は一服やりたくなるものだ。Tシャツは汗まみれで、その汗は上に羽織っているワークシャツにまで及んでいて、胸ポケットに入れてあった煙草の箱にも汗が染みていたが、中身は大丈夫のようだった。一本くわえ火をつけ、ごろりと寝ころがる。ちょうど頭の真上に太陽があった。そのギラギラ、ギラギラ、もう言いってぐらいギラギラ輝いている太陽にめがけるよう、おれは煙を吐きだした。いい気持ちだ。
煙草を一本吸うあいだにおれの傍らを男が三人、通りすぎていった。みんな上へ向かっている。彼らだけではない。ここで休む前、おれの前には何人かの男が歩いていた。おれのあとからはもっと多くの者が上ってきている。男だけではなく少ないが女もいる。暇つぶしに数えてやろうかと思ったが、あまりに多いので止めた。まぁ、少なく見ても百人は下るまい。なんのためかは知らないが、大勢の者たちがこの坂道を上っている。この暑さのなか、ご苦労なことだ。まぁ、おれも他人のことをとやかく言えた立場ではないわけなのだが。
疲れもだいぶ取れたように思えたのでそろそろ行くかと上半身を起こしたその時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
地の底から響いてくるような――なんて陳腐な表現は好きではないが、まさにそんな感じの音だった。それは坂の上の方から聞こえてきた。
なんだなんだなんだ。なんの音だ。
考える間もなく、今度は熱帯地方にでもいるような極彩色の鳥が発する鳴き声みたいな音が耳に飛び込んできた。
「ぎゃああああああああああああああああ」
ひどく癇に障る音だった。
座ったまま上半身をねじ曲げ振り返ると、灰色の物体が道幅一杯に拡がっているのが見えた。
なんだなんだなんだ。あれはなんだ。
それは――ロードローラーだった。道路を均すときに使う、あれだ。それも、並の大きさのロードローラーではなかった。この坂道の道幅は十メートルぐらいある。その道幅一杯なのだからローラーもまた十メートルぐらいの幅があるってことだ。高さもゆうに三メートルはあるだろう。ローラーがあまりにも高すぎてそれ以外の運転席やら駆動部やらはまったく見えない。まるでローラーだけが単体で進んできているような、そんな感じだ。とにかく巨大なロードローラーだった。
そいつは今、坂道をゆっくり下りながら、道と一緒にひとりの男を均そうとしていた。
男は顔をこちらに向け、もがいている。そして絶え間なく悲鳴を挙げつづけていた。鳥の鳴き声だと思ったのは彼の悲鳴だったのだ。
ここからロードローラーまで百メートルぐらいは離れているので男の表情まではっきりとわからなかったが、この世のものとも思えないほどの苦痛に歪んでいるであろうことは、その悲鳴の大きさ、悲痛さから簡単に想像できた。男は膝のあたりまでローラーに飲みこまれているようだった。なんとか抜け出そうと両腕をバタバタ動かし藻掻いているが、それがまったく無駄な努力であることは一目瞭然だった。
ロードローラーはゆっくりゆっくり動いていた。男が苦しむのを楽しむように、ゆっくりゆっくり進んでいた。
おれはただ呆然とそれを見つめていた。いや、おれだけではない。おれの前――つまり、おれとロードランナーのあいだにいる何人かの男たちも皆、その地獄のような光景を見つめながら凍りついたように立ちすくんでいた。おそらく、おれより後ろにいる連中たちも同じようにただただそれを見つめているにちがいない。
男の膝から腿、そして腰のあたりまでローラーが達したところで、悲鳴は止み、バキっという鈍い音がここまで聞こえてきた。腰骨が砕けた音のようだった。それと同時にのけ反っていた男の上半身はガクっと崩れ落ちた。死んだのか。おれは思わず悲鳴を挙げそうになったが、声は出なかった。喉がカラカラに乾いていたからだ。ついさっきアイスティーで潤したばかりだというのに、あまりの惨状を目の当たりにして、おれの喉はアッという間に乾ききってしまっていた。なんてこった。
今やただの肉の塊と化した男の身体の上をロードローラーはなおも進んでいた。腹から胸。頭がグシャリと潰れ、前に伸びていた両腕も徐々に消えていき、ついに男の身体は完全におれの視界から消滅した。
ひとりの男を喰いつくしたあともロードローラーは停まらなかった。まだ前進をつづけている。それどころかスピードが若干速くなったようにも思えた。停まらないということは、ようするにこちらへ向かってくるということだ。
おれを含め、坂道の上にいた誰もがまだ凍りついたままだった。身体もだが、頭も凍りついているようだった。いったい何が起きたのか。何が起きているのか。今さっき見たものはいったい何だったのか。まだよく咀嚼できずに固まっていた。
そのなかで最初に凍結から解除されたのは、坂道のいちばん上――すなわち、ロードローラーの最も近くでへたりこんでいた男だった。
「うわああああああああああああああああ」
ロードローラーが目と鼻の先まで迫ってきたところで、そいつは大声で悲鳴を挙げた。しかし彼はそこから動こうとはしなかった。いや、動けないのだ。至近距離でひとりの男が均されていく様を目の前で見ていて、腰が抜けたのだろう。
「ぎゃああああああああああああああああ」
悲鳴がオクターブ高まった。どうやら彼もロードローラーに捉えられたらしい。
その悲鳴の転調がきっかけになって、おれより上にいた男たちは次々と動きだした。
ロードローラーの新たな餌食になった男の次に近くにいた男は身体の向きをクルリと回転させると、いきなり走りだした。馬鹿かこいつは、とおれは思った。こんな急な坂道で下へ向かって走ったりするとどうなることか。彼はすぐに何人かを追い抜き、おれの方に向かって凄い勢いで走ってきた。
「おい、よせ。こっちへ来るな」
おれは叫んだが、男は止まらない。いや、止まれないのだ。勢いがつきすぎて止まることができないのだ。
立ちあがっている暇はなく、おれは座ったままで必死に身体を動かし、男の進路から逃れた。咄嗟のことで気が回らず置いたままにしてきたリュックに男は蹴躓くのではないかと思ったが、彼はうまくそれを飛び越えた。しかし着地の際にバランスを崩したらしくすぐに転倒してしまい、ゴロゴロ転がり、それっきり動かなくなった。それ見ろ。こんな急な坂道で下へ向かって走ったりするとこうなるのだ。
それを見ていた他の連中は走ろうとせず、ゆっくり坂道を下りはじめた。
おれもリュックを背負い、立ちあがった。歩き出す前に喉の渇きを癒すためアイスティーをもう一杯喉に流し込み、魔法瓶はいつでも飲めるよう肩から斜め掛けした。その間、背後からは第二の犠牲者の悲鳴が聞こえつづけていたが、気にしている暇はなかった。

