夢列車正月行き

 もう
正月は
来ましたか――?

すぐ背後からそんな声がした。まさかこんな時間にこんなところで声をかけられるなどと思ってもいなかったし、ちょうど煙草に火をつけ一服目を大きく吸いこんだところでもあったので、少し噎せてしまった。煙を吐きだし気分を落ち着かせてからゆっくり振りかえると、そこには黒い山高帽をかぶった小柄な男が立っていた。背は私の肩のあたりまでしかない。にこやかな表情を浮かべている。私と同年代ぐらいだろうか。見たような顔だったが、誰だかは思いだせなかった。傍らに小学生低学年ぐらいの男の子がいて男と手をつないでいる。ふたりとも同じような古くさい黒のコートを着ていた。親子なのだろう。男の子は眼のすぐ上まで隠れるぐらいのニット帽をかぶっていた。
広くも狭くもない往来に私たちは立っていた。頭の上では街灯がぼんやり輝いていて、その遙か上には三日月が浮かんでいた。私たちの他に人の姿は見えなかった。
「もう正月は来ましたかね?」と男はもういちど、ゆっくり言った。
私は煙草を挟んだままの左手を少しひねり腕時計に目をやった。
「正月は来ていませんね。まだ十二時十分前ですよ」
煙草を唇にくわえ、空いた左の手首を突きだし、男に時計の文字盤を見せてやった。
「ああ、そうですね。正月が来るまでまだ十分ほどありますね」
男は時計をのぞき込んでいたが、ややあって「おや?」と首をひねった。「この時計――動いていませんよ」
私はすぐまた時計を見た。さっきと同じ十二時十分前。秒針はたしかに動いていなかった。
「これじゃあ時間はわかりませんね」
「すみません」と私は頭を軽く下げた。
「いやいや、あなたが謝る必要はこれっぽっちもありませんよ」と男は私に気を遣ってか少々慌て気味に言った。
腕ごと時計を振ったりねじを巻いたりしたが秒針はまったく動かない。
「壊れてしまったのかな。なにしろ古いもので。初めて社会に出たとき父が記念に買ってくれた、いわば形見みたいなものなのですよ」
私はなんだか凄く照れくさい気持ちになり、それを隠すため言わずもがななことまで言ってしまっていた。
「そうですか、お父さんの」と男は感心したように首を何度か縦に振った。「それはぜひ直さなくちゃ。修理に出さなきゃいけませんね」
「すみません」と私はまた謝った。「これじゃあ正月が来たかどうかわかりませんね」
時計が停まってどのぐらいの時間が経過したのかわからないが、十二時十分前で停まっているということは少なくとも十二時十分前よりは時間が経っているということになる。私が家を出てからもう悠に十分以上は過ぎているだろうから、現在の時刻は既に十二時を越えている――つまり正月が来てしまっているはずだ。そんなことを言ったところでどうなるわけでもないのに、私はその考えを述べてみた。
男はあいかわらずにこやかな表情でそれを聞いていたが、私が喋り終えると、「いや、そうとも言い切れないですよ」と言った。「その時計が停まったのは夜ではなくお昼の十二時十分前だったかもしれないじゃないですか」
不意をつかれたような気がした。確かにその可能性はある。私が腕時計をはめるのは外出するときだけで、今日の日中はずっと家にいた。そして私は家を出るときにいちいち時計が動いているかどうか確認などしない。父親に貰ったときから一度も故障したことがなかったので停まることなどありえないと思いこんでいたからだ。昨日はどうだったろう。昨日私は外出したか?――外出したとしても時計を見たか?――咄嗟には思いだせなかった。もしかしたら今日の昼どころかもっとずっと前から時計は停まっていたのかもしれない。
動かない時計を見つめながらそんなことを漠然と考えているうち、別のことに思い当たった。
「そうだ。やっぱりまだ正月は来ていませんよ。だって、ほら」と私は夜空を仰ぎ見た。「除夜の鐘が聞こえませんよ。あれが鳴らないうちは正月だって来ないでしょう」
「たしかに鐘の音は聞こえませんね」男も天を仰いだ。
私たちはしばらくのあいだ耳を澄まし、三日月が浮かぶ空を見あげていた。
「でも――はたして、どうなのでしょう」やがて男は私の方に眼を戻した。
私も男の顔を見た。男が何を言っているのか――何を言いたいのか、私にはわからなかった。だって、そうだろう、除夜の鐘は――
「あなた、最近お聞きになりましたか?」
えっ、なにを――なにをだ――?
「除夜の鐘を聞きましたか?――去年は聞きましたか?――一昨年はどうです?――ここ暫く耳にしていないのでは?」
そういえば――
そういわれると――
記憶をたぐり寄せる。たしかに、去年も一昨年も、そのずっと前から、除夜の鐘など聞いていないような気がする。いや、聞いたことを忘れてしまっているだけなのかもしれないが、とにかく私の頭の中に除夜の鐘を聞いたという記憶はなかった。そしてそれは同時に正月の記憶もないということでもあった。
子供のころのことなら覚えている。父に連れられ近所の神社へ初詣に行った想い出。母が一緒のこともあった。そのときには確かに除夜の鐘は鳴っていた。その音色ははっきり覚えている。だが、いつの頃からか除夜の鐘の記憶は、正月に関する想い出は消えていた。
いつから――?
