ギャグ大名

第1章  萩之茶屋猿公

おそろしく面白くない落語家がいた。芸名を萩之茶屋猿公という。「猿公」と書いて「エテコ」と読む。その名前からもわかるように、浪花の爆笑王の異名をとる萩之茶屋小猿の五番目の弟子である。もっとも兄弟子のうち、ひとりは若くして亡くなり、ひとりは破門になったので、現在の序列は三番目であった。ちなみに弟弟子は二人いる。高校を出てすぐに入門して十二年、この春でちょうど三十歳になった。
他にやりたいことがない、というか、普通に就職するのが嫌だったので、落語家にでもなったろうやないかと、そんな不埒な理由でこの世界へ飛び込んだのだが、元々落語は大好きで、根は真面目なうえに超が付くほどの善人、どんなことでも一所懸命やる。社交的で人当たりも良く、人徳というか仁徳というか、とにかく人を惹きつける魅力を持っていた。そのため、同門はおろか他門の師匠連や先輩たちにもかわいがられ、面倒見がいいので後輩たちにも慕われていた。
だが、落語は面白くなかった。
けして下手なわけではない。師匠や他の先達から教わった噺は一言一句間違うことなく再現できるし、噛むことなくスムーズに話せる。自分なりに工夫した演出も悪くない。
あるとき、猿公の友人にして一番の理解者といわれる笑芸作家の石野澄男が猿公の噺を書き起こし同業者数人に読ませたところ、全員が爆笑した。しかし、その噺を実際に聴いてみると、これがまったく笑えない。面白くないのだ。猿公が作った新作落語を別の落語家が高座にかけたところ、大いに受けたということもあった。これも猿公が自分でやったときにはまったく受けない。客席はシーンと静まりかえる。
石野の分析によると、猿公の芸が面白くないのは「古くさいから」ということに尽きるらしい。石野の名著『芸人奇人変人名人伝』には、明治生まれで初舞台がまだ大正の世だったという上方演芸界の最長老漫才師である鶴見橋亀千代が猿公の高座を観て、ただひとこと、「古いなあ」とつぶやいたという逸話が載っている。
落語なんてものは古くさくて当たり前なのではとお思いの方もおられるかもしれないが、そんなことはない。落語も時代とともに変わってきているし、また変わっていっているからこそ現在でも多くの人に受け入れられているのだ。古典落語といえども現在に生きる者が演じて、現在に生きる者が聴く以上、現在に合った「形」に姿を変えなければ受け入れられないのである。新作落語なら尚更そうだ。
ところが猿公の場合、古いのである。猿公は現在に生きる普通の青年で、感性もごくごく普通だといえるだろう。同じ年代の者が好む本を読み、好む音楽を聴き、好む映画が大好きだ。だが、どうも芸となると途端に古くさくなってしまうのである。語り口調が古くさいとかそういうわけでもない。石野によるとそれは「身体の内から自然と滲み出てくるもの」(前掲書『芸人名人奇人変人伝』)ということになる。その原因は石野にも猿公自身にもわかっていない。どうすれば古くさくなくなるのかわからないので治しようがないのである。

猿公の高座がいかに面白くないかということを語るときに必ず出てくるエピソードがある。
年季が明けて間がないころ、万代池女学院高等学校から仕事の依頼があった。関西有数のお嬢様学校で一般的に「万女」という名で知られる同校には、女子高としては珍しく落語研究部があり、毎年文化祭で発表会を催していて、プロの落語家をゲストに招くというのが恒例になっていたのであるが、まだまったく名前の売れていない猿公がなぜ呼ばれたのかというと、落研の顧問の教師が小猿師匠の大ファンで、まず師匠にオファーしたのだがスケジュールが合わず(というのは表向きの理由で、ギャラが合わなかったというのが実状らしい)、それではお弟子さんで空いておられる方はってことで上から順に当たっていって猿公に当たったということであった。
落研の顧問は竹内眞子という、この年に大学を卒業したばかりの新米教師だった。彼女は万女の卒業生で、落研のOGでもあった。文化祭ゲストは顧問が選定した候補者を職員会議で議論して決めるのであるが、これまで否決された例はなく、顧問が推した時点で決定されたのも同然なのである。竹内先生は在学中からそれを知っていたので、自分が顧問になれば好きな落語家を呼ぶことができるという、いささか不純な動機で大学(万女からエレベーター方式で入学した万代池女子大学)では教職課程を取り、計画どおり同校の教師になり、ラッキーなことに前任者の教師が万女系列の別の学校へ転任したこともあって、赴任すると同時に落研の顧問になりことができた。なお、この前任教師の転任劇については、竹内先生が区会議員である父親に働きかけたためというまことしやかな噂が流れたが、真偽のほどは定かでない。
ともあれ、万女文化祭への猿公の出演はあっさり決まった。ちなみに竹内先生はじめ万女の教師で、それまでに猿公の高座を観たことがある者はいなかったらしい。ひとりでもいれば呼んでいたかどうか。たぶん呼ばれてなかっただろう
猿公にすれば学校での公演は初めてのことで、それも客は女学生である。ウキウキして現地へ赴いた。舞台となる講堂は約五百名の女学生で埋めつくされていた。なにしろ、箸がこけてもキャハハハハ、らっきょが転んでもキャハハハハと、笑うために存在するような十代のギャルが五百人なのである。落研部員の拙い噺にもドッカン、ドッカン、爆笑に次ぐ爆笑であった。しかしそれもゲストとしてトリをつとめる猿公がひとこと喋っただけでピタリと止んでしまった。
猿公はこのとき約二十五分の高座を務めたが、その間、五百人の女学生はクスリとも笑わなかった。それどころか、ついにはそのあまりの面白なさに同情して泣き出す者まで出はじめた。笑うことと同様に泣くこともギャルの得意技であるようで、ひとりが泣きはじめてからわずか三分ぐらいの間にそれは講堂中に伝播し、ほぼ全員が泣きだしてしまうという異常な事態となった。
これが泣かせることを趣旨とした『たちぎれ』や『芝浜』などの人情噺ならともかく(それでも笑いの部分はあるものなのだが)、このとき猿公が掛けていたのは『鷺とり』という誰がやっても笑える噺なのである。それが講堂一杯の女学生が目の前で号泣しだしたのだから猿公もたまらない。笑わせに来たのが逆に泣かせてしまった。これではせっかく呼んでくれた先生方や、顧問の教師が大ファンだという我が師匠にも面目が立たない。おのれの不甲斐なさ情けなさに涙が滲み、とうとう猿公まで泣きだしてしまった。それでも途切れることなく最後まで噺をやりおおせたのは、プロの根性か、真面目な性格なせいか。猿公は泣きながら舞台を降り、そんな彼の姿に感銘を受けた五百人の女学生たちは泣きながら拍手を送った。その光景を脇で観ていた教師や父兄の眼にも涙が光っていたという。
それまで猿公の名前を知っているのは小猿師匠のファンや、ごく一部の濃い落語ファンに限られていたのだが、この時の様子を石野が『大阪遊び案内』というタウン情報誌に書いたことから、多くの人に知られることになった。
同校の文化祭は在校生の父兄以外は原則入場できないことになっているのだが、前任顧問の知人であり落語家の選定に力を貸していた石野は、前任者が辞めたあとも相談役としてこの落語会に関わっており、特例として入場することを認められていた。
石野はそれ以前から猿公の名前は知っていたが、噺を聴いたのはこの時が初めてだった。そしてこの時、猿公の「面白なさ」に興味を抱き、担当していた『大阪遊び案内』のコラム欄に原稿を書き、それは『芸人名人奇人変人伝』を執筆する契機にもなった。それから三年がかりで書きあげた同書は同時代芸人の評伝集として評判を呼び、今に続くロングセラーになっている。咲くやこのはな賞や浪速演芸大賞の文芸賞も受賞した。石野のそれまでの仕事量はテレビやラジオの構成作家としてギリギリ食えていける程度だったが、今やラジオで冠番組を持つほどの売れっ子になった。ちなみに笑芸作家という肩書きは尊敬する香川登志緒先生に倣ったものである。
この話には後日談があった。この舞台を観ていた父兄の中に中堅落語家がいたのだが(彼の娘が同校の在学生であった)、彼はこの後ほどなくして廃業してしまった。辞める理由について本人が口を噤んでいるので、それがこの時の舞台と関係があるのかどうか不明だが、自分の芸に行き詰まっていた彼が猿公の姿に自分の姿を重ねあわせ将来に不安を感じてしまったからではないかというのが、多くの落語ファン衆目の一致するところであった。
また、万女では落語研究部を中心に猿公ファンクラブが結成され、彼女たちはその後も猿公が出演する演芸場や落語会に足繁く通うようになり、彼女たちの口伝てでファンはどんどん増えていった。現在の猿公は芸人の世界ではまだ若手と呼ばれる立場なのだが、彼の出る落語会がたいてい満席になるのは、成人して金も時間もある程度自由に使える立場になった彼女たちの力に寄るところが大きい。
とまあ、こんなエピソードを残すほどに、萩之茶屋猿公は面白くない落語家なのだった。それでもこの世界でやっていけている。先にも述べたように、師匠連や先輩たちにはかわいがられ、後輩たちにも慕われ、落語会には客が集まるし、ラジオのレギュラー番組も持っている。辞めさせてはどうかといった言葉は今のところどこからも出てこないし、なにより本人にそうした意思は皆無であった。自分の芸に行き詰まりを感じていることも確かではあったのだが、辞める気はさらさらなかった。
猿公については、複雑な家庭環境のため貧困を極めた幼少時代の話や、涙なくしては語れない小猿師匠との数々のエピソードなど、記したいことがまだまだあるのだが、それは別の機会に譲るとして、そろそろ本題へ移ることにしよう。