この坂道の遙か下には波ひとつない穏やかな海が拡がっていて、坂は最後には海に落ち込んでいる。道の両側にはいずれも五メートルぐらいある高い壁が立っていて、それも海まで続いている。海に落ち込む少し前に、右から左へ、左から右へ、自動車がひっきりなしに往来している広い道路が横たわっていて、そこは壁が途切れている。更にそのちょっと手前にも壁が途切れている箇所があり、そこからは左へ向かって細い道が伸びている。壁が途切れているのはその二箇所だけだった。
おれは今、その細い方の道を目指して坂を下っている。おれだけではなく、この坂道にいる誰もがその道を目指していた、
ロードローラーのローラーは道幅一杯に拡がっているのでやり過ごすことはできないし、ローラーを乗り越えることもまず無理だ。壁を越えることも難しい。何人かで協力すれば壁越えできそうにも思うが、知らない者に声をかけたりするよりも、ひたすら坂を下る方が早いだろう。おれとロードローラーの距離と速度を比べれば充分間に合うはずなのだ。
そうかといって走るわけにはいかない。急な下り坂なので走るとすぐに加速がついて、さっきの男のように途中で転倒してしまうだろうからだ。横を通りすぎるとき、いちおうその転倒した男に大丈夫かと声をかけてみたが返事はなかった。気を失っているのか、あるいはよっぽど打ち所が悪く死んでしまったのかもしれない。その轍を踏まないよう、けして急いではいけないのだ。かといってゆっくりすぎるのも勿論だめだ。速くなく遅くなく、ほどほどのスピードで慎重に進まなくてはならない。
それにだ、歩き出す前ざっと数えたらおれの後ろには転倒した奴を含めてまだ七人の男がいた。少なくともその七人がやられない限り、おれは無事ってことだ。
そんなことを考えながら坂を下っているうち、二人目の悲鳴も消こえなくたった。あいつも死んだか。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
しばらく聞こえていたのはロードローラーが地面を均しながら進む音だけだった。みんな坂を下って歩いているのだし、もう誰かの悲鳴を聞くこともないだろう。あるとすれば、さっき転倒した男が生きていた場合だが――
と思った瞬間、悲鳴が聞こえた。
「ぎゃああああああああああああああああ」
うわ。あの男、やっぱり生きていたのか。声をかけるだけじゃなく揺り起こしてやるべきだったか。おれの心に後悔の念みたいなものが沸きあがった。おれのリュックがあそこにあったため転んだのだ、という思いもあった。おれは脚を止め、振り返った。今度は踏まれている男の顔がはっきりわかった。その顔は恨めしそうな視線をおれに向けていた。
おれはその視線に射すくめられたように動けなくなった。おいおい。これはやばいぞ。そのうえ、ロードローラーの速度がさっきよりも速まっているような気がした。いや、気がするのではなく本当に速くなっている。それはさっきよりロードローラーが大きく見える――つまり、距離が縮まっているってことからも、そして三人目の悲鳴が先の二人のときより早く聞こえなくなったことからも明らかだった。おいおい。これは本当にやばいぞ。動かなくては。
おれが立ち止まっている傍らを男が一人、追い抜いていった。
三人目の犠牲者の身体は既に肩まで潰されていた。が――頭は潰れなかった。どうしたはずみか首から先がブチっとちぎれ、頭だけゴロゴロと転がったのだ。頭はその前を歩いていた男の脚に当たった。男は何が当たったのかわからなかったのかそれを拾いあげ、それが生首だとわかると「ぎゃっ」と叫び、思わず走りだしてしまっていた。彼のすぐ前を歩いていた別の男もつられて走りだした。二人はアっという間におれを追い越したが、つられた方の男は前を歩いていた男にぶつかり、一緒に転倒した。先に走りだした男は生首を抱えたまま転けることもなく誰かにぶつかることもなく、どんどん坂道を下っていった。まるでラグビーボールを抱えて走るラガーマンのようだ。スピードもどんどん加速しているようだった。彼の姿はだんだん小さくなり、やがて横道のあたりを通り越しついに広い道路まで行き着いたかと思うと、猛スピードで走っていた自動車にはねられ、おれの視界から消えた。
いつの間にかおれの身体はまた動くようになっていた。一連のドタバタがいい具合にショックを与えてくれたようだ。おれはまた坂道を下りはじめた。
おれの背後にはまだ三人いる。大丈夫だ。ダイジョーブだ。転倒したばかりの二人を追い越した。これでおれの後ろの人数は五人になった。大丈夫。ダイジョーブ。
「ぎゃああああああああああああああああ」
また悲鳴が聞こえたが、おれはもう振り返らなかった。なにがあって四人目が犠牲になったのかわからなかったが、もう知りたくもなかった。
「うわああああああああああああああああ」
一人またおれの傍らを駆け下りていった。おれは背後のことは気にせず、その男の背中だけを目で追った。男は走りながら前を歩いていた男の腕をつかんだ。そうすることによってスピードを殺そうと思ったのだろうが、逆に前の男も一緒につれて走ることになった。二人はなおもスピードを増し、その前にいた五、六人ぐらいかたまって歩いていた集団にぶちあたり、みんなまとめて派手に転倒した。
その転倒した集団も追い越し、おれはどんどん歩いた。坂道をどんどん下った。後ろから走ってきた者にぶつかられることがないよう壁際を歩いた。横道に少しでも近いようにと左側の壁際を。この壁の向こうにはなにがあるのだろうか。
近づいてみてわかったのだが、壁には何かで擦ったような跡がいくつも付いていた。これはロードローラーが擦った跡なのではないか。あのロードローラーはこの坂道を何度も行き来しているのかもしれない。
なんのために?
それ以上、おれは考えるのを止めた。考えたってこの状況じゃどうせろくなものしか出てくるまい。考えるより、今は歩くことだ。坂を下ることだ。
歩いているうちコツをつかめてきて、速度もずいぶん上がり、何人かを追い越すことができた。何人かに追い越されもしたが、それはいずれも走りだした者たちで、そのほとんどは途中で転倒して、転倒した者のほとんどはその場で動かなくなった。転倒しなかった者も何人かいたが、彼らは途中で止まることができず広い道まで走っていって、自動車にはねられた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
ロードローラーは次から次へと獲物を捕らえているようで悲鳴が聞こえなくなることはなかった。ときには悲鳴の二重唱、三重唱も聴けた。そして、その悲鳴はどんどん大きくなってきているようだ。悲鳴にかき消され気味ではあるが、ロードローラー自身の駆動音も大きくなってきている。間違いなくおれたちの距離は縮まっていた。だが焦ってはいけない。焦るな焦るなと自分に言い聞かせる。もう少しだ。坂道の半分はとうに下り終え、残り半分のそのまた半分ぐらいまでは来ているはずだ。もう少しであの横道に辿り着くことができる。
そうはいっても不安や焦りが完全に拭えたわけではない。おれの後ろにいる奴はなおさらだろう。おれの傍らを走り抜ける者の数はどんどん増えていった。おれよりだいぶ前を進んでいるのに走りだす者までいた。馬鹿な連中らだ。焦ることはないのに。それは自分に言い聞かせているようなものだった。焦るな。落ち着け。アセルナオチツケ。