それはたぶん私が成人したころから。初めて社会に出たころから。父にこの腕時計を買ってもらったころから。父に――
まてよ。そういえば私の父親は――
私は目の前にいる小男のにこやかな表情をまじまじと見つめた。
似ているような気がした。父に。どことなく。
「どうしました?」という男の声で我にかえった。
「あ、いや、なんでもありません」
「すみませんね、こんな時間にこんなところで突然話しかけたりして。それでは私どもはこれで」
「これからどちらへ?」
答えはおおよそわかっているのだが訊いてみた。
「神社へまいります。初詣に」
やはりそうだった。大晦日のこんな夜更けに幼い子供をつれて出歩くなど、それしかないだろう。
「神社へ行けば人も多いだろうし時間もわかりますよ、きっと」
「そうですね」と男は言い、少し間をおいてこう続けた。「あなたも神社へお行きなさるので?」
「いや、私は――」
答えようとして言葉に詰まった。自分が外出している理由に思い至らぬことに気づいたからだ。私はなぜこんな時間に外にいるのだろう?――なぜこんなところで煙草を吸っているのだろう?――なぜひとりで?――時計のことといい、除夜の鐘のことといい、どうもおかしい。まったく今夜の私はどうかしてしまっているようだ。
「私も神社へ行くところなのです」
答えを待っている男に、私はそう答えていた。自分がなぜここにいるのかわからないなどということを正直に話したりすると、こいつはおかしな奴だと思われるのではないか。そう考えたからだ。弁解というか言い訳というか。そんな必要があるのかどうかも本当はわからなかったのではあるが。そして、言い訳ついでにこうも付け加えていた。
「ここで妻と子が来るのを待っているのです」
「そうでしたか。お子さんは男の子で?」
男は私の言うことを信じたようである。まあそうだろう。疑う必要も無いようなことだ。
「いいえ、娘です」そう答えて男の傍らの子供に目をやった。「その子より少し大きい」
「ああ。それはかわいいでしょうね」
男の表情はよりにこやかになった。
「それじゃあ、またあとで会えるかもしれませんね。わたしどもはお先に」
男は子供に「行こうか」と声をかけ、それから私の方に向き直り深くお辞儀をし、子供の手を引き歩き出した。
ほんのしばらく歩いたところで男は立ち止まり振り返った。
「よいお年を」と男は言った。
「よいお年を」と私も返した。
男は子供の方を見て顎をしゃくった。お前も挨拶しなさいと言いたいのだろう。男の子もすぐに察したようで、少し恥ずかしそうに小さな声で「よいお年を」と言った。
男はまた深く頭を下げ、また子供の手を引き、歩きはじめた。今度はもう振り返らなかった。その男の後ろ姿を見つめながら、やっぱり父に似ていると思った。私が幼い頃に見ていた父の後ろ姿に。馬鹿な話だが本当に私の父なのかもしれないな、とも思った。私と同じ歳格好のころの父だ。とすると男が連れている子供は私だということになる。本当に馬鹿な考えだ。私は苦笑した。そして――煙草の火がいつの間にか消えていたことに、やっと気づいた。

けっきょく私の脚も神社へ向いていた。
街灯の下で火をつけなおした煙草を吸いながら考えた。時計はいつ停まったのか。私は本当にもう何年も除夜の鐘を聞いていないのか。なぜ正月の記憶が無いのか。私はどうしてここにいるのか。しかし、煙草を吸い終わっても、どれひとつ答えは見つからなかった。モヤモヤした気持ちだけが残った、
神社へ行けば答えが見つかるかもしれない。モヤモヤしたものが晴れるかもしれない。なんとなくそう思った。根拠はまったく無い。だが、行ってみようと私は思った。
停まってしまった時計は腕から外し、コートのポケットに放り込んだ。そのとき私は自分が着ているコートがさっきの親子が着ていたものに似ていることことに気づいた。古くさい黒のコートだ。男と同じような山高帽をかぶっていることにも気づいた。
神社へ行けばあの親子とまた会うかもしれないな。男には私が妻と娘と三人で神社へ行くと答えていたので、また会ったら私がひとりでいることを不審に思うかもしれない。そのときはどう答えようか。妻と娘は来なかったのですよ。妻と娘とはぐれてしまって。妻と娘は先に帰りました。そんなことを考えながら歩いているうち神社の鳥居の下に着いた。
鳥居から奥に続く道幅5メートルぐらいの参道の両側には夜店が並んでいたが、参詣客の姿は見えなかった。
いちばん手前に店を出しているのは植木売りだった。地面に筵を敷き、手前に小ぶりの、横手や背後には大きめの鉢植えが並んでいる。莚に座っているのは厚手のジャンパーを着た、私よりずっと歳上に見える男だった。
「もう正月は来ましたか?」と私は植木屋に訊いてみた。
植木屋は目線を上げ私の顔をジロリと見た。「なんだって?」
「正月はもう来ましたかね?」と私はもういちど尋ねた。
植木屋はしばらく不思議そうに私の顔を見つめていたが、やがて大声で笑いだした。
「わはははははははは」
いきなり笑われるなんて思ってもいなかったので、私は呆気にとられた。なんだ、なんだ。なにがそんなにおかしいのだ。この男はなにをそんなに笑っているのだ。
「わはははははははは」
「なにをそんなに笑うのですか」
「なにがって、あんた」植木屋は笑いながら答えた。「そりゃあ、おかしいだろ」
だから、なにが――?