暑い夏の夜のこと、猿公は大阪城公園を歩いていた。今日は摂正亭正摂師匠に声をかけてもらい天満天神繁昌亭の夜席で出番をいただいた。終演後は繁昌亭のすぐ近く、南森町の格安居酒屋で打ち上げ。それもお開きになったので帰ろうとしたら、同じく夜席の出演者であった兄弟子の猿松に捕まった。「緑橋で呑みなおそやないか」と言うのである。ここで嫌な顔を見せたりすると「ほんならお前のアパートで呑もや」と言うに決まっている。猿公のアパートは天満橋にあり、南森町からタクシーでワンメーター、歩いても二十分ぐらいのところにあった。猿松が翌日休みであることを知っていたので、うちへ呼んだらいつまで呑み続けるかわからない。それも困るのでけっきょく緑橋までお供して、猿松の嫁(猿公は姐さんと呼んでいる)がやっているスナックで日付が変わる頃まで呑んだ。その帰り道である。
酒は強くないが呑むのは好きであった。いや、芸仲間との酒宴が好きだというべきか。今夜も猿松とサシで芸談義に花を咲かせた。小猿門下の筆頭弟子である猿松は一門の中で最もやたけた(大阪弁でやぶれかぶれ、無謀などという意味)な男だったが、芸に対しては真摯な男でもあり、同じく真面目に芸に取り組んでいる猿公とはウマがあうのか、よく呑みに連れていかれた。
とっくに終電の時間は過ぎていたので、すぐ近くに住んでいる猿松は「わしの家に泊まっていけ」と言ったが、前にも同じように猿松宅へ泊まった折り、朝はおろか翌日の昼過ぎまで付きあわされてえらい目に遭った経験があるので、それは固く断った。姐さんも「あんた、そんな無理に誘わいでも」と助け船を出してくれた。もっとも、自宅で昼過ぎまで呑まれたりすると姐さんにしてみても大迷惑なので、これは自分のためでもあったろう。「しゃあないなあ」とつまらなさそうに言いながらも、嫁さんには頭が上がらない猿松は猿公にタクシー代を握らせた。
緑橋から天満橋は大阪城公園を横切れば三キロほどの距離なので、ゆっくり歩いても一時間とかからない。多めに貰ったタクシー代は財布に仕舞い、ぼちぼち歩いて帰ろうという算段であった。酔い覚ましにちょうどいい。商売道具の着物一式や高座で使う小物などを入れたキャリーバッグは後日取りに伺うといって姐さんのスナックに預け、財布やスマホ、スケジュール帳などを放り込んであるショルダーバッグのみ肩から掛けていた。他に持ち物といえるのは腕時計と、ポロシャツの胸ポケットに入れているICレコーダーだけだった。
猿公はいつも自分が出る落語会では、自分の高座の出来をチェックするためICレコーダーで録音していた。なにぶん昨今は著作権がどうのこうの煩いので自分の高座だけを録るようにしていたが、ストップボタンを押し忘れ気がついたら自分の出番以降も録っていたということも偶にある。そんな時でも自分の高座以外はあとで消去するようにしていた。誰かに聴かせるわけでなくあくまで聴くのは自分だけなのだが、あんがい気の小さいところもあるのだ。
今夜の高座も録音していたので、それを聴きながら猿公は歩いていた。胸ポケットのICレコーダーに差したイヤホンを通じ、耳から頭へ今夜の自分の噺が入ってくる。今夜やったのは『延陽伯』だった。噺自体は噛むこともなく非常にスムーズに進んでいるのだが、いかんせん笑い声がまったく聞こえない。古いSPレコードで初代桂春団治の落語やエンタツ・アチャコの漫才を聴いたことがあるが、あんな感じに聞こえる。だが、それらは客がいないスタジオで録音されたものなのだから、笑い声が入っていないのは当たり前なのである。自分の場合は大勢の客の前でやっているのに笑い声がしないのだ。
ううん、あかんなあ。前座で出たまだ修行中の身の正摂師匠の弟子ッ子でも笑いを取れていたっちゅーのに、おれはなにをやってるんや。
阪神高速の高架下を西へ歩いて十五分ほどで大阪城公園の南東口に辿りついた。地下鉄でいえば緑橋から森ノ宮まで一駅分歩いたことになる。ICレコーダーの中の自分の高座は終盤に差しかかっていた。自分で聴いていても面白くないとつくづく思う。古くさいことがよくわかる。戦前に録音された春団治やエンタツ・アチャコの方がまだ新しく思えるぐらいだ。
公園内を北西に進み、本丸の玉造口に差しかかったころ、「ええーっ、飯を食ううのが恐惶謹言なら、酒を飲むのは酔ってくだんの如しか」ドンドン。噺が終わった。猿公の口からはぁーと溜め息が漏れ出た。酔いは半分がた醒めていた。
ICレコーダーからは次の出番だった猿松の出囃子が聞こえている。出囃子に拍手が重なり、見台を小拍子で打ったカンっという音が響いたと思ったら、もう笑いが起きていた。さすが猿松兄さんや。本来ならこのあたりで録音はガサゴソ、ブツっと終わるはずだったが、猿松が挨拶を済ませマクラを降りはじめても終わらなかった。ちなみに「ガサゴソ」はICレコーダーを触ったときの音、「ブツ」はストップボタンを押したときの音である。
ああ、そうやった。猿公は思いだした。高座から降りるとすぐに正摂師匠が話しかけてきたので、ストップボタンを押し忘れ、気づいたのは中トリの猿松の出番が終わり、仲入りになってからだったのだ。だから今このICレコーダーには猿松がやった噺も丸々入っていることになる。
録音の一部を消すのはそんなに難しいことではないのだが、ICレコーダーのボタンは小さいので押し間違えてすべて消してしまうこともある。何度かそうしたミスを犯してしまったので、今では、録音したデータはアパートに置いてあるパソコンに移したあとで、パソコン上のソフトを使い編集するようにしていた。だから、このときも再生を止めただけだった。
猿公は耳からイヤホンを外し、ICレコーダーごとショルダーバッグに放り込んだ。それから、今夜の猿松の高座を思い返した。猿松兄さんの『くっしゃみ講釈』は何十回も聴いたけど、今日のは格別やったなあ。『難波戦記』のくだりもいつもより長かったし、なによりも迫力満点でホンモンの講談師みたいやった。笑いもドッカン、ドッカン起こっていたし。それに比べて、わしはホンマにアカンなあ。
そんなことばかり考えていると気分がドンヨリしてきて悪酔いしそうなので、頭を切り換え、明日からのことを考えることにした。