不意に悲鳴が聞こえなくなった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
ますます大きくなったロードローラーの音だけが坂道に響く。
そういえば――おれを追い越していく者もいなくなったな。
おれは坂を下りながら考えた。なぜ悲鳴は止んだのか。なぜおれの傍らを走り抜ける者がいなくなったか。今度ばかりは考えざるを得なかった。考えて考えて考えて――
とても嫌なことに思い至ってしまった。
もしかしたら――
おれは最後尾にいるのではないか――?
その考えが正しいのかどうか、確かめる手段はあまりにも簡単だ。そう、振り返ってみればいいのである。だがそんなことできるはずなかった。もし振り返ってロードローラーとおれのあいだに誰もいなかったら、おれはどうすればいいのだ。誰もいなければロードローラーの次の獲物はおれってことになる。どうしよう。ここからなら走ってもなんとかなるんじゃないか。あの横道のあたりまでなら距離的にもたいしたことないし、手前ぐらいでうまく転けることができれば、横道に逃げこめるかもしれない。かなりの手傷を負うかもしれないが、死ぬよりはマシだ。おれは最高に焦っていた。焦って焦って焦って、ついに走りだそうとした。
と、そのとき――
「ぎゃああああああああああああああああ」
背後から新たな悲鳴が聞こえた。
そしてすぐ――
「うわああああああああああああああああ」
おれの身体を掠めるように誰かが一人、駆け抜けた。
よし、いいぞ。おれは最後尾ではなかった。おれが次の獲物ではなかった。おれは気持ちを落ち着かせ、なにもなかったかのように坂道を下る。
おれの傍らを駆け抜けていったのは女だった。こんなときだというのに、ピッチリしたジーンズに包まれた形のいい尻におれは見とれてしまった。しかし、見とれていられる時間はあまりにも短かった。女はすぐに、ずっと前から転倒していた男の身体につんのめり、ヘッドスライディングの要領で坂道をかなりの距離ズルズルすべっていき、やがて止まった。
背後ではさっきの悲鳴が終わらぬうちに新しい悲鳴が重なっていた。最初の悲鳴は男のもので、次の悲鳴は女のものだった。悲鳴の混声二重唱だ。
それと同時に今度はおれのすぐ前にいた三人の男女がバタバタと走りだした。彼らは走るうち次第にひとつに固まっていく。そのうち彼らに巻き込まれてしかたなく一緒に走りだす者も出はじめ、その数はどんどん増えていった。ある男などあと五メートルも下れば横道に達するというところで二十人ぐらいに膨れあがった固まりに飲みこまれてしまった。固まりは横道を通りすぎたあたりでひっくり返り、ゴロゴロと広い道までころがり、ちょうど走ってきた大型トラックに全員残らずはね飛ばされた。その様は実に壮観だった。
今ので、おれの前を歩く者の数は一気に減った。最初は百人以上いたのに、今では十人もいない。死んだ者も山ほどいるが、それ以上に横道へ逃げおおせた者も多いだろう。おれの前を歩く者たちも一人また一人と横道へ消えていく。
おれももうすぐだ。あともう少しであの横道へたどり着くことができる。ゴールは目前だ。
一人また一人と横道へ消えていき、横道までもうあと二十メートルぐらいというところで最後の一人が横道に消え、ついにおれの前を歩いている者は誰もいなくなった。転倒している者も一人だけだ。それはさっきのヘッドスライディングの女だった。五メートルほど前で倒れている女の、そのピッチリしたジーンズに包まれた形のいい尻におれはまた見とれてしまい、つい壁際から女が倒れている道の中央へふらふら歩み寄ってしまった。
ここまで来たらもう大丈夫。ゴールは目前という安心感もあったのだろう。
だが、それが間違いだったことをおれはすぐ思い知ることになった。
倒れている女のすぐ傍らを、女の尻、汗でびっしょり濡れたTシャツの背中、茶色っぽい短髪と順に目で追いながら、おれは進んだ。うつぶせに倒れているので顔は見えない。どんな顔なのだろう。美人なのかブスなのか。おれ好みの顔だろうか。おれ好みの顔だったらいいのになあ。
すると――
女がガバっと顔を上げた。
まさかおれの気持ちを察したわけじゃあるまいがドンピシャのタイミングだったので、おれは驚き、脚が止まってしまった。女の顔を見て、さらに驚いた。さっきのヘッドスライディングのせいだろう、一面皮がむけ鼻がグシャリと潰れていた。まるで漫画か映画に出てくる蛇女のようだ。当然おれ好みの顔ではなかった。
「助けてぇ助けてぇ」
女はそう言いながら両腕でおれの右脚を抱いた。おれはバランスを崩し尻餅をついてしまった。
それとほぼ同時に――悲鳴の混声二重唱が聞こえなくなった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
顔を上げるとロードローラーの姿が見えた。思ったより近かった。このままだと1分も経たないうち女の足に喰いつくだろう。
「連れっててぇ連れっててぇ」と女は涙をボロボロ流しながら言った。
「立ち上がれないのか」
「無理よぉ無理よぉ」
普通に元気な状態のときならともかく、長くて急な下り坂を速からず遅からずのスピードで下りてきて、しかもあんな怪物のようなロードローラーに追いかけられ、肉体的にも精神的にも疲れ切ったこんな状態で、どうして動けない女をつれていけようか。しかもロードローラーは目と鼻の先にまで迫ってきているのだ。かわいそうだが連れてはいけない。
「お願いよぉお願いよぉ」
しつこく縋りつく女を振り払おうと、おれは右脚に力を入れ引っこ抜こうとした。だが女の力は思ったより強く、おれの脚を離そうとしない。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
間近で見る巨大なローラーは全体が赤黒く染まっていた。最初見たときは灰色だったのに、血の色に染まってしまったのだろう。肉片らしきものや衣服の切れ端もこびりついていた。
おれは手を伸ばして女の腕を剥がしにかかったが、それでも離れない。しかたなく空いている方の左脚で女の顔を蹴った。何度も蹴った。女の顔から血が飛び散った。それでも女はおれの右脚を離さない。けして大きな女でも屈強そうな女でもない。むしろ女としても小柄で華奢な方だろう。その身体のどこにこんな力が潜んでいるのだ。火事場の馬鹿力とはよく言ったものだ
いやいや、感心している場合じゃない。
「ええい、離せ離せ」
「嫌よぉ嫌よぉ」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
ロードローラーはどんどん近づいてきて、ついに女の脚に喰らいついた。
「痛いよぉ痛いよぉ」
女は泣き叫んだ。
「痛いよぉいたぎいいいいいいいやあああああああ」
叫びはすぐ言葉じゃなくなった。とてつもない音量の悲鳴を女は吐いた。おれの右脚を抱いたまま上半身をのけ反らせる。破れたTシャツからふたつの乳房がこぼれ出ていた。大きくも小さくもないおれ好みの乳房だったが、顔と同じように皮がむけて血にまみれている。そこから首のあたりにかけて無数の鳥肌が立っていた。
ロードローラーは女の脚をジーンズごと潰していく。大量の赤黒い血がこちらへ向かって流れてくる。
「うわああああああ」
たまらずおれも悲鳴を挙げた。
女の足首から臑のあたりがローラーに飲みこまれていく。女は悲鳴を発しつづけていたがおれの脚を掴む強さは緩まない。
おれは肩から斜め掛けしていた魔法瓶で女の顔を殴った。何度も殴った。また血が飛び散った。女の力が少し緩んだ。それは魔法瓶で殴ったからなのか、ロードローラーが女の力を奪おうとしているからなのか、どちらかわからなかった。いや、そんなのどちらでもいい。女がおれの脚を離してくれさえすれば、なんでもいいのだ。おれはなおも悲鳴を挙げつづけながら女の顔を魔法瓶で殴った。殴りつづけた。
「ぎやあああああああ――」
腿のあたりまでローラーに飲みこまれたところで女の悲鳴は止まり、同時に力もスっと抜けた。死んだらしかった。
おれはようやく女の力から解放された。だが、すぐに立ちあがることはできなかった。ピッチリしたジーンズに包まれた形のいい尻が潰され均されていくのを呆然と見つめていた。いつの間にかおれも悲鳴を挙げるのを止めていた。