「わはははははははは」
植木屋はなおも笑いつづけた。静かな参道に彼の笑い声だけが響きわたる。
「おっさん、どうしたよ」
植木屋の隣で屋台を出している輪投げ屋が口を挟んできた。まだ二十歳ぐらいの若い男である。
「なにをそんなに笑ってるんだよ」
「なにをって、おめぇ。この人がよ」と植木屋は私を指さし、「この人が――わーははははははは」
「この人がどうしたんだよ。どうしたってんだよ」
「言ったんだよ」
「なにをだよ。なにを言ったんだよ」
笑いつづける植木屋に輪投げ屋はだんだんイライラしてきたようだ。それは私も同じだった。
「なあ、おっさん。この人は一体なにを言ったんだよ。なんて言ったんだよ」
「だから、だからよ」そこで植木屋は急に笑うのを止め、輪投げ屋の方へ真剣な顔を向けた。そして、こう言った。
「もう正月は来ましたか?」
輪投げ屋はキョトンとした顔で、植木屋は真剣な表情で、しばらく見つめ合っていたが――ややあって、まず輪投げ屋の顔が、そしてそれに呼応すように植木屋の顔が、歪みはじめた。そして――
「わはははははははは」
「わーははははははは」
ふたりして笑いはじめた。輪投げ屋などは後ろにひっくり返り手足をバタバタさせながら笑っている。
輪投げ屋の向こうの屋台でトウモロコシを焼いていたでっぷり太った初老の女が驚いた顔を覗かせ、笑い転げている輪投げ屋に「どうしたんだい」と声を掛けた。
輪投げ屋は笑いながら立ち上がると女に近づき耳元でなにやら囁いた。すると女も笑いだした。女は更に向こうの屋台(私の位置からはよく見えないが、やはり何かを焼いて売る店のようだった)の方へ小走りで駆けてゆき、また別の笑い声が聞こえてきた。そして、またすぐ更に更に向こうの出店からも新たな笑い声が。――そんな風に笑い声は出店から出店へどんどん伝播していった。
新たな笑い声は私から遠ざかるに連れどんどん小さくなっていったが、ある時点から逆にどんどん大きく聞こえるようになってきた。参道の片側に並ぶ出店の端まで行き着き、そこから向かいの出店に伝わったのだろう。そしてとうとう笑いの伝播は植木屋の真正面に店を出しているお面屋にまで辿り着いた。お面屋の主はずらり並べられたお面の向こう側にいるのか姿は見えなかったが、笑い声だけが聞こえた。ずらり並べられたお面に笑われているように思え、もともと嫌な気分だったのが余計に嫌な気になった。
「おい、君たち」
つい声を荒らげてしまった。なるべく冷静でいるつもりではあったが、彼らがなぜ笑っているのか、私がなぜ笑われているのか、一方的に笑いものにされたのでは怒るしかないではないか。
「失礼じゃないか。なにがそんなにおかしいんだ」
「すまねぇ、すまねぇ」植木屋はようやく笑うのをやめた。「でもね、あんたが悪いんだよ。あんたが笑わせるようなことを言うからさ」
だから、それがわからいと言うのだ。
「わからないかね。それはね、あんた――」植木屋は少し考えるような素振りを見せ、こう続けた。「そりゃあ、自分の名前を他人に尋ねるようなもんだからだよ」
なあ、そうだよな――と植木屋は輪投げ屋に訊いた。輪投げ屋は、うんうん、と肯いた。彼の手にはいつの間にか焼きトウモロコシが握られていた。隣の店の売り物だろう。
「わたしの名前はなんてーの?」輪投げ屋はふざけた口調でそう言った。
ますますわからない。名前と正月と――なんの関係があるのだ?
「いいかね。正月なんてもんはね、人が十人いりゃ十人分の――十通りの正月があるもんなんだよ。それぞれが自分の正月ってもんを持ってるんだ。そんなもんなんだ。あんたが、ああ今は正月なんだなあって思ったら、そんときがあんたの正月なんだよ。あんたの正月が来たのかなんて他人にわかるはずないわな。もう正月は来ましたかなんて他人に尋ねるのは、自分の名前を他人に尋ねるようなもんなんだよ」
「わたしの名前はなんてーの?」
輪投げ屋がまたそう言って茶化したのを、植木屋はジロリと睨んだ。輪投げ屋はちょっと怯えた表情を見せ、それを隠すためかトウモロコシをバリバリ囓った。
「その分じゃ、あんた、もう随分と正月を迎えてないんだろうな」と植木屋は言った。
そのとおりだ。私には成人したころからの正月の記憶が無い。もう何年も除夜の鐘を聞いていない。その答えを知るために私はここへ来たのだ。
「いや、どうやら正月だけじゃないようだな」植木屋が言った。
「お盆やらお祭りやらも」と輪投げ屋が続けた。
確かにその通りだった。正月だけでなくお盆や祭りの記憶も私にとっては遠いものだった。だが、なぜ――
「おっと、それを俺に訊くのは筋違いってもんだよ。それはあんた自身の問題なんだからな」
私自身の――?