猿公がラジオのレギュラーを持っていることは既に述べたが、それは浪速ラジオの『土曜はデックデック』という番組だった。かつてダックデックというコンビで漫才ブームのころ人気を博し、コンビ解散後は司会者として多忙を極めているデック鶴見橋(鶴見橋亀千代の孫弟子に当たる)がメインパーソナリティを務める土曜午後の二時間番組である。毒舌家として知られるデック鶴見橋の、テレビでは聞けない過激な言動が「売り」であり、コアなデックファンに支持され十年以上も続く人気番組であった。猿公はサブパーソナリティとして三年前から出演している。
デックは小猿とは旧知の仲で猿公のことも修行中のころからよく知っていて、前任者の女子アナが寿退社で降板する際、「次は猿公でいこか」と直々に指名した。番組のディレクターは演芸に造詣が深く猿公の語りの「面白なさ」を知っていたので難色を示したが、デックに押し切られ、サブのサブとして別の女子アナ(デック好みの女性だった)を付けることで折りあった。
新体制での番組は当初、デックと猿公の間がギクシャクしていて、猿公はすぐに降ろされるのではないかと囁かれたが、デックの切れ味鋭い毒舌に猿公の面白くないツッコミが入ることによりデックが本気で切れて計算外のオモシロサが生まれた回(のちに「伝説の放送」と呼ばれることになり、現在ではリスナーが録音したものがyoutubeに投稿され、莫大な再生回数を数えている)をキッカケに人気は急上昇、そのフォーマットが固まってからは人気が安定した。また、猿公の面白くない話にデックがツッコミを入れることにより面白さに結びつくという副産物も生まれた。
『土曜はデックデック』は人気番組ではあるのだが、浪速ラジオでは毎年、夏の高校野球を大阪大会の準々決勝から甲子園の全国大会まで完全生中継しているため、七月の末から一ヶ月ぐらい番組は休みになる。今年でいうと一昨日の七月二十四日が休み前の最後の放送で、八月二十八日が休み後の最初の放送の予定になっていた。デックはその期間に合わせて夏休みを取ることが恒例になっていた。他のレギュラー番組も事前に録り貯めするか、代役を立てるか、特別番組を放送するなどして対処していたが、これはデックほどの大物であるからできることであった。
「芸人は働きすぎたらアカン。働いているあいだは新しいことができん。同じところに留まっている芸人は腐ってしまう。前に進むには新しいことを考える時間も必要なんや」というのがデックの持論であった。漫才ブームのとき休む暇もなく働いた代償がコンビ別れだったということが教訓になっているのだという。
「猿公くん、きみも休んだらどうや」
レギュラーになった一年目の夏から猿公はデックにそう言われていたが、まだまだ駆け出しの若造がそうそう仕事を休めるものではない。『土曜はデックデック』のおかげで落語ファン以外にも名前が知られるようになりテレビやラジオの仕事も増えた二年目の夏も休めなかった。しかし、収入も安定して、なにより自分の芸に行き詰まりを感じてきていたこともあったので、今年こそ休みを取ろうと半年ほど前から夏場の仕事を入れないように調整してきた。猿公は芸能事務所に所属しておらず仕事はすべて自分で直にいれていたので、それほど難しいことではなかった。その結果、明日から、約一ヶ月後のラジオ出演まで休みがつづくことになっている。
当初は一昨日のラジオが終わるとすぐ休みのはずだったが、正摂師匠の誘いは断れず、今夜が仕事納めとなった。それが猿公の運命を変えることになるのだが、彼はまだそれを知る由もない。

「明日からどうしようかいな」
休みは取ったものの、なんの予定も立てていなかった。デックは毎年、海外旅行に出かけていたが、そんな金はもちろん無い。それでは近場の温泉へでもと考えたが、一緒に行く連れもなく、ひとりで行くのも気が乗らない。言い忘れていたが、猿公はまだ独身で、去年の今ごろ結婚の約束までしていた女に逃げられてから、彼女と呼べる存在もいなかった。同輩や後輩を誘うにも、みんなそれなりに忙しく、まとまった休暇を取れる者などいない。高校を出てから落語一筋で趣味といえるものも持っていないし、さて、どうしたものか。
猿公は歩きながら夜空を見あげた。まん丸な月が浮かんでいる。ああ、今夜は満月やったんや。その月に向かって猿公は語りかけた。
「お月さん、なんぞええことおまへんやろか」
大阪城公園には深夜だというのに人の姿がチラホラ見えた。ほんどがアベックのようである。こんな夜中になにしてけつかるねん。ちゅーか、これから桜ノ宮あたりでナニするつもりなんやろな。そういや、こっちの方もとんと御無沙汰しとるなあ。あの子にフられたんがちょうど一年前やさかい、もう丸一年も御無沙汰してるっちゅーわけや。けど勿体ないことしなあ。あんなこと言うんやなかったなあ。わしがちょっとでもお客さんに笑ってもらえるようになったら一緒になろか。それから一年たっても二年たってもお客さん笑わすことできへんかって、とうとう愛想つかされてしもたがな。あんなこと言わんと、そやなあ、食べていけるだけ稼げるようになったら結婚しょうかとか言うてたら今ごろハッピーになれてたんやろか。
そんなことを酔った頭でとりとめもなく考えながら歩いていたら、なにかにぶつかった。いや、なにかがぶつかってきたというべきか。
「わっ」猿公、はずみで尻餅をついた。「あいたたたた」
びっくりして酔いもあらかた吹っ飛んだ。気を取り直して前を見ると、目の前にやはり尻餅をついている者がいた。
「こら、えらいすんまへん」
とりあえず謝っておいてから、相手の姿をよく見てみた。そして、また驚いた。その人影はなんと甲冑を身に纏っていたのである。
「な、なんじゃあ?」
鎧を着ているのでよくはわからなかったが、かなり痩せた男のようだ。腰には身体に不釣り合いなほど大きな刀を差している。どう見ても戦国武者といった様相である。映画かドラマの撮影でもやってるんやろか。それともコスプレマニアか何かか。猿公は尻餅をついたままじっと武者を見つめていた。精悍な顔つきの若者だった。
あちらもこっちをじっと見ている。眼を大きく見開いていた。たぶん、わしの眼もあんな風にまん丸になってるんやろな。
「あ、あのう、おたく」
「お、おぬし」
しばらく見つめ合ったあと、ようやく声が出たと思ったら、ほとんど同時に向こうも声を発した。それが弾みになったのか、武者姿の男は「ひい」と変な声を挙げて立ちあがった。そしてそのままこちらを見据えたまま何歩か後ずさったかと思うとクルリと身体を反転させ、一目散に駆けだした。
「あっ、ちょっと」
気がつくと猿公も走っていた。武者姿の男を追いかけていた。
武者姿の男は大阪城公園の中を走りまわった。ムチャクチャに走りまわっているようだった。静かな夜の公園で恋を語らっていたアベックたちや、草むらで寝ていたのであろう浮浪者風の男がこっちの方を見ているのがわかった。わあ、なんか恥ずかしいなあ。みんな見てるがな、かなんなあ。
猿公はそんなに足が速い方ではなかったが、それより武者の方が甲冑を身につけている分スピードも出にくいのだろう、やや遅いらしく、両者の差は徐々に縮まってきていた。おれはなんでこの男を追いかけてるんやろ。わけがわからなかったが、それでも猿公は足を緩めなかった。
差が近づいてくるにつれ、武者はムチャクチャに走っているのではなく、なにかを探しているのではないかと思いはじめた。武者が走りながらやたらあたりをキョロキョロ見回していたからである。
更に差が近づき、今にも武者の背中に手が届きそうになったとき、それまで右へ左へフラフラ走っていたのが、急にまっすぐ走るようになった。どうやら探し物を見つけたらしい。いったい何を見つけたっちゅーねん。その答えはすぐにわかった。武者の身体の向こうに井戸らしきものが見えたのである。武者はその井戸めがけて真っ直ぐ走っていた。
井戸の向こうに大阪城の天守閣がそびえ立っているのが見えた。天守閣の横に満月が浮かんでいる。へえ、こんなとこに井戸なんかあったんや。天守閣のすぐ近くの広場の中にポツンとその井戸はあった。直径二メートルぐらいで、地面からの高さは一メートルもない。丸井戸だった。なんや、貞子が出てきそうな井戸やな。
武者との差がどんどん縮まって、ついに伸ばした指の先が武者の鎧に触れた。いや、触れたような気がしただけで、実際には触れなかった。触れる寸前、武者の姿がフっと消えたからである。
「えっ?」
どうやら武者は井戸に飛び込んだらしいと気づいたときにはもう遅かった。猿公も止まることができず井戸の縁に足を引っかけ、勢いあまって頭から井戸の中へ飛び込んでしまっていた。
「わちゃー」
落ちてる。おれは落ちてる。ザブンと水に潜ったと思った次の瞬間には、もう気が遠くなっていた。