ようやく我に帰ったのは、流れてきた女の血がおれの靴の先を濡らそうとしているのに気づいたときだった。
「うわっ」
おれは咄嗟に立ちあがった。いや――立ちあがれなかった。立ちあがろうとしたのだが、斜面を後ろ向きに立とうとしたので、すぐにバランスを崩しまた尻餅をついてしまったのだ。
バキっという音がした。女の骨盤が砕けた音のようだった。
おれは身体の向きを変え四つん這いになってから、そろそろと立ちあがった。今度はうまく立てた。立てたのだが、膝がガクガク震えて、身体が前後左右によろめいた。また倒れそうになったのをなんとか持ちこたえたが、とても走れそうにはなかった。走るとまた転けてしまうだろう。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
背後からはロードローラーが迫り来る音にまじって、女のどこかの骨が砕けるバキバキという音も聞こえていた。
おれは慎重に右脚を前に出した。うまく出た。今度は左脚。こっちも出た。よし、いける。膝は震えたままだが、なんとかいけそうだ。おれはふたたび坂道を下りはじめた。ゆっくりゆっくり。焦るな焦るな。ゴールの横道まであと十五メートルほどだ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
バキバキという音はもう聞こえなくなった。蛇女は完全に潰され、均されてしまったらしい。これでいよいよ奴の獲物はおれだけになってしまったのだ。あと十メートル。大丈夫、逃げ切れる。ときどき脚がよろけたがおれは進んだ。あと五メートル。前へ前へ。下へ下へ。あと三メートル。壁の切れ目が見えた。横道だ。脚の方向を少し左へ。最短距離。あと二メートル。横道だ。横道だ。あと一メートル。あと――
一瞬なにが起こったのかわからなかった。おれはまた倒れていた。坂の上の方に頭を向け、仰向けに倒れていた。太陽がギラギラ輝いているのが見えた。
頭の下や指の先にヌルっとした感触。血だ。それは血だった。蛇女の身体から流れ出た血だった。おれが歩く速度より、血が坂道を流れる速度の方が速かったのだろう。おれはそれに脚を滑らせてしまったのだ。
おれはすぐに起きあがろうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。倒れたときに変なところを打ちでもしたのか、手も脚も動かない。首は――動いた。首だけは動く。首から下がまったく動かないのだ。
おれは首を右へ向けた。頭になにかが当たっている感触があったからだ。それは魔法瓶だった。転倒したときにストラップが切れたのだろうか、魔法瓶はおれの身体から離れ、そこに転がっていた。
次に首を反対側に向けた。そこに壁はなかった。横道だ。一メートルも離れていないところに横道の入り口があった。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、おれは今、手も伸ばせない。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
今までにない大音量だった。おれは仰臥したまま首をのけ反らせた。五メートルぐらい先に逆さまになった奴の姿があった。どんどん近づいてくる。あと三メートル。もう駄目だ。あと二メートル。もう駄目だ。もう駄目だ。あと一メートル。視界一杯に奴のローラー。あと――
鉄の感触が鼻先をくすぐった。と、その刹那――
おれの身体は横道に引きずり込まれていた。
首を右に向けると、目の前を鉄の塊がゆっくり通りすぎようとしているのが見えた。奴は逃げ遅れたおれの魔法瓶をグシャリと潰した。赤っぽい液体が飛び散り、おれの顔にも少しかかった。口に流れこんできたアイスティーを味わう。やっぱり砂糖を入れすぎたようだ。舌の先に甘さを感じながら、おれの意識は遠ざかっていった。


2〈やすむ〉

ゆっくり目を開ける。
太陽がギラギラ、ギラギラ、もういいってぐらいギラギラ輝いているのが見えた。
その太陽を中心に白い雲がグルグル回っている。
目を閉じた。なんだかとてもいい気持ちだ。
しばらくしてからまたゆっくり目を開けると、今度も空は回っていた。
「やっぱり地動説は間違っていたんだ」おれはつぶやいた。「コペルニクスの嘘つきめ」
「あら。コペルニクスは嘘つきだったわけじゃないわよ」
不意にそんな声がした。
女の顔があらわれ、太陽を遮った。丸顔で目が大きく鼻と口は小さい。おれ好みの顔だ。髪は黒くて長いのだろう、その先がおれの頬をなでた。なんだかとてもいい匂いがした。
「彼はただ無知なだけだったのよ」
それだけ言うと女の顔は引っこみ、また太陽がもどってきた。もう空は回っていなかった。
おれは顔を少し動かした。女の顔が見えた。
「ここはどこだ?」おれは女の顔を見あげ、訊ねた。「おれはどこにいる?」
「あなたの頭は今、あたしの膝の上に乗っかっているわ」女はおれの顔を見おろし、答えた。
「きみの膝――?」
「そうよ。そしてあなたの首から下は道の上に横たわっている」
なるほど、おれは女の膝枕で眠っていたってわけか。どうりで気持ちいいはずだ。
おれは女の膝の上に乗っかっている頭を動かした。女の太股が揺れる感触が後頭部に伝わってきた。
すぐそこに壁の切れ目が見えた。そうか、ここはあの横道なのか。
「おれは助かったんだな」
「ええ。あなたは助かったのよ」
「きみが助けてくれたのか――?」
「危ないところだったわ。あと少しでもあなたの手を引っ張るのが遅かったら――」
壁の切れ目から見える斜面にひしゃげた金属片が張りついているのが見えた。それが魔法瓶のなれの果てだということは一目でわかった。
「おれもああなっていたってわけか」
おれは大きく溜め息をつき、上半身を起こした。そして女を見た。
女はタンクトップとデニムのショートパンツだけの軽装だった。ノースリーブから伸びる腕は細かった。よくそんな細腕でおれをこの横道へ引っ張りこめたものだ。
「血が溜まっていたでしょ」おれの考えを読んだように女は言った。「あなたの身体の下に。そのおかげでわりと楽にね。引っ張ったらスって動いたわ」
そうか。血が潤滑油の役目を果たしたのか。おれはそれほど大量の血を流してくれた蛇女に感謝した。
女は傍らに置いてあったかなり大きめのバッグから水筒とコップを取りだした。
「お茶よ」
コップを受け取り一気に喉へ流し込んだ。ジャスミン茶だった。あまり冷えてなかったが、とても美味かった。
喉を湿らせると今度は一服吸いたくなるものだ。おれは煙草を取り出そうと胸ポケットに手を持っていき、そこではじめてワークシャツもTシャツも着ていないことに気づいた。下半身もトランクス一丁だけだ。
「血まみれだったから脱がせたの。気持ち悪いから。服はリュックと一緒にそこへ置いてあるわ」
おれは座ったまま腕や脚を動かしてみた。どこにも異常はないように思えたので、立ちあがってみた。一瞬立ちくらみしたが、すぐにおさまった。おれはワークシャツを拾いあげ胸ポケットから煙草を取り出してみたが、箱はペチャンコにひしゃげていて、吸えそうなものは一本もなかった。
「あたしのでよければ、あげる」と言って、女はおれに煙草とライターを差し出した。
おれのものよりだいぶ軽く、おまけにメンソール味だったが、おれはありがたく受け取り、吸った。それは今までに吸ったどの煙草より旨く思えた。箱とライターを返そうとしたが、女は「ぜんぶあげる」と言って受け取らなかった。
「服はもう駄目ね。あたしの替えでよければ貸してあげるわよ」
「奴はどうなった?」
女の服がおれに着られるのだろうかなんてことを頭の隅で考えながら、おれは女に尋ねた。
「奴って?」
「あのロードローラーのことさ」
「ああ。あれなら、あのままどんどん走っていって、車を何台も蹴散らして、それからもどんどん走っていって、最後には海へ突っ込んでいったって。――ううん、あたしは直に見たわけじゃないの。あの人たちが――」
女の視線を追って、おれはようやく、この横道にいるのがおれたちだけではないことに気づいた。何十人もの男や女がおれたちより奥にいたのだ。おれより先に逃げおおせた者たちだろう。
「音は聞いたわ。物凄い音」
おれは壁の切れ目に近づき、おそるおそる顔を出してみたが、奴の姿はたしかに見えなかった。
坂道を少し下りたところに広い道が横たわっていて、右から左へ、左から右へ、自動車がひっきりなしに往来している。凄い音とは奴と自動車が激突した音なのだ、きっと。奴の巨大さからして、普通の乗用車がぶつかったぐらいじゃびくともしないだろう。大型トラックでも勝てるかどうか。奴はその広い道で自動車を何台かスクラップにし、そのまま直進したのだ。
「乗ってる奴を見たか?」
女は首を横に振った。
「そうか。そうだろうな。操縦席はかなり高いところにあるからな」
「ううん、そうじゃないの」女はより強く首を振った。「操縦席は見えたのよ。この坂道から。でも――誰も乗ってなかったの」
ちょうど煙草を吸い込んだところにそんな答えが返ってきたので、おれは噎せてしまった。
「大丈夫?」
女がまたコップにジャスミン茶を淹れ、持ってきてくれた。
「見た者はいないのか」おれはジャスミン茶で気持ちを落ち着け、奥にいる連中たちの方へ視線を向けた。
「誰も見てないって。あれはひとりで動いてたの」
「じゃあリモコンかなにかで動いてたっていうのか」
「そんなのあたしにもわかんないわよ」
女が口を尖らせたので、おれはもう訊ねるのをやめた。どっちにしろ、もう訊くことはないだろう。
奴は何の前触れもなく現れ、何十人もの命を奪った。でも、こんなことを言っちゃなんだが、奴に潰されたのはぜんぶ他人だ。おれではない。おれはこうして生きている。そりゃあ物凄い恐怖感を味わわされた。魔法瓶を潰されたし服も台無しにされた。でも、おれは――おれ自身はこうして生きている。生きて、煙草を吸って、ジャスミン茶を飲んで、傍らには綺麗な女までいる。
「ねえ。もうあれの話はやめましょう。あんなの思いだしたくないわ」
女は道に座りこんだ。おれもその横に腰を下ろした。
「わかった。奴のことはもう話さないよ」