「俺が思うに、あんたはこれまで正月を必要としなかったんだろう。だからあんたには正月が無かったんだよ」
「お盆やらお祭りやらも」と輪投げ屋がまた続けた。
「正月が必要じゃなかった。だから正月は無かった。簡単なことだ。需要と供給の問題ってやつだ」
「ジュヨウトキョウキュウ――ね。難しい言葉知ってるんだな」と輪投げ屋が植木屋に向かって言った。
「これでも大学出だからな」植木屋は得意げに言った。
「大学まで出て夜店で植木売ってんのかよ」輪投げ屋は笑いかけたが、また植木屋に睨まれたので神妙な表情になってトウモロコシをバリバリ囓った。
植木屋はそんな輪投げ屋を見て舌打ちし、すぐに私の方に向き直り、「あんた、子供の頃のことを覚えているかね」と言った。「正月が近づいてくるとワクワクしたろう。祭りや盆踊りが迫ってくるとソワソワしたろう。遠足や運動会の前の晩はなかなか寝つけなかっただろう。あんた、そんな気持ちになったことが最近あったかね。そんな気持ち、もうすっかり忘れちまってるだろう」
たしかに――そんな気持ちは忘れてしまっていた。それじゃあ、私がその気持ちを思いだせば正月は来るというのか。正月が来ることを望めば本当に正月はやって来るというのか。
「あんたはもうひとつ勘違いしてるようだな」
まだ何か違っているというのか?
「俺は、望まないから正月は来ない――とは言ったが、望みさえすれば正月が来る――とも言ってないよ」
望むだけじゃ駄目なのか?
じゃあ、どうすればいいのだ?
「正月は自分で見つけるもんであってだな、来るのを待ってるもんじゃないんだよ」
では探しにいけばいいのか?
「それはあんたが自分で考えることだ」
私の問題――なのだからか。
「でもまあ、それがいちばん手っ取り早いわな。探しに出かけるのが。だがね、あんた――」植木屋はこれまでにない真剣な表情で私を見た。「あんたは本当に正月を見つけたいのかい?」
私はまた言葉に詰まった。私がもう随分と長いあいだ正月というものの存在を忘れてしまっていたことは間違いないことなのだが、それで何か困ったことがあっただろうか。何か拙いことがあっただろうか。これから正月を探し出したとして何かが変わるのだろうか。何か良いことがあるのだろうか。何も無いのではないか。何も変わらないのではないか。今の今まで何十年も忘れていたってこと自体、それを裏付けてるような気がするのだが。
「ちょっと、お前。なにやってんだい」という劈く声が私の思考を遮った。その声を発したのはトウモロコシを焼いている初老の女で、その声は私にではなく輪投げ屋に向けて発せられたものだった。
「また売り物をくすねやがって」
輪投げ屋が囓っているトウモロコシのことを言っているらしい。女は太い両腕をブンブン振りまわして輪投げ屋の頭をポカポカ殴った。
「痛い痛い。やめてくれよ。痛いよ、母ちゃん。やめてくれよ」
どうやら輪投げ屋はこの女の息子のようだ。
「おい、やめないか」と植木屋がふたりの方へ顔を向け、言った。
女は輪投げ屋から食べかけのトウモロコシを取りあげ、背後の一斗缶に放り込んだ。ゴミ箱なのだろう。輪投げ屋はベソをかきながら俯いている。植木屋は「みっともねぇなぁ、まったく」とブツブツぼやきながら顔をしかめていた。そんな三人の様子を見ているうち、ああ、この人たちは家族なのだと思った。植木屋はトウモロコシを焼く女の夫であり輪投げ売りの父親なのだ、きっと。
植木屋は一度大きく溜息をつくと、私の方に向き直った。
「で、どうするんだい。あんた、正月を探しにいくのかね」
その声で私はふたたび、正月を見つけてそれでどうなるのか考えてみたが、わかったことといえば、いくら考えても埒があかないということだけだった。では、どうする?――このまま何もせず家に帰るか。それとも――
少し前にも私は同じようなことを考えた。なぜ正月の記憶が無いのか、その答えを探そうとこの神社へ足を向けた。根拠はまったく無かったが、神社へ行けば答えが見つかるかもしれないと思って。けっきょく答えは見つからず、モヤモヤした気持ちが更に大きくなった。
「探しにいこうと思います。正月を」
結論を出せないまま私はそう答えていた。自分でもはっきりわからないのだが、そうすることにした。
「そうかね。そりゃ、よかった」と植木屋は笑顔を見せた。輪投げ屋もトウモロコシを焼く女も笑っていた。今までのような馬鹿笑いでも嘲笑でもない、ごくふつうの笑顔だった。
「それで――私はこれからどこへ行けばいいんでしょうね?」
無駄だと思いながらも尋ねてみた。きっと答えは私にしかわからないのだろう。これは私の問題なのだから。
だが、意外にも植木屋はこう答えた。「それなら、お面屋に訊くんだな」
お面屋――?