「ふぁっくしょーん」
猿公は自分のくしゃみで目を覚まし、その勢いで上半身が跳ね起きた。
「おお。目を覚ましよったぞ」
そんな声が耳に入り、自分を取り囲むように人がたくさんいることに気づいた。みんな和装である。商売柄、和装は見慣れたものだが、なにか違う。違和感があった。
「ここはどこや」そう呟きながらあたりを見回す。屋外であることはすぐにわかった。すぐ傍らに井戸がある。ああ、さっき落ちた井戸やな。てえことは。顔を上げると天守閣が見えた。見えたのだが、なにか違う。やはり違和感があった。満月も消えている。雲に隠れているのか。それとも、月の場所が変わるほど気を失っていたのだろうか。
「ここは大阪城、やんな?」
「そのとおり。ここは大坂城じゃ」男たちの中のひとりがそう答えた。「大坂城の岡神由龍様の陣中じゃよ」
「おかがみよしたつ?」
猿公は小声で繰りかえした。なんやねん。誰やそれ。こいつら一体なんやねん。やっぱり映画の撮影か。それともテレビのなんちゃらカメラとかいうやつか。
あいにく、そのどれでもなかった。あっさり言ってしまえば、猿公はタイムスリップしてしまったのである。時は慶長二十年(一六一五年)の春、大坂夏の陣の直前であった。


第2章  岡神由龍

豊臣家と岡神家の付きあいは永禄十二年(一五六九年)、堺を包囲した織田信長の使者として当時まだ木下姓だった秀吉が、和泉国貝塚の小大名であった岡神家を訪れたときより始まったとされる。
秀吉は織田の軍門へ下るよう交渉(というかほとんど脅迫)に赴いたのだが、時の岡神家当主由為はこの時代に珍しい徹底した平和主義者で、「我らは織田軍と交戦中である三好勢からの誘いも断りつづけている。織田の軍門に下ることは容易いが戦乱に巻き込まれては領民が難儀するだけ」と持論を述べた。ようするに、織田の邪魔はしないから放っておいてくれと言うのであるが、そのあまりにも堂々たる毅然とした態度に秀吉は感銘を受け、たった一度の対面だけで由為に心酔してしまったという。信長には岡神家は我らに服従しましたのであとは放っておいても大丈夫と適当な返事をし、おかげで岡神家はその後も戦乱に巻き込まれることなく貝塚の小さな領地を守り続けることができた。
もっともこれには異論もある。当時の貝塚は一向宗の拠点のひとつであり岡神家にとって目の上のたんこぶのようなものであったが、それを織田のバックアップを得ることで抑えつけようとする魂胆があり、織田にしても岡神家が貝塚の一向宗を抑えることは石山本願寺との対立上有利に働くので、ようするには織田、岡神の両家ともお互いを利用しあったのが真相だというものである。
岡神家が戦乱に巻き込まれなかったということについても、天正五年(一五七七年)の織田軍による雑賀攻めの際に貝塚寺内が全焼したのは岡神家と一向宗との争いの結果であると推論する説もある。まあ、そうは言っても、岡神家の名前が戦乱と結びつくような記述がある資料はほとんど見あたらず、この乱世と呼ばれる時代に於いて希有な存在であったことは確かであろう。
天正八年(一五八〇年)に織田軍と石山本願寺の和議が成立し、その二年後、信長が死去した年には岡神家の尽力で貝塚寺内は再興している。信長の跡を継ぎ天下人となった秀吉は貝塚に寺内諸役免除の朱印状を下付し、以降、岡神家は貝塚寺内を保護する役目を担うことになる。
更にその二年後の天正十二年(一五八五年)、岡神由龍は生まれた。父の起龍は由為の子であり、由龍は起龍にとって最初の子であった。由為は由龍の誕生とともに家督を起龍に譲っている。
由龍が生まれたちょうどこのとき秀吉は、泉州に残る本願寺勢の雑賀・根来衆を討つため出兵している。その折り貝塚に立ち寄り、生まれたばかりの由龍を抱きあげ、自分の幼名である「日吉丸」の名を与えたとされるが、これも眉唾だ。この件だけでなく、由龍の生涯については生年と没年以外の信頼すべき資料はまったくと言っていいほど残っておらず、そのほとんどが後年に創作されたものではないかといわれている。
なんにせよ、この年で和泉国からは戦乱の火が消え、五年後の天正十七年(一五八九年)には秀吉の天下統一により日本国中から戦火が消えた。その後の二度に渡る朝鮮出兵にも岡神家からは兵を出すことがなく、これは由為譲りの平和主義者であった起龍の性格を秀吉が知り抜いていたためといわれている。そんな平穏な空気の中で由龍は育った。
由龍の元服についても諸説あるが、慶長元年(一五九六年)とする説が有力である。これは由龍が秀吉の近習として出仕したのがこの年であるという記録が残っていることからの推測である。ちなみに由為が没したのもこの年であった。
由龍は秀吉にたいそうかわいがられたらしい。これは秀吉が岡神家に絶大な信頼を抱いていたからだとも、天正十九年(一五九一年)に満二歳で亡くなった秀吉の遺児鶴松に面影が似ていたためともいわれていた。また、由龍はこの時代にあって、しかもまだ十代前半というのに突出したユーモアセンスの持ち主であったともいい、ちょうど秀吉が二度目の朝鮮出兵に夢中になっている時期であり、息抜きに由龍と話すことをなによりも楽しみにしていたという。
出仕して一年後、父の起龍が病に倒れたという報せが届いたが、秀吉は由龍が国へ戻ることを許さず、けっきょく帰国できたのは更に一年後の慶長三年(一五九八年)、豊臣秀吉が死去したあとのことであった。起龍の病は命に関わるほどのものではなかったが、めっきり身体が弱くなっていた。