「コペルニクスのことだけど――」おれは話題を変えるため、頭に浮かんだことをそのまま口にした。「彼はなぜ地動説なんてものを考えついたんだろう」
「べつに考えついたってわけじゃないと思うわ」
女はおれにもたれるよう身体を密着させてきた。女の身体は温かかった。
「地動説そのものはコペルニクスが生きていた時代のずっと前から存在したのよ。ギリシアのアルスタルコスは紀元前三世紀に太陽が宇宙の中心だって説を論じているし、十四世紀にはフランスのオレームが地動説を予見しているわ」
「コペルニクスはアルスタルコスの研究を知っていたっていうね」
「オレームだってコペルニクスよりたかだか百五十年ほど前に生きていたんだから、そっちも知っていたと思うわ」
「なるほど。するとコペルニクスはそうした先人がでっちあげた地動説を真に受けて、自分なりにこねまわして、あんな複雑怪奇なものを作りあげてしまったんだな」
「無知な人間がわけのわからないものに手を出すから、あんなものを作り出しちゃったのよ。地動説ですって?――馬鹿みたい」
女はギャハハハと笑い、うしろへゴロンと倒れてしまった。
「でも、それが通用した時代だってあったんだぜ。世界中の人間が地動説を信じてたんだ」
「そうよね。そのころはまだ誰も人動説なんて知らなかったんでしょうね」
「人動説?」おれは女の顔を見おろした。「なんだい、それ」
「なに言ってんのよ」女は信じられないって表情でおれの顔を見あげていた。「あなた知らないの?――こんなの小学校で習うことじゃない」。
「おれはそんなこと習わなかったぜ」
「じゃあ、なんて習ったの」
「今の学界は風動説派と夢動説派にわかれているって。最近じゃ夢動説派の方が優位に立ってるらしいけど。おれは学生のころから一貫して風動説を支持してるがね。なんにせよ、きみの言う人動説なんて聞いたことがないよ」
「だって。だってぇ――」女は口を尖らせた。「あたしは確かにそう習ったのよ」
「きみはなにか勘違いしてるんじゃないのか。それとも、きみが通っていた学校じゃ嘘を教えていたのか」
「そんなことないわよ。そんなこと絶対ないわ」
女はますます口を尖らせた。大きな目をより大きく見開き、頬を膨らませたその表情は、今までに彼女が見せたどの表情より刺激的なものに思えた。
「勘違いしてるのはあなたの方よ」
女は仰臥したまま脚をばたつかせた。それにあわせてタンクトップの下のふたつのふくらみも大きく揺れた。
おれはたまらなくなって女に覆いかぶさった。
「おれは今、腰動説ってのを思いついた」
女は呆気にとられた顔になり、おれを見つめていた。息がかなり荒くなっていた。それはおれも同じだったが。
「下品な話は苦手だわ」女は顔を逸らせ苦しそうに言った。
「苦手だけど嫌いじゃないんだろ」
おれはタンクトップの上から女の乳房をまさぐりながら、顔を女の顔に近づけ、唇をあわせた。女の豊かな髪からただよういい匂いが鼻をついた。女は抗わなかった。
かなり長い時間、唇を吸いあったあと、女が荒い息とともにこう言った。
「人が見てるわ」
「かまわんさ」
おれは女のタンクトップをまくりあげた。大きくも小さくもないおれ好みの乳房が汗の匂いと一緒にこぼれ出た。おれはあの蛇女の血にまみれた乳房を思いだし、いっそう興奮した。