「あそこの婆さんはこんなときのために存在するんだからよ」
植木屋の正面がお面屋だったことを思いだし、私は振り返った。
何十個ものお面が規則正しいようなそうでないような感じで並んでいる。
私は参道を横切りお面屋に近づいた。すると――
「やっとアタシの出番だね」
お面のひとつがそう喋ったので、私は驚き、足を止めた。
「なにを驚いてるのサ。アタシだよ」
お面はほぼ正方形に組まれた木の枠に並んでいたが、その方形から外れて向かって右端に一個だけ老婆の面が飾られていた。それが喋ったのだと思ったのだが、よく見るとそれは本物の老婆の顔だった。
「まったくドジな男だね、お前さんも」と老婆は言った。「まっすぐアタシに話しかけりゃいいものを。そのためにわざわざ参道のいちばん端に店を開いて待っててやったのにサ。よりによってあの口だけ達者な植木屋に声を掛けるんだからね」
老婆はニターと笑った。
「いいかい、お前さん。女はあまり待たせるもんじゃないよ」
「すみません」私はよくわからないまま謝った。「それで私はどうすれば――」
「簡単なことサ。この参道を歩いていきゃいいんだよ」
老婆は参道の奥を指さした。
「この参道を歩いていけば娘が持ってるよ」
娘――と言われて私は自分の娘の顔を思い浮かべた。だが――
「お前さんの娘じゃないよ」と老婆は首を振り、そして続けた。「アタシの娘でもないがね。ま、若いころのアタシに似て美人だけどサ」
老婆はまたニターと笑った。
「さ、なにをボケーと突っ立ってるんだい。早くお行きな。言ったろ、女は待たせるもんじゃないってサ」
私は参道の奥に目をやり、そちらへ向かおうとした。だが、その前に――
「そういえば、親子連れが通りませんでしたか?――私と同じぐらいの年格好で私と同じようなコートを着て小学生ぐらいの男の子を連れた――」
返事はなかった。お面屋の方へ向きなおるとそこには老婆の姿はなかった。またお面の中に紛れてしまったのかと目を凝らしてみたが、老婆の面はなかった。
振りかえると、女はトウモロコシを焼くことに没頭しているようで、輪投げ屋は女の方を横目でチラチラ見ている。隙あらばまたトウモロコシをくすねようと様子をうかがっているようだ。植木屋だけがこちらを向いていた。
私は植木屋に会釈し、参道を歩きだした。
夜店の列は山門への階段の手前で途切れていたが、参道はまだその先も続いている。ほんの五段ほどの奥行きが深い階段を上りきり山門を越えると神社の境内へ出た。そこにはどういうわけか季節はずれの盆踊りの櫓が建っていて、誰かが唸る季節はずれの音頭が聞こえていた。子供のころに私も踊ったことがある音頭だったが、踊っている者はいなかった。それどころか境内には他にも人気が無かった。私はしばらくそこでぼんやり立ちすくみ、音頭に耳を傾けていた。土着的でいてもの悲しい旋律のその音頭をとっているのは野太いがやけに艶のある男の声で、太鼓やエレキギターの音も聞こえていたが、櫓の上にもやはり人の姿は見えなかった。
お面屋の老婆は参道を歩いていけば娘が待っていると言っていたが、どこにいるのだろう。まだ先へ進まなければならないのだろうか。
と、そこへ――
櫓の陰から人影が姿を見せた。少女だった。少女は音頭に合わせて優雅に踊っていた。まだ十代半ばぐらいだろうか。長く真っ直ぐな黒髪。冬だというのに白地に紅い花柄の浴衣を着ていて、素足に下駄履きだった。
少女が来ている浴衣には見おぼえがあった。私はその少女を知っていた。
「きみは――」
少女は踊りながらだんだん私の方へ近づいてきて、私の前まで来ると踊るのを止め、立ちどまった。そして、私の顔を見て少し微笑み、こう言った。
「まいりましょう」

私たちは神社を離れた。
少女の下駄の音がコツコツと夜の町に響き、私はそれを追う。
広い道。細い道。
舗装された道。舗装されていない道。
灯りが漏れている家の前。寝静まっているのか真っ暗な家の前。
シャッターの降りた商店の前。
見知った道。知らない道。
この町にはもう何年も住んでいるのに、まだ知らない道があったのだな。――歩きながらそんなことを考える。あるいは今まで夜に歩くことがなかったところを歩いているのでそう思うだけなのかもしれないが。
空には三日月が浮かんでいる。
静かな町に聞こえるのは少女の下駄の音だけだった。少女はなにも言わず歩きつづけ、私はなにも言えずあとに続いた。
話しかけたかったが、できなかった。何をどう聞けばいいのかわからない。きみは私の知っているきみなのか。私が知らないきみなのか。返ってくる答えが怖いのかもしれない。
私はなにも言えず、ただ少女の後ろ姿を見つめ、歩きつづけた。
白地に紅い花柄の浴衣。
素足に下駄履き。
長い黒髪の先がときどき揺れる。