秀吉の死後、平穏だった世の中がまた揺らぎだした。慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原の戦い。岡神家のような弱小大名にも東西両陣営からうちに組みせよとの使いが来た。家内の意見はふたつに割れた。と言っても、西(豊臣)につくか東(徳川)につくかというわけではない。豊臣家との関係を鑑みれば西方に味方するのが筋という意見と、もうひとつはどちらにも味方せず中立を守るというものであった。数の上では前者の方が多かったが、後者を主張する者の中には起龍・由龍の親子がいた。起龍は大病を患ったせいで命の尊さを改めて知ることになり、平和主義に拍車がかかっていた。また由龍は自分をかわいがってくれた秀吉および豊臣家への愛情・愛着というものは持っていたものの、西軍の主力を形成する石田三成をはじめとする者たちへ共感・共鳴する気持ちはほとんど無かった。当主と嫡子が中立派である分、家内世論は拮抗していたといえるだろう。
けっきょく結論が出ないうち関ヶ原の戦いは始まり、終わった。徳川家康率いる東軍が勝ち、西軍に味方した者たちのほとんどは戦死か、獄死か、生き残ったとしても大きな罰が与えられた。岡神家には何のお咎めもなかった。西軍についたわけではないので当たり前かとも思えるが、中立の立場で改易させられた大名は実際に何人もいるし、家康の狡猾さからしてイチャモンつけられ何らかの処罰を受けていたとしてもおかしくはなかっただろう。じつはこれ、貝塚寺内の本願寺派が東軍についてゲリラ活動をしていたことで、当地を治める岡神家もそれに協力していたと徳川が勝手に思いこみ、それで処罰がなかったのであろうというのが実状らしい。岡神家は今なお目の上のたんこぶたる貝塚寺内に助けられたことになる。
ともあれ、岡神家は生き延びたのではあるが、家中の者のなかには西軍につかなかったことを後悔している者が多数いた。その筆頭が、これまた当主の起龍であった。起龍は、どちらが勝つにせよここまで徹底的に差がつくとは思っていなかった。だからこそ中立を唱えていたのである。しかもあとから、明暗を分けたのは小さな出来事の積み重ねによるものと知った。それは例えば弱小大名にすぎない岡神家の参加次第でも変わっていたかもしれない。そして、一度そう思ってしまうと、それが心の中で真実となり、おれが駆けつけていたら西軍は勝っていたのではないか、いや必ず勝っていた、と思いこむようにまでなっていた。自分は豊臣を裏切ったのだ、取り返しのつかないことをしてしまったのだと激しく後悔し、それは時が経つにつれ起龍の中でどんどん大きくなり、それに比例するように身体はますます弱っていき、ついには寝込んでしまうようになった。
悪いときには悪いことが重なるもので、どうしたわけかこの頃、血族や譜代の家臣に不幸が相次いだ。まあ相次いだといっても実際には、当時の平均年齢をはるかに越えた老齢者が三名、たまたま同じ時期に亡くなったということなのであるが、時が時だけに「すわ太閤殿下の祟りじゃ」などと騒ぐ者が出て、それはたちまち家じゅうに伝播し、翌日には領地全体に拡散していた。多くの者はガタガタ震え、起龍と同じように寝込んでしまう者があとを絶たず、密かに逃げだす者まで出た。
こうなると由龍が奮起するしかない。まだ冷静さを保っていた側近たちをかき集めあれやこれやと指示を出し、自ら領地を駆け回っては家臣たちをしっかりしろと鼓舞し、領民たちに心配ない大丈夫だと声をかけ、なんとかかんとか領内の秩序を建てなおした。と、これはあくまで講談の『後太閤記/太閤と由龍』で描かれる由龍の活躍ぶり。いくら大名の嫡子で秀吉にも仕えたことがあるとはいえ、若干十五歳の若者がここまでやれるとは思えない。おそらくは側近たちが寄り集まって臨時内閣のようなものを組織して事に当たったのであろう。
とにかく、ここでもなんとか危機は脱したのであるが、このあと歴史的資料に岡神家の名前が現れるのは慶長十九年(一六一四年)のこととなる。このとき起龍は既に故人とされていて、没年や死因は判明していない。由龍には弟が少なくとも三人、妹も複数いたらしいのだが、名前や経歴がわかっているのは二歳下の弟の由成だけであった。また、由龍が正室を娶ったことについての記述がある資料は残っているものの、その名前や年齢、輿入れ時期、子供の有無、側室がいたのか、などといったことも不明である(家康の側室で秀忠の母である西郷局の姻戚者であるとの説はある)。