ことが終わったあとも、太陽はまだ頭の上にあった。
女は自分のバッグからTシャツとスウェットの上下を引っぱり出し、おれに着るよう言った。Tシャツはかなりきつかったがなんとか着ることができた。スウェットはもともと大きめで、パンツのウェストにはゴムも入っていたのでかなり楽に穿くことができた。スウェットの上着も問題なく着られたが、暑いのですぐに脱ぎ、傍らに置いた。女はそれらとは別に新しいタオルも一枚くれた。
女はデニムのショートパンツと、さっきとは別のタンクトップを着ていた。汗くさいのが嫌だったのだろう。
おれたちは女が作ったというおにぎりを食べた。じつはおれもサンドウィッチを用意していたのだが、それはリュックサックの中で見事にひしゃげていた。坂道で転倒したときに潰してしまったのだろう。食べられなくもなかったが、女が多めにおにぎりを持ってきたというので、おれはサンドウィッチを捨て、こちらを選んだ。おにぎりは梅しそとカツオと具の入っていない塩むすびの三種類あったが、どれも美味かった、
おにぎりを食べながらおれは壁を見あげた。斜めになった壁がずっと上まで続いている。壁の外には――なにもなかった。ここからでは見えないが、おそらく反対側も同じことなのだろう。その頂点がどれぐらいの高さなのか判断できかねた。比較できるような高い建物が周りにないからだった。平坦な大地にただ坂道だけがある。画用紙の上に三角定規を立てたような。いったい誰がなんのためにこんなものを造ったのか。こんな馬鹿げたものを。
「他の連中はどこへ行ったんだろう」
おれは横道の奥の方へ目をやった。そこにいた何十人もの男や女は姿を消していた。今、この横道にいるのはおれたちだけだった。
「ん?――〈目的地〉へ向かったんでしょ」女はおにぎりを食べながら、そう答えた。
〈目的地〉――?
「ええ。あなたも〈目的地〉へ行くんでしょ?」
坂の上にあるのがその〈目的地〉とやらなら、そのとおりだ。そのとおりなのだが――
「どうしたの?」
「彼らが〈目的地〉へ向かったんだとしたら、おれたちはなぜ気づかなかったんだ?」
〈目的地〉へ行くには坂道を上らなければならない。坂道に出るには壁の切れ目を通らなければならない。おれたちがいるのは壁の切れ目のすぐそばだ。いくらおれたちが夢中でことに興じていたからって、すぐ傍らを何十人もの男女がゾロゾロ通って気づかないはずがないではないか。
「あの人たちは〈まわり道〉を選んだのよ」
おれはおにぎりを食べ終え、女が淹れてくれたジャスミン茶を飲んだ。それから女にもらった煙草に火をつけた。
「この道を反対側に歩いていけば〈まわり道〉に出るのよ」女はまだおにぎりを食べながら、そう言った。「〈まわり道〉からでも〈目的地〉へ行けるんだって。ずっと安全に」
「そうか。でも〈まわり道〉っていうぐらいだから、だいぶ時間がかかるんだろうな」
「そうね。何年も、何十年もかかるらしいわ。この坂道を上がればすぐなのにね」
女もおにぎりを食べ終え、ジャスミン茶を飲んだ。
おれは煙草を吸い終わると、タオルを首にかけ、スウェットの上着を手に持ち、立ちあがった。
「そろそろ行くとするか」
「ああん、待ってよ」女も慌てて立ちあがる。
それまで着ていた血まみれの服は捨てていくことにした。リュックにも血がべっとり付いていたが、もう乾いていたし、中まで染みこんでいることもなかったので持っていくことにした。おれはリュックを背負い、煙草の箱とライターはスウェットのズボンのポケットに突っ込んだ。
壁の切れ目から一歩踏み出し、坂道に出た。最初に上っていたとき、そして死ぬような思いで下ってきたときと違って、そこには誰もいなかった。もちろん奴もいない。
「よし」と自然と声が出た。
「ねえ」と背後から女の声。
坂道は全体的に赤っぽい色に染まっていた。血の色だ。それも照りつける太陽のおかげで乾いてしまっているようだ。
「ねえってば」
ところどころ赤以外の色が混じっているのは、地面に均されてしまった者たちの皮膚や髪や服や持ち物の色だろう。
「あんた。まさか坂を上る気なの――?」
振り向くと女は長い髪を後ろで束ねながら、信じられないという顔でこちらを見ていた。
「ああ。おれは坂を上るよ」
「そんな。駄目よ。危険すぎるわ。〈まわり道〉から行きましょうよ」
「〈まわり道〉だと何年も、何十年もかかるんだろ。気長にコツコツ行くなんて性に合わないんだ。それにこの坂道はもう安全だよ。奴は海へ潜っちまったんだろう?」
「でも。でも――」
「きみはどうするんだ――?」
女はうつむき、それからまたすぐ顔を上げた。大きな目に涙が浮かんでいた。
「あたしは駄目。――怖くてとても上れない」
「そうか。それじゃあ、ここでお別れだな」
「待って――」
女は駆け寄ってきて、歩きかけようとしていたおれの腕を掴んだ。
「お願い。お願いだからあたしと――あたしと〈まわり道〉から行って。お願い。お願いだから」
おれの腕に縋りつき女は泣いた。まいったな。メロドラマは苦手なのだ。
「離してくれ」
「いやよ。離さないわ」
しかたない。おれは女の腕をふりほどき、突き飛ばした。女はよろよろと倒れた。
「助けてくれたことは感謝してる」
女は地面に触れ伏し泣きじゃくった。
「ジャスミン茶とおにぎりの味も忘れないよ」
最後にそう声をかけ、おれは坂道を上りはじめた。
「待って。行かないで。あたしの言うことを聞いてちょうだい。お願いだから戻ってきて」
背後から女の声が追ってくる。だがおれは振り向かなかった。
「あたしたちはもう夫婦じゃないの。あたしはあんたの妻なのよ」
一度寝ただけで夫婦だって?
おれは何も答えず坂を上った。
「あたしのおなかには子供がいるのよ。あたしにはわかるの。あんたの子供よ」
今度は子供ときた。おれは黙って歩いた。
女の声はそれっきり聞こえなくなった。しばらくして振り向くと、もう女の姿はなかった。


3〈のぼる〉

少し疲れてきたし喉も渇いてきたので少し休もうと思いおれは脚を止めた。首にかけていたタオルで顔の汗を拭い、ゆっくりと身体の向きを変えた。血が染みついた路面に直接座るのはさすがに気が引けたので、リュックに入れてあった大きめのビニールシートを敷き、そこへ腰を下ろした。目の前にはおれが上ってきた坂道が延びている。目測でざっと三分の二ぐらい、前と同じ位置ぐらいまで戻ってきたわけだ。
おれは脇に置いたリュックから魔法瓶を取りだそうとして、それが無いことに気づいた。そうだ、魔法瓶は潰されてしまったのだった。しまった。こんなことなら女からジャスミン茶の入った水筒を奪ってくるんだった。まあ、しかたない。坂道を上りきり〈目的地〉とやらに着けば喉を潤せるものなどいくらでも手に入るだろう。それまでの辛抱だ。
女からもらった煙草はまだまだ残っていた。一本くわえ火をつけて、ビニールシートの上にごろりと寝ころがり、青空にいくつか浮かんでいる雲のひとつにめがけるよう煙を吐きだす。いい気持ちだ。
あいかわらず太陽はギラギラ、ギラギラ、もういいってぐらいギラギラ輝いている。
メンソール味の煙草を吸っていると、女の長い黒髪から漂っていたいい匂いを思いだした。あの女はどうしたろう。〈まわり道〉から〈目的地〉へ向かっているのだろうか。〈目的地〉へ着いたらまた会えるのだろうか。だが、〈まわり道〉からだと〈目的地〉へ着くには何年も、何十年もかかると言っていた。おれがこのまま坂道を上りきって〈目的地〉へ着いたとしても、おれがあの女に会えるのは何年も、何十年も先のことになるのか。それまでおれは女を待つことができるだろうか。女はおれの子を身籠もっていると言っていた。それが本当なら、おれはその子に会うことができるのだろうか。