坂道に差しかかった。
長くて急な上り坂だったが少女の歩く速さは変わらなかった。
坂道の片側には木造の古い民家が並び、反対側にはコンクリート造りらしい大きな建物が建っていた。学校のように思えた。それも、私が通っていた小学校によく似ているような気がした。坂道に面して建っているので最初は三階建てだったのが途中から二階建てになっているところも同じだった。
ああ、これは私の小学校だ――と私は思った。だが、私がこの町に住むようになったのは成人してからなので、これが私の通っていた小学校であるはずがないこともわかっていた。
大晦日の夜中だというのに教室のひとつに灯りが灯っていて、子供の影が見えた。なにかの遊びに興じているかのような子供たちの声が聞こえたような気もした。
坂道を上りきったあとも少女は歩きつづけた。
私はあとを追った。
広い道。細い道。
舗装された道。舗装されていない道。
灯りが漏れている家の前。寝静まっているのか真っ暗な家の前。
シャッターの降りた商店の前。
見知った道。知らない道。
空には三日月。
やがて、正面に平屋建ての木造の建物が見えてきた。
少女はそこへまっすぐ向かっているようだった。
その手前にたこ焼きの屋台が出ていた。遠目には、モノクロームの町の中にたこ焼き屋の赤い提灯だけが浮かびあがっているように見えた。
「おねえちゃん、たこ焼き買うていきぃな」
少女がたこ焼き屋の前を通りかかったときにそんな声がした。少女は無言で通りすぎた。
「旦那、どうでっか。焼きたてでっせ」
少し遅れてたこ焼き屋の前を通りかかった私にもそう声がかかったが、私もまた黙って通りすぎた。そのときチラっと見たたこ焼き屋はさっき会った子連れの男にも植木屋にも似ているような気がした。
「なんやねん。たこ焼き買う金も持ってないんかい。へっ、誰がおどれらに売ったるかい」
そんな罵声を背後に聞きながら少女も私も黙って先を急いだ。
その先の建物へ少女は入っていった。
私は建物の前でいったん脚を止め、入り口の上の看板を見あげた。看板はえらく古いようで、文字は掠れていて、最後の〈驛〉という字だけがかろうじて読めた。
こんなところに駅があったのか。
この町にはもう何年も住んでいるのに、知らない場所がまだまだあるのだな。
駅に入ると、少女は改札の前で待っていてくれた。
少女は私の姿を認めると、また歩を進めた。
改札口には駅員が座っていたが、少女はかまわず通りすぎる。
私は切符を買ったものか一瞬迷ったが、改札の横の切符売り場に誰もいなかったので、しかたなくそのまま改札口へ向かった。
改札係の若い男はどうやら眠っているようだった。
黙って改札を抜け、短い階段を上ると、その上はプラットホームに続いていた。
プラットホームは1面2線の島型ホームで、片側に電車が停まっている。そこはホームのいちばん端であり、向こうの方は暗くてその列車が何輌編成かはわからなかった。
線路のいちばん手前側には車両止めが見える。つまり、この駅は発=終着駅であるようだった。
屋根からぶら下がっている表示板には〈零〉とあった。もう片方の線路の方に表示板はなかった。
「まもなくゼロ番線より夢列車正月行き発車いたします」とアナウンスの声が聞こえた。「ご乗車される方はお急ぎください」
少女はいちばん後ろの車輌のいちばん後ろの乗降口から電車に乗りこんだ。そして振り返り、少し微笑み、「まいりましょう」と言った。
しかし――
それまでずっと少女のあとをついて歩いてきた私の脚はそこで止まってしまった。
この電車に乗ると――乗ってしまうと、私はいったい――
「まいりましょう」と少女がまた言った。
「きみは――きみはいったい――」そう訊ねる自分の声がややかすれ気味でやや震えていることを、私は他人事のように聞いていた。
私は少女をじっと見つめた。
白地に紅い花柄の浴衣。
素足に下駄履き。
長い黒髪。
私はその少女をたしかに知っていた。
「わたしはわたしですわ」と少女は言った。「あなたが知っている、わたし。あなたが想っている、わたし」
「でも、あれはもう何十年も前の――」
どうしてこの少女はあのときのままなのだ?
「ですから――わたしはわたしなのです」
私は夢を見ているのか?
「さあ、まいりましょう」
わからない。私はどうすればいいのだ?
「あなたは正月へ行きたいのでしょう?」
これに乗ると本当に正月へ行けるのか?
わからない。本当にわからない。
私は逆に二、三歩あとずさってしまっていた。
と、そこへ「ゼロ番線より夢列車正月行き発車いたします」とアナウンスが聞こえ、発車のベルがホームに響いた。
電車の扉が閉まった。その向こうの少女の顔に哀しみが浮かぶのを、私はただ見つめていた。
そして――

もう
正月は
来ましたか――?