慶長十九年、由龍は満二十九歳になっていた。
この年の秋、由龍は大坂城で秀吉の嫡子秀頼に謁見している。といっても、別にこれは特別なことではない。領地が近いこともあり、それまでにも由龍は事あるごとに大坂城へ赴いていた。秀頼自ら由龍を呼んでいたのである。側近の中には、関ヶ原の戦いで西軍に味方しなかったことを陰で悪しく言う者も多かったし、秀頼の生母である淀殿などはあからさまに嫌な顔を見せることもあった。だが、秀頼は気にしなかった。秀頼は由龍より八歳下の二十一歳で、側近に歳が近い者がほとんどおらず、由龍は話し相手として最適だった。秀吉同様、秀頼も由龍のユーモアセンス溢れる話術に惹かれていたという。
ただ、この日の謁見はこれまでと様子が違っていた。同座していた豊臣家の家臣団から、近く徳川と一戦交えるだろうということを聞かされた。関ヶ原の戦いのあとも豊臣家と徳川家の間で燻りつづけていた火種は、いよいよ大きな炎として燃えあがる寸前までになっていたのである。その折りには各地の親豊臣派の大名や浪人たちに檄を飛ばしこの大坂城へ集結させる。だからお前も一族郎党を引き連れ大坂城へ馳せ参ぜよ、とまあこう言っているわけである。
秀頼は直々に由龍の手を取り「頼むぞ」と言ったという。これでは断れるわけがない。もっとも、秀頼に頼まれなくても由龍の腹は決まっていた。胸のうちには関ヶ原の戦いに参加しなかったという悔恨が残っており、頭の中には父起龍の憔悴ぶりがこびりついている。それもあって、次の機会がもしあるのなら今度は豊臣家のために働こうと十五歳のころから決めていたのである。
由龍は大坂城から戻ると弟の由成および譜代の家臣を集め、来るべき有事の際にどう動くかを話しあった。豊臣方につくことは集会一致で決まったが、どれぐらいの軍勢を大坂城へ送るのかで意見が割れた。豊臣家は大坂城に籠城する戦法をとるつもりだった。ということは大坂が戦場になるということで、徳川の軍勢は大坂とは目と鼻の先の泉州にも攻めてくるだろう。それに備えるための軍勢をどれぐらい残すべきか。意見は三つに分かれた。
一つ目の意見は、全員残らず入城するというものである。この頃の岡神家の総戦力は二百五十人程度。大坂城はもともと、織田信長との石山合戦においてじつに十年間にもおよぶ籠城戦を戦った石山本願寺の跡地に建てられた城であり、弱小大名の軍勢ぐらい余裕で入城できるだろう。それに徳川軍が攻めてきても領地に軍勢がいないとわかれば無駄な殺戮におよぶこともないだろう。少なくとも領民の命は助かるわけだ。この案は由龍が推していた。
第二の意見は、逆に大坂城へは最小限の人員のみ送り、この泉州で防御を固めるというものである。大坂との間で敵を挟み撃ちすることで、徳川の軍勢を分散させることにもなる。この案には由成が乗り気であった。
残る意見は、先の二つの折衷案で、半数を入城させ、残りを領地の防御に残すというものであった。
連日連夜、喧々囂々の話し合いが続いたが、結論は出ない。この戦国の世にあって戦闘行為というものをほとんど経験していなかったので、どう戦えばいいのかわかる者が家内にいないということがその最大の原因であった。貝塚寺内が徳川びいきであることも問題をややこしくしていた。
やがて豊臣家からの檄が届いてもまだ結論が出ず、とりあえず由龍は領地の統率を弟の由成に任せ、側近数名のみをつれて大坂城へ向かった。大坂城のすぐ近く、一日で辿り着けるところにいるのに入城するのが遅れたら体裁が悪いし、それに大坂城内には後藤又兵衛、真田幸村、長宗我部盛親ら歴戦の強者が数多そろっているので、良い意見を聞けるだろうという算段もあった。
だが、その算段は脆くも崩れ去ることになる。大坂城内は迫り来る決戦に備え上を下への大騒ぎという状況で、由龍が話しかけても誰も取りあってくれない。連日開かれている軍議にも顔は出しているが、一般的に名が知られていない弱小大名が発言できる雰囲気でもなかった。そうこうしているうちに、十一月十九日、木津川の戦いを皮切りに大坂冬の陣は始まり、図らずも第二の意見、領地の防御を固めるという策を用いることになってしまっていた。
翌二十日、木津川の戦いに参戦していた徳川方の浅野長晟勢の負傷者を運ぶ一隊が岡神家の領地内を通過したことにより、領地に残っていた者たちも戦が始まったことを知った。浅野の一隊は本拠の紀州へ帰る途中であったが、負傷者ばかりなので岡神勢はこれを見逃した。
大坂城の周辺で野外戦が開始されたという報せもその日のうちに届いたが、由龍からの指示がないため岡神勢は動くに動けなかった。大坂城の周囲は徳川軍にびっしり包囲されていたため、由龍としても使者を送ることができなかったのである。
野外戦が一段落して城の包囲戦に移ったあとの十二月五日、家康が住吉に本陣を構えているとの情報が入った。住吉までなら半日とかからない距離であり、留守を預かる由成は背後から家康を討つべしと声を挙げた。だが、譜代の家臣団からやはり由龍の指示なしで動くべきでないと反対され、ここでもまた喧々囂々の言い争いになったのだが、業を煮やした若者からなる三十騎ほどの集団が独断で討って出た。しかし、彼らが住吉に着いたときには家康は本陣を茶臼山に移しており、それを知らぬ彼らは勢いでそのまま大坂城方面へ攻め上ったが、船場あたりで徳川方の松平康長勢(松平忠明という説もある)と遭遇し、全滅した。
暴走したまま帰らぬ連中の安否もわからぬまま、未だ喧々囂々が続いていた十二月十日、徳川軍が攻めてきた(どこの軍勢かは不明)。二日間の攻防で岡神家は手勢の三分の二以上にあたる百五十人を失ったという。他に非戦闘員も百人ぐらい犠牲になったといわれている(これには徳川びいきの本願寺派の人々も多く含まれていた)。これは岡神家の歴史の中で最大の犠牲者数となった。もういちど攻めてこられたら全滅は必至と思われたが、徳川軍がそれ以上押してくることはなかった。逆に黙って殺されるよりはと、あるいは徒党を組み、あるいは個人で討って出た者がいたが、それらはことごとく討ち死にした。
大坂冬の陣は十二月二十日に豊臣と徳川の間で和議が成立し、終結した。
領地へ還った由龍は、二百名近い家臣と百名の領民を失ったことを知り、愕然とした。由成は責任をとって腹を切ると言ったが、由龍や他の者たちに止められ果たせなかった。和議が成立したといっても豊臣と徳川の争いがこれで終わったとは思えない。この時点で終わったと思っているのは淀殿・秀頼の母子とその取り巻きぐらいで、残りの者は必ずもう一戦あるだろうと考えていた。たぶんそれが最後の戦いになるだろう。由龍ももちろんそう考えるうちのひとりだった。そして、その時には必ず質実剛健な由成の力が必要となる。そう言って切腹を止めさせたのである。
最後の戦いは思いのほか早く来そうであった。由龍は内心、豊臣家は負けるだろうと思っていた。それは岡神家が終わるときでもある。
由龍は残った家臣や貝塚寺内の指導者たちと協議し、その結果、領地の治安維持を貝塚寺内に任せることにした。そのために財産と蔵米のそれぞれ半分を貝塚寺内に寄贈し、家臣の中で本願寺派と縁が深い数名を守護役に任じた。
財産の残りは身分の差に関係なく均等割りし、生き残っている家臣や領民に分け与え、米の残り半分は兵糧米として大坂城へ運んだ。
家臣の去就は各自の自由にさせた。浪人になって他家へ仕官するもよし、武士などという血なまぐさいものなど辞めてしまうもよし。だが、余所へ行く者も武士を廃業する者もいなかった。全員が由龍と共に大坂城へ行くことを望んだ。こうして岡神家の最後の残党三十余名は慶長二十年(一六一五年)二月、大坂城へ入城した。