おれはいつの間にか眠ってしまっていたようだ。なにか夢を見ていたようだが、それがどんな夢だったのかは眼が醒めると同時に忘れていた。夢を見ていたってことじたい、おれはすぐに忘れてしまうだろう。夢なんてそんなもんだ。
目を開けて最初に見えたのはどんより曇った空だった。今までずっと頭の上にあった太陽は分厚い雲に覆われてまったく見えない。少し風も出てきたようで、空気は明らかに冷えている。その冷気がおれを揺り起こしたのだろう。
ひと雨きそうな感じだ。雨が降ると坂道は上りづらくなるだろう。これはヤバいと思い、おれは上半身を起こし、スウェットの上着を着た。目の前に延びる坂道には誰の姿も見えない。遙か下の広い道ではあいかわらず右から左へ、左から右へ、自動車がひっきりなしに往来している。その向こうに広がる海からは穏やかさが消え、白い波が走っていた。
ん――?
荒立ちはじめた海の表面がキラリと輝いたような気がした。波の反射ではない、もっと別のものだ。それもまばゆいような輝きではなく、なにか不穏な感じがする不気味な輝きだった。
おれは目を凝らして波打ち際のあたりを凝視した。風はさっきより強くなり、おれのまわりはどんどん暗くなっていく。そのうち海の表面がブクブク泡立ちはじめたのが遠目にもわかった。なんだなんだ。いったい何が起こるのだ。
じつは――おれはもう答えを知っていた。これから何が起きるのか予想はついていた。この急激な気象の変化と海の泡立ちが何を意味しているのか、とっくにわかっていた。だが――おれはそれを認めたくなかった。頭の中でもみ消してしまいたかった。でも、もう遅い。
泡立った海の表面が盛り上がり、なにかが姿を現した。それは体じゅうから海水を滴らせながら坂道を這い上ってくる。黒雲に一瞬できた隙間から漏れ出た太陽の光が鉄のボディに反射してギラリと輝いた。どす黒い輝き。
奴だった。
あの忌まわしきロードローラーが戻ってきたのだ。
おれは奴の姿を呆然と見つめるしかなかった。遠くにいるので小さく見えるが、じつは巨大で凶悪なことをおれはよく知っている。
奴は完全に海から這い上がり、すぐに広い道へ達した。速度はかなり速いようだ。自動車が一台、奴にぶつかり――グシャっと潰れた。すぐに二台目、三台目が、右から左から、奴にぶつかってはスクラップになった。自動車はあとからあとから走ってきては奴の餌食になった。爆発して炎上するものもあった。奴の巨大さに匹敵するような大型トラックも奴の敵ではなかった。奴はアっと言う間に広い道を渡り終えた。その間に十台以上の自動車を潰し、炎上させていた。
そのとき――頬にポツンと冷たい感触。雨だ。ついに雨が降ってきた。その雨のおかげでおれは気を取り戻した。
リュックを背負い、立ちあがる。身体の向きを変え、坂道を上に向かって歩きだそうとした。歩きだそうとしたのだが――足下に敷いていたビニールシートに足を滑らせ、つんのめってしまった。おれは呻きながらもすぐに立ちあがり、歩きだそうとした。歩きだそうとしたのだが――右脚に激しい痛みを感じた。見ると、スウェットのパンツの膝のところが破れて、そこから凄い勢いで血が流れだしていた。
おれは座り直り、タオルで膝をしばった。タオルはすぐに赤く染まった。
また立ち上がり、脚を踏み出す。右脚が痛んだが我慢して左脚も前へ出した。なんとか歩ける。一歩踏み出すごとに右膝の傷が悲鳴を挙げたが、それでもおれは進んだ。進むしかないのだ。
そのあいだに雨はどんどん強くなってきていた。それに呼応するように風も強まってきている。風は坂の上の方から吹いてきていた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
風の音に混じって、あの忌まわしい奴の唸り声もかすかに聞こえてきた。奴はすでに横道のあたりを通り越していた。速度はやはりかなり速いようだった。
それに比べて、おれの速度は明らかに落ちていた。滝のように流れてくる雨に足を取られ、向かい風に遮られながら、しかも傷を負った右脚を引きずりながらなので、なかなか速く進むことはできないのだ。それでもおれは坂道を上った。なにしろ、逃げ道は上にしかないのだ。上らなければ最期なのだ。
そのうえ、おれは何度も転倒した。右膝が痛むこともあって、ゆっくり慎重に歩かざるを得なかったのだが、それでも転倒してしまう。スウェットは上下ともとっくにビショ濡れだ。止めどなく降り続ける雨のため、路面の乾いていた血もふたたび滲み出しているようで、おれのスウェットは赤黒く染まっていた。
転げるたびにおれは奴との距離を確認したが――見ずにいられなかったのだ――それは明らかに縮まってきていた。幸いなことに雨のカーテンに遮られて奴の姿はボンヤリとしか見えなかった。ハッキリ見えていたとしたらおれの恐怖心はもっと大きく増幅し、気が狂っていたかもしれない。いや――おれはもうとっくに気が狂っているのかもしれないな。
雨は前から吹きこんでくるので、後ろ以上に前方は見えにくかった。二、三メートル先はもうほとんど何も見えない。だから、坂道の上まであとどれぐらいの距離があるのかよくわからなかった。いったい、あとどれぐらい歩けば上に着くことができるのだろう。ビニールシートを敷いて休憩したのは坂道を三分の二ぐらい上がった地点だった。あれから進んだ距離から判断すると、もうそろそろ坂道を上りきるころだと思うのだが。
この坂道を上りきったところに何があるのか、おれは知らない。そこがいきなり〈目的地〉なのか、あるいは平坦な道に繋がっているのか、これとは逆に下り坂になっているのか。あの横道から壁の外側を見あげたときにはそこまでわからなかった。横道を奥まで進んで見あげていれば、坂道の終わりがどんな形になっているのか知り得たのかもしれないが。今さら戻るわけにはいかないし、しかたない。
とにかく上まで行ってしまえば助かるのだと、おれは信じていた。もちろん確証はない。確証はないが、そう思わないと上がる気力を無くしてしまう。だからおれは、ただただ坂を上りつくことだけを考えながら脚を動かしていた。

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
しばらくすると雨は小降りになった。風も弱まってきた。おかげで少しは歩きやすくなったが、奴の唸り声もよく聞こえるようになった。その音に急かされるようにおれは坂道を上った。上がらなければ奴にやられてしまう。くそう。ヤラレテタマルカ。おれは気合いを入れた。気合いを入れたのだが――どうやら空回りしたらしい。また転倒してしまった。そして――
今度は右手に激痛が走った。咄嗟に両手で身体を支えようとしたときに、手首を捻ってしまったらしい。指を動かそうとしたが、動かなかった。折れているかもしれない。折れていなければいいのだが。おれは左手で右の手首を掴み、痛さが収まるのを待った。しばらくそうしていると、痛みは消えなかったが少しはマシになったような気がした。ええい、くそう。マケテタマルカ。おれは気合いを入れなおし、立ちあがった。そしてまた歩きだした。
右脚を引きずりながら、右腕をブラリとさせながら、おれは歩いた。坂道を上った。奴との距離はまた縮まった。もうこれ以上、時間を無駄にすることはできない。右膝も右手首もズキズキ痛んだが、おれはかまわず進んだ。

更にしばらくして、雨は完全に止んだ。風はまだ吹いていたが、弱々しいものだった。雲の切れ目から光が差し、急に視界がハッキリした。おれは両側の壁を目で追った。
壁は――
途切れていた。
いや、途切れているように見えただけだ。斜めになって続いていた壁はその地点から角度を変えていたので、そのように見えたのだった。
おれは息を呑んだ。壁が角度を替えているその地点まであと十メートルもなく、そこから先、もう上り坂は見えなかった。つまり、そこで坂道も終わっているということだった。
「うわああああああ」
おれはたまらず歓声を挙げていた。
ついに――ついにゴールが見えたのだ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
振りかえると奴はまだ百メートル以上、下にいた。
よし、勝ったぞ。逃げ切ったぞ。
おれの脚はとたんに軽くなったような気がした。右膝と右手首の痛みも感じなくなった。
おれは進んだ。あと五メートル。どんどん進んだ。あと三メートル。もう少しだ。あと二メートル。もう少しだ。もう少しだ。あと一メートル。視界から坂が消えた。あと――
おれはついに坂道を上りきった。