すぐ背後からそんな声がして、私は我に帰った。
広くも狭くもない往来の街灯の下に私は立っていた。
振りかえると、そこには黒い山高帽をかぶり古くさい黒のコートを着た小柄な男が立っていた。傍らには同じように古くさい黒のコートを着てニット帽をかぶった男の子がいて男と手をつないでいる。親子のようだった。
「もう正月は来ましたかね?」と訊く男の表情はあいかわらずにこやかだった。
私は左手に目をやった。指の先には火がついた煙草を挟んでいて、手首には腕時計が巻かれている。
「どうしました?」
胸の中にモヤモヤしたものを感じながら、私は時計を見つめていたようだ。十二時十分前で停まったままの時計の文字盤を。
「ああ、すみません。正月はまだ来ていません。あ、いや――」
私はそこで言葉を止めた。そして、考えた。今までのことを。
今まで――?
今まで私は何をしていたのだろう。
この親子とは前にも会った。
この親子と会ったため私は様々なことに気づかされた。時計がいつの間にか停まってしまったこと。もう何年も除夜の鐘を聞いていないこと。正月の記憶が無いこと。
その答えが知りたくて私は神社へ向かった。そこで夜店の連中と会い、あの少女と――
「正月は――」私は男の顔を見て、慎重にこう言った。「正月は来るものじゃないのでしょう――?」
「ほう――」男の顔はよりにこやかになった。
「正月は自分で探しにいくものなのですね」
「それがわかったのですね」と男は言った。そして、こう続けた。「それがわかったのに、なぜ一緒に行かなかったのです?」
「私は――私は行かなかった。いや――」必死に言葉を探した。「行けなかったんだ」
「どうして――?」
私は――私はただ、時計がいつ停まったのか、なぜもう何年も除夜の鐘を聞いていないのか、なぜ正月の記憶がないのか、それを知りたかっただけなのだ。
「その疑問は解けたのでしょう?」
そう、疑問は解けた。解けたのだと思う。だが――
「後悔が残った――ってところですか」
そう。そうなのだ。私の胸の中に残っていたモヤモヤしたもの――それは後悔だったのだ。
「それなら、もういちど行けばいいじゃありませんか」
「行くのですか?」
「行くのです」
「今からでも間に合うのでしょうか?」
「間に合いますとも。だって、ほら――」と男は夜空を仰ぎ見た。「まだ除夜の鐘は聞こえませんよ」
私も天を仰いだ。たしかに除夜の鐘は聞こえない。
私たちはしばらくのあいだ三日月が浮かぶ空を見あげていた。
男は私の顔を見てニッコリ笑ってうなずいた。
私も男の顔を見てうなずいた。そして、駆けだそうとして、言い忘れていたことに気づいた。
「よいお年を」と私は言った。
「よいお年を」と男も言った。
「よいお年を」と男の子も言った。今度は大きな声だった。
「あなたは――」お父さんなのですか、と尋ねたかったのだが、うまく言葉が出なかった。
「いいんですよ」と男は言った。「わたしどもはね、言うなれば、契機なのです」
契機――きっかけ。
「だからあなたは何も気になさることはないのです」そう言って男は笑った。
ありがとう。――私は心の中で礼を言い、頭を下げた。そして腕時計にちらっと眼をやった。この時計はこれからも大事に使いますよ。
私は神社へ向かって駆けだした。
「それ見ろ。戻ってきやがった」参道までたどり着いた私の姿を見て、植木屋が嬉しそうに言った。
「ちぇっ、ついてねぇ」と輪投げ屋が小銭を植木屋に向かって放り投げた。
どうやら私が戻ってくるかどうか賭けていたらしい。隣では初老の女がトウモロコシを焼きながら呆れ顔でそんなふたりを見つめていた。
「あなたたちはいったいなんなのです?」と私は植木屋に尋ねた。「あの親子が契機なのなら、あなたたちはいったい――」
「おれたちは指標だよ」と植木屋は答えた。「単なる目印だわな」
「単なるってこたぁねぇじゃんよ」と輪投げ屋は口を尖らせた。
「そうですね」と私は輪投げ屋に言った。「目印がなければどこへも行けやしない」
それ見ろ、どうだい――と輪投げ屋は得意そうな顔で植木屋を見たが、植木屋は知らぬ顔で輪投げ屋が放り投げた小銭を一枚ずつ拾い集めていた。
また不満顔になった輪投げ屋に、彼の母親が焼きトウモロコシを差し出した。
「いつまでもブスっとしてないで、これでもお食べ」
輪投げ屋はトウモロコシをバリバリ囓った。
「いつまでそんな連中にかまってるんだい」と背後から声がした。
お面屋の老婆がまたニターと笑っていた。
「何度も言わせるんじゃないよ。女はね――」
「待たせるもんじゃない――んでしたよね」
老婆に最後まで喋らせずに私はそう言って、笑った。
「わかってるんなら早くお行き」
ありがとう。――私はまた心の中で礼を言い、参道を駆けだした。
山門を越え境内に入ると、盆踊りの音頭が聞こえた。櫓の上では恰幅のいい角刈りの男が野太いがやけに艶のある声で音頭をとっている。太鼓を叩く者、エレキギターを弾く者の姿も見えた。櫓の周りをそろいの浴衣を着た人たちが何重にも囲み、土着的でいてもの悲しい旋律の音頭に合わせて踊っていた。