夏の陣直前の大坂城にあって由龍と由成、それに筆頭家老の加島正三郎の三人は天守閣内にそれぞれ部屋を宛われていたが、他の家臣たちは天守閣から北へ一町(約百メートル)ほどのところに建てられた陣屋で寝起きしていた。城中では岡神陣屋とか泉州様の陣屋などと呼ばれている。
その陣屋と天守閣のほぼ中間あたりに「つきごえのいど」と呼ばれている井戸があった。直径が六尺五寸(約二メートル)、地面からの高さが二尺二寸(約七十センチ)ぐらいの丸井戸である。かねてより摩訶不思議な井戸として知られている古井戸で、この地に石山本願寺が建立されるずっと以前よりあるといい、この井戸の底はこの世ならぬ未知の世界につながっていると云われていた。普段は厚い鉄の板で塞がれている。
その井戸の噂を岡神家で最初に耳にしたのは他ならぬ由龍であり、彼に噂を吹きこんだのは秀吉であったらしい。秀吉に仕えていたころのことである。由龍から面白い話を聞いた代わりに、秀吉は井戸の話を聞かせた。
曰く、この井戸は涸れ井戸だが、新月の夜にだけ水が湧く。その水に飛び込み浮き上がると別の世界に出るという。別の世界の月は満月なのだそうだ。秀吉はこの話を、井戸を通じてあの世から来た者から聞いたという。その者の名は曽呂利新左衛門。そこまで聞いて由龍は法螺話を聞かされていると悟り、笑った。
曽呂利新左衛門は秀吉に仕えていたお伽衆のひとりで、笑い話や法螺話を得意としたというが、由龍が秀吉の近習になったころにはもう大坂城にはいなかったので会ったことはなかった。この井戸の話は秀吉が考えたのではなく新左衛門が作ったものなのであろう。由龍は実際に井戸を見もしたが話どおりの古い涸れ井戸で、新左衛門もきっとこれを見てあんな話を思いついたのだろうと判断した。
ちなみに曽呂利新左衛門であるが、生年は不明で没年も幾通りかの説があり、秀吉に取り立てられた年や経緯もハッキリしないことから架空の人物だったのではないかとも云われている。それにしても最低限モデルとなった人物はいたはずで、じつは岡神由龍もそのモデルのひとりだったという説もある。
さて、由龍はこの話のことを長いあいだ忘れていたのだが、陣屋を訪ねた折りに井戸を目にし、思いだした。そこでこれは月越えの井戸といい、これこれこういう噂があると、家臣たちに聞かせた。
徳川との決戦が近づいているとはいえ、今はまだその気配はしない。岡神家の者たちは籠城に備えての城中整備に勤しんでいたが、それほど忙しいわけでもなかった。というか、大半は暇であった。由龍が天守閣へ戻ったあとで、何人かの者が好奇心から鉄蓋を外してみたところ、確かに水は溜まっていないようだった。ひとりが縄梯子を持ち出し潜ってみたところ、やはり底は涸れていた。その際、深さを測ると十五尺(約四・五メートル)ほどであった。あとは新月の夜、本当に水が湧き出るのかということである。暦を調べると、次の新月は三月一日。よし、その日の夜に調べてみようということになった。ようするに暇なのである。
三月一日の夜。日がどっぷり暮れてから、岡神家の者たちは井戸の周りに集まった。数日前に井戸を調べた者たちだけでなく、天守閣内にいる三人と、城内警護の任に当たっている者以外の二十五名が集まっていた。鉄蓋を外し松明で中を照らしてみると、底の方に本当に水が溜まっていることがわかった。
こりゃ面白い。誰かに潜らせようということになり、若者がひとり指名された。選ばれた理由は仲井戸朝彦という名だったからである。井戸には井戸じゃ、というわけだ。本当に暇なのである。
朝彦は先の冬の陣の折り、領地に攻め込んできた徳川軍の将兵をひとりで何人も討ち取り、自分はかすり傷ひとつ負わなかったという剛の者であったが、若者らしく好奇心も旺盛であり、一も二もなく引き受けた。彼は甲冑を身に纏い、井戸の縁から垂らした縄梯子をつたって、底の方へと降りていった。
残りの者は井戸を取り囲んでいた。全員が囲めるほどの大きさでもないので、二重三重になり、後ろにいる者は背を伸ばしたりして井戸の中の様子を伺おうとした。
しばらくするとパシャっという音が聞こえた。足の先が水面に触れたようであった。と、その一瞬あと、ザブンという大きな音がして、井戸の縁から覗いていた者たちが一斉に「おおっ」と声を漏らした。
「どうした」と後ろの者が尋ねた。
「沈んだ」と縁の者が答えた。
しばらくのあいだ、なにも起こらなかった。朝彦はどうしたのだ。溺れてしまったのではないか。いや、きっとあの世とやらに辿り着いたのじゃ。などと口々に言いあっていると、井戸の底から突然ゴボっという音が聞こえ、次の瞬間、朝彦がポンっと頭を上に向けて井戸から飛びだした。彼の身体は井戸を完全に出たあたりの空中でいったん静止した。空中で立ち止まっているような姿勢だった。それからそのまま横にスっと動いて、地面にゆっくり着地し、そしてゴロっと倒れた。
他の者たちは呆気にとられそれを見ていた。ややあって、最も近くにいた者が、仰臥する朝彦の傍らに屈み込み、顔を覗き見た。
「眠っておる」
そう聞いて安心したのも束の間、また井戸の中からゴボっという音がした。朝彦の方へ向いていた一同の顔はまた井戸の方へ向いた。すると、もうひとりポンっと、今度はおかしな風体の見慣れぬ男が飛び出てきた。

井戸の中から変な男が現れたとの報せを受けた岡神由龍が陣屋に脚を運んだのは明くる日の朝早くのことであった。陣屋に入ると、まず仲井戸朝彦を呼ばせた。昨夜のあらましは報せに来た者から既に聞いていたが、本人からも直に聞いておこうと思ったのである。
「朝彦、井戸の底でなにがあった」
朝彦は説明した。井戸の底に湧いていた水に足をつけた途端、何かに下へ引っ張られた。「ありゃりゃ」と思う間に身体が水の中に引き込まれ、スっと気が遠くなった。気がつくと井戸の傍らに倒れていた。不思議なことに身体は水に濡れていなかった。井戸を覗くと縄梯子はおろか、他の代わりになるになるようなものもなかった。自分はどうやってここから出たのだろう。井戸の周りをグルっと回ると、鉄の蓋が転がっていたが、さっきとは別の物のように見えた。
朝彦はあたりを見回した。見あげると天守閣がそびえ立っていたが、それもいつも見ているのとはあきらかに違っていた。天守の横には満月がかかっていた。天守閣の前は広場のようになっていて、見渡すかぎり岡神陣屋は見あたらなかった。ここは話に聞いていたあの世とやらだろうか。
好奇心旺盛な朝彦はあたりの探索に出た。やはりそこは彼が知っている大坂城とは別の場所のようであった。ときおり人の姿を見かけたが、誰も彼もおかしなものを身に纏っていた。堺や大坂で何度か見かけたことのある異人のいでたちに似ていたが、少し違うようにも思えた。髷を結っている者はひとりもいず、髪が金色の者もいた。朝彦には驚くことばかりだったが、向こうもこちらを見て驚いているようであった。
そうしてキョロキョロ歩いているうち、なにかにぶつかり尻餅をついた。よく見ると目の前に、やはり尻餅をついている男の姿があった。どうやらこの男とぶつかったらしい。
「こら、えらいすんまへん」と言う男の眼は大きく見開かれていた。
しばらく見つめ合っていた。なにか言おうと思ったが咄嗟のことで声が出ない。
「お、おぬし」
「あ、あのう、おたく」
ようやく声が出たと思ったら、ほとんど同時に向こうも声を発していた。それが弾みになって、朝彦は立ち上がった。そして、なぜだかわからないが男に背を向け駆けだしていた。
「あっ、ちょっと」という声が背後から聞こえた。どうやら追いかけられているらしい。
「仲井戸朝彦ともあろう者が怯えたか」
由龍と一緒に話を聞いていた家臣のひとりが横から口を挟んだが、朝彦は首を振った。いや、自分はけして怯えたわけではない。怯えたわけではないのだが、なぜか逃げだしてしまっていたのだ。
「それを怯えたと言うんじゃよ」と別の者が言い、何人かの口から笑いが漏れた。
朝彦は少しムっとしたが由龍の手前ということもありグっと堪え、話を続けた。
逃げたのはいいが、自分はどこへ行けばいいのだろうか。走りながら考えた挙げ句、ここはやはりあの井戸へ戻るべきであろう。井戸へ飛び込めば元いた場所、すなわちこの勝手知ったる岡神陣屋がある大坂城へ還れるはずだ。
しかし、男に追われ無茶苦茶に走りまくっていたので井戸の位置がわからなくなっていた。幸い大きな天守閣はどこからでも見えたので、とにかくそこを目指して走った。井戸はどこだ、井戸はどこだとキョロキョロしながら走るうち、ついに見つけることができた。朝彦は井戸の方へ一直線に走った。
もうあと一歩で井戸へ辿り着くというところで、縄梯子がないことを思いだした。どうやって井戸を降りればいいのだろう。そう思ったときには井戸へ飛び込んでいた。そして、また気を失い、気がつけばここへ戻ってきていた。
「不思議なこっちゃな」朝彦の話を聞き終え、由龍はひとことそう言った。
朝彦が嘘を吐いているとは思えなかった。いささか軽率なところがあるが、実直な若者である。嘘を吐かねばならぬ理由にも思い至らなかった。とすると、井戸の噂は本当だったということになる。今は亡き太閤殿下から聞いた曽呂利新左衛門の話は真実であったのか。
由龍は次にいよいよ井戸から出てきた男と対面することとなった。
「あ、これはどうも。お殿様でございますか。この度はなんて言いますか、ご厄介をおかけしまして」
入ってくるなり男が発したその言いようが可笑しくて、由龍は思わず笑みを漏らした。男は由龍の正面に座らせられた。小袖だけの軽装だった。あとから聞いた話では家臣の誰かの物を着せられているとのことだった。
まず名前を問うた。
「へえ。萩之茶屋猿公と申すもんで」
「エテコ?」由龍は首を捻った。「おかしな名前じゃな」
紙と筆を用意させ、男に名前を書かせた。あまり上手な字とはいえなかったが、読むことはできた。
「猿の公と書いてエテコか」由龍は男が書いた字を見て感心したように頷いた。
「うちの師匠が小猿いいまして。その弟子なので猿公ちゅう名前を貰いました」
「なに。小猿の弟子で猿公」そう聞いて由龍は笑いだした。「こりゃ、面白い」
周りにいた他の者たちも笑った。
男は驚いているようだったが、何に驚いているのか由龍にはわからなかった。