そこから先には平坦な道があった。その道は三十メートルぐらい続いていて、そこから先は見えなかった。下り坂になっているのだろうか。壁の上端も同じようにそこからは斜めではなく真っ直ぐになっていた。
おれはその道を進んだ。これまでと違って平坦なので、とても歩きやすかった。
あたりがだんだん明るくなってきたので歩きながら空を見あげると、雨雲のあちこちに切れ目ができていた。
平坦な道を半分ほど進んだところで、今度は壁が本当に途切れていることがわかった。この道の端で壁は終わっているのだった。
おれは進んだ。あと五メートル。どんどん進んだ。あと三メートル。もう少しだ。あと二メートル。もう少しだ。もう少しだ。あと一メートル。視界から壁が消えた。そして――
おれは絶句した。
そこから先には何もなかったからだ。

「なんなのだ、これは――」思わず喉から漏れた声はかすれていた。
下り坂どころか、なにもなかった。そこは切り立った崖の先端だった。
その下がどうなっているのか確認しようと、おれは地面に寝ころがり、道の端から顔を覗かせた。はるか下にだだっ広い荒れ地が広がっているのが見えた。ここがどれだけ高いのか、見当もつかなかった。頭がクラクラした。それまでしばらく忘れていた右膝と右手首の痛みも戻ってきた。
おれはそのまま壁の方へ這っていった。壁の厚みは十センチぐらいで、それを左手でしっかり掴み、首を壁の外へ伸ばした。そこには何もなかった。念のため反対側も見てみたが、結果は同じだった。壁の外には何もない空間が広がっているだけだった。
「なんなのだ、これは――」
平坦な大地にただ坂道だけがある。画用紙の上に三角定規を立てたような。いったい誰がなんのためにこんなものを造ったのか。こんな馬鹿げたものを。そして――
おれはなぜ、この坂道を上ってきたのだろうか?
この平坦な道に出る、
その前――おれは激しい風雨のなか、この坂道を上ってきた。
その前――おれは横道で女とおにぎりを食いジャスミン茶を飲み女を抱いた。
その前――おれは血のしたたる坂道を下っていた。
その前――おれは――
おれはなぜ、この坂道を上っていたのだ?
と、そのとき――
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
あの忌まわしい音が耳に甦り、奴の姿が見えた。奴もついに坂道を上りきったのだ。
お前か。お前がこの坂道を造ったのか。お前がおれをここへ呼んだのか。
もう逃げようがなかった。殺される、とおれは思った。
しかし――
奴はそこで動きを止めた。
あたりは静寂に包まれた。
なんだ。いったいどうしたというのだ。
おれを殺す気がないのか。燃料が切れたのか。それ以上こちらへ近づけない理由が何かあるというのか。
もしもそうなら。奴が止まっている今なら、なんとかしてあの巨大なローラーを乗り越えることができるかもしれない。どっちにせよ、奴の向こうへ行かない限り、おれは坂道を下りることができないのだし。
おれは立ち上がり、奴の方へ近づこうとした。
と、そのとき――
奴の身体がブルブルと震えた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
奴はふたたび動きだした。
なんだなんだ。今そこで止まったのはなんだったのだ。
猛獣が獲物を襲う前に一瞬身構える、ああいったものだったのか。それとも、おれをわずかでも安心させることでよけいに恐怖を与えるって算段なのか。
奴は今までにない猛スペードでこちらへ近づいてきた。
あと二十五メートル。逃げ場はない。あと二十メートル。潰される。あと十五メートル。殺される。あと十メートル。殺されるのは嫌だ。あと五メートル。お前に殺されるのだけは、嫌だ。嫌だ。嫌だ。
「うわああああああ」
おれは叫びながら踵を返すと、道の端から宙へ飛んだ。奴から逃げるために。


4〈おちる〉

おれは落ちた。
どこまでも、どこまでも、おれは落ちる。いつまでも、いつまでも、おれは落下しつづける。頭を下に向け、キリキリ、キリキリ、回りながら、おれは落ちる。どんどん、どんどん、地面が近づいてくる。
長い時間だった。長い長い時間のように感じられた。
おれは落ちる。どこまでも。どこまでも。
おれは落ちる。いつまでも。いつまでも。
おれは落ちる。キリキリキリキリ回りながら。
おれは落ちる。どんどんどんどん地面が近づいてくる。
そして――


5〈おわる〉

おれはまだ生きていた。
あれだけの高さから落下し、地面に叩きつけられたというのに、まだ死んでいなかった。でも、もう時間の問題だろう。首から下の感触はまったくなかった。
おれは仰臥したまま顔だけを動かした。
人がいるのが見えた。何十人もいる。ほとんどが老人のようだった。おれを囲むように立ち、おれの方を見ていた。彼らは羨望と蔑みが同居しているような目で、おれを見ていた。
哀しそうな目をした者がひとりだけいた。初老の女だった。涙で潤んだ大きな眼。小さな鼻と口。それは横道でおれが抱いた、あの女だった。あいかわらず長い髪には白いものが混じっていた。
女の傍らに青年が立っていた。ほとんどが老人のなかで、彼の若さは際だっていた。それがおれの息子であることはすぐにわかった。女は別れ際、おれの子を身籠もったと言っていたが、あれは本当のことだったのだ。息子は既におれとおなじぐらいの年齢に達していると思われた。よくぞここまで育ってくれた。
ああ、そうか。ここか。ここがそうなのだ。
哀しそうな大きな目から涙を流し、息子に抱えられるように立っている女を見て、おれは悟った。
ここが〈目的地〉なのだ。
おれは〈目的地〉に着いたのだ。
意識は次第に薄れていく。もうすぐおれは死ぬのだな。しかし、おれの中に恐怖感はまったくなかった。悲しさは少しあったが、それよりも嬉しさの方が勝っていた。人生が終わる悲しみより、女の顔をもう一度見ることができた喜び、息子に会えた喜び、そしてなにより奴から逃げおおせた喜びの方が大きかった。たしかにおれを死に追いやったのは奴だが、おれにとどめを刺したのはおれ自身だ。奴に潰されずに死ねることが嬉しいのだ。ざまあみやがれ。
まぶたが重くなってきた。おれはゆっくり目を閉じる。すべてが闇に包まれた。この闇の中でおれは安らかに死んでいくのだ。

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
とつぜん頭の中にあの音が聞こえてきた。
おれは目を開けた。
おれを囲むように立っていた人たちが後退るのが見えた。走って逃げていく者もいた。妻は自分の顔を両手で覆い、しゃがみこんでいる。その傍らに立つ息子だけが、おれの方へ強い視線を送っていた。その眼は、おれが最後まで見届けてやる、と言ってるように思えた。
おれは顔を上に向けた。
真上で輝いている太陽の中に黒い点が見えた。それはどんどん大きくなり、やがてハッキリした形になった。
赤黒く染まった巨大なローラー。
奴だった。
奴が落ちてくるのだ。おれをめがけて一直線に。おれを押し潰すために。
おれの中にあった嬉しさと少しばかりの悲しみは一気に消し飛び、恐怖感が全身を支配した。奴を初めて見たときからおれは断続的に恐怖を味わってきたが、いま感じている恐怖はそのどれより大きいものだった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
その音は奴の笑い声のように思えた。奴は高らかに笑っている。
奴の姿はどんどん、どんどん、大きくなる。だんだん、だんだん、近づいてくる。
逃げようにも、おれの身体は動かない。叫び声さえ発することができなかった。おれはただ目を見開いて、奴が迫ってくるのを見つづけていた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
視界いっぱいに奴のローラーが広がり、恐怖感は臨界点に達した。
その瞬間――
おれの身体はグシャリと潰れ、奴の重みで地中深くめりこんだ。

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