その中に少女の姿はなかった。きっと、あの駅で待っているのだ。
私は境内を抜け、神社を離れ、夜の町へ出た。
広い道。細い道。
舗装された道。舗装されていない道。
灯りが漏れている家の前。寝静まっているのか真っ暗な家の前。
シャッターの降りた商店の前。
見知った道。知らない道。
いや、もう知らない道ではなかった。さっき通ったばかりではないか。
空にはあいかわらず三日月が浮かんでいる。
静かな町に私の走る音が響いた。
私はただ少女のことだけを思い、駆けつづけた。
少女の後ろ姿を思いだし、走りつづけた。
白地に紅い花柄の浴衣。
素足に下駄履き。
ときどき揺れる長い黒髪の先。
坂道に差しかかった。
長くて急な上り坂なので、さすがに速度は落ちた。
坂道に面して建っている小学校――私が通っていた小学校――の中から子供たちの歓声が聞こえたような気がした。応援してくれているのかい、ありがとう、幼い後輩たちよ。
坂道を上りきった。
長くて急な上り坂だったので、さすがにきつく、それからあとはもう走れなかった。
夜の町を私は歩いた。
広い道。細い道。
舗装された道。舗装されていない道。
灯りが漏れている家の前。寝静まっているのか真っ暗な家の前。
シャッターの降りた商店の前。
見知った道。見知った道。
空には三日月。
やがて、正面に平屋建ての木造の建物が見えてきた。
少女が待っているはずの、あの駅。
その手前、モノクロームの町の中にたこ焼き屋の赤い提灯だけが浮かびあがっている。
「旦那はまた来る思てましてん」とたこ焼き屋の声がした。
たこ焼き屋は私の方へたこ焼きの舟を突きだしている。舟には爪楊枝が刺さったたこ焼きが三個、乗っていた。
「私には売らないんじゃなかったのかね」
「誰が売る言うた。金なんかいらんわい、持ってけドロボー」
私はたこ焼きの舟を受け取り、駅に向かって歩いた。ここまで来たらもう急ぐこともないだろう。除夜の鐘はまだ聞こえていない。
駅舎に入り、改札を抜けようとして腕を捕まれた。
「切符を拝見」
改札係が目を覚ましたらしい。
私はもちろん切符など持っていなかったので少し焦ったが、改札係は私の腕から手を離し、たこ焼きをひとつつまんで自分の口に放り入れた。どうやらこれが切符代わりらしい。
あちちち――と喚いている改札係を後目にプラットホームに出ると、電車はまだ停まっていた。私はいちばん後ろの車輌のいちばん後ろの乗降口から電車に乗りこんだ。
少女はロングシートのいちばん端に座っていて、私を見るとニコっと微笑んだ。
白地に紅い花柄の浴衣。
素足に下駄履き。
長い黒髪。
私も少女の顔を見て、微笑んだ。自然と笑顔になった。
少女の隣に腰掛け、たこ焼きの舟を少女に差し出す。少女はたこ焼きをひとつつまみ自分の口に運んだ。私も残ったひとつを口に入れた。
「ゼロ番線より夢列車正月行き発車いたします」というアナウンス。発車のベル。
少女は空になったたこ焼きの舟を私の手から取りあげ、窓の外にそっと浮かべた。
これでやっと――これでやっと正月が来るんだな。
私の正月が――
扉が閉まり、電車は動きだした。たこ焼きの舟だけをホームに残し。
そして――

もう
正月は
来ましたか――?

すぐ背後からそんな声がして、私は我に帰った。
振りかえると妻と娘が立っていた。
「もう正月は来ました――?」と妻は繰り返し言った。
私は腕時計に目をやった。時計はあいかわらず十二時十分前を指していたが、秒針は動いていた、
「ああ。まだ正月は来ていないよ」
「待たせてしまってすみません。出がけになってこの子があれこれ言うもんですから」と妻。
「なに言ってんの。あれこれ無いって騒いでたのお母さんじゃない」と娘。
私はそんなふうに言いあっている妻と娘の顔をじっと見つめた。あの少女はこの子だったのか。それとも、若いころの――知りあったころの妻だったのか。それとも――
「あなた、どうなさったの?」妻が私の顔をのぞき込んだ。
「ああ、いや、なんでもない」と私は答えた。「なんでもないんだよ」
「お父さん、それなあに?」と娘が私の右手を指さし言った。
私は爪楊枝をつまんでいた。
「ひとりでたこ焼きでも食べてたの?」娘は私の手から爪楊枝を取りあげ、楽しそうに笑った。
「あら――」妻も呆れたように笑った。
私も照れ隠しに、笑った。
広くも狭くもない往来の街灯の下で、私たちは笑いあった。
夜空には三日月が浮かんでいた。
「まだ間にあうわよ」娘は私の手を握り、言った。「早く神社へ行こうよ」
娘はもう片方の手で妻の手も取り、私たちは歩きだした。
周囲にはやはり初詣に向かうのであろう人たちが大勢、神社の方へ向かって歩いている。
「よいお年を」男の子を連れた小柄な男が私たちを追い越し、そう言った。
「よいお年を」と私も言った。
「よいお年を」と男の子も言った。
「よいお年を」妻と娘も声を揃えて、言った。
そして――
たぶんさっきから鳴っていたのだろう――除夜の鐘の音に私はようやく気づき、ああ、正月が来るんだなと思った。

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