第3章  由龍と猿公

「ふぁっくしょーん」
猿公は自分のくしゃみで目を覚まし、その勢いで上半身が跳ね起きた。
ん、なんや、なんや。夢を見てたんかいな、わしは。それにしても変な夢やったなあ。大阪城公園で甲冑の男を追い回すやなんて、フロイトはんに言うたらなんて診断されるんやろ。そういえば、昨日の晩、丸一年も御無沙汰やとか、なんかそんなこと考えたような気ィするわ。それであんな夢見たんやろか。それから、ええっと、どうなったんやったか?
猿公はあたりを見回した。ここはどこや?
そこは部屋の中だった。もっと正確にいうと、四角い部屋の中に敷かれた布団の上に猿公はいた。
部屋は猿公が住んでいる六畳一間のアパートの部屋を一回り小さくした感じだが、布団の他には文机がひとつ置いてあるだけなので狭さは感じない。天井がかなり高いことも狭さを感じさせない要因のひとつだろう。部屋の三方には襖があったがすべて閉まっている。残る一方の壁は床から一メートルぐらいのところから、縦横五十センチぐらいの小さな襖が嵌っていて、そこから光が透けていた。窓のようだ。襖に映る影の形から、向こうは格子状になっているようである。文机は窓の下に置かれていて、その上には猿公のショルダーバッグが乗せてあった。布団は文机と並行に敷かれている。
猿公はショルダーバッグに手を伸ばそうとして掛け布団を捲りあげたとき、ようやくポロシャツとジーパンを着たまま寝ていたことに気づいた。腕時計も嵌めたままであった。時計の針は二時を指していた。
そのとき、窓と反対側の襖が開いた。
「おお。お目覚めですか」
そこには若い男が立っていた。小袖に肩衣、下には袴を穿いている。その顔をようく見て、猿公は目を丸くした。
「あっ、あんたは」
「昨夜はどうも」若者は照れ笑いを浮かべている。
それは猿公が追いかけたあの甲冑の男に間違いなかった。顔を見たのは一瞬だけだったが、その顔は脳裏にはっきり残っていた。すると、あれは夢ではなかったのか。それとも夢のつづきを見ているのだろうか。
若者は猿公に湯の用意ができていると言い、猿公はわけがわからぬまま風呂へ連れていかれた。寝かされていた部屋は二階にあったようで、風呂は階下にあった。
湯に浸かりながら、昨夜のことを思いだそうとした。甲冑姿の男を追いかけて井戸に飛び込んだと思ったら、大勢の男たちに囲まれていた。いつもと様子の違う大阪城の天守閣を見たような気がする。なんとか様の陣中とか言うてたな。なに様やったかいな。それから先の記憶はなかった。また気を失ったのだろうか。
風呂から上がると、脱ぎ放ったポロシャツとジーパン、それに上下の下着が消えていた。残っていたのは腕時計だけだった。代わりにこざっぱりした小袖と褌が用意されていた。これを着れちゅうことか。師匠の小猿が褌党で、住み込みで修業をしていたころは強制的に着用させられていたため、迷うことなく締めることができた。猿公は師匠に感謝した。
小袖を着終わったのを見計らったように、先程とは別の若者が現れ、着ていたものは洗わせていると告げた。彼とともに元の部屋へ戻ると食事の膳が置かれていた。若者はすぐに部屋を出ていったが、その前に時刻を聞くと「辰の刻」と答えた。猿公が「えっ」と聞き返すと、今度は「朝五つ」と言った。
九つが零時やから、ええっと、八、七、六、五と指を折って数えた。一刻が二時間なので八時ってことか。この時刻の数え方は落語の『時うどん』で覚えたものだ。落語家をやっていてよかったと猿公は思った。
腕時計は二時を指しているので六時間ほどズレていることになる。なんでやろ、と猿公は首を捻ったが、それ以上考えるのは止めた。腹がグウと鳴ったからである。
食事は玄米に大根の炊いたんと味噌汁(これも具は大根だった)だけの質素なものだったが、うまかった。
食事が済むと、今度は年嵩の男が現れた。先程の若者たちと違って、えらく貫禄がある。彼は岡神家筆頭家老、加島正三郎と名乗り、これから殿に会ってもらうと告げた。ああ、なんとか様?
「岡神由龍様じゃ」と正三郎は答えた。
また階下へ降ろされ、今度は大広間のような部屋へ通された。その部屋には年寄りから若いのまで大勢の男がいた。いちばん奥に他の者より上等そうな着物を着た男が座っている。それが殿様なのだろうと判断し、正三郎に目配せすると、うん、と頷いた。
「あ、これはどうも。お殿様でございますか。この度はなんて言いますか、ご厄介をおかけしまして」
挨拶がわりにそう言うと、由龍が笑みを漏らしたように思えた。由龍の正面に座らせられた猿公は、まず名前を問われた。
「へえ。萩之茶屋猿公と申すもんで」
「エテコ?」由龍は首を捻った。「おかしな名前じゃな」
由龍は紙と筆を持ってこさせ、猿公は名前を書かされた。毛筆は得意ではない。我ながら汚い字や。まあ、読めたらええやろ。
「猿の公と書いてエテコか」由龍は感心したように頷いた。
「うちの師匠が小猿いいまして。その弟子なので猿公ちゅう名前を貰いました」
「なに。小猿の弟子で猿公」そう聞いて由龍は笑いだした。「こりゃ、面白い」
周りにいた他の者も笑った。
猿公は驚いていた。おれはいま、笑われている。いや、笑わせているのか。自分の言ったことで人を笑わせたことなど今までなかったことである。嘲笑嗤笑の類なら受けたことはあったが、この人たちはホンマに笑ってはる。心の底から笑ってくれてはる。猿公は感動していた。

「猿公どの、どうなされた」
名前を名乗っただけで笑ってもらえた、その感動にジーンとしていた猿公は、由龍に呼びかけられ我に返った。
「あ、いや、なんでもございませんので」
「ふむ。それでな、いろいろ聞きたいのだが、まず、あの男」と由龍は朝彦を指さした。「覚えておられるとか」
「ああ、はい。昨日の晩、鬼ごっこを少々」
また笑いが起きた。うわ、また笑てもろた。
「その、鬼ごっこか。なぜ鬼ごっこなど始めたのか、それをお訊きしたい。なぜこやつを追いかけたのか」
「それでしたら、そのお方が逃げたから、と」
「なに。こやつが逃げたから追いかけたと」由龍の顔が輝いたように見えた。「ううん、それは道理。そりゃ道理じゃ」
由龍はまた笑った。それも今までよりずっと大きな笑い声だった。他の者も然り。みんな笑っていた。
この部屋にいる者の中で笑っていないのは猿公だけだった。猿公はまた感動していた。人を笑わせたことに感動していた。人を笑わせることがこんなに気持ちいいものか、と感動していた。それは落語家になって十二年目にして初めて味わう感動であった。
「猿公どの、そちは面白いのお。こんなに笑ったのは久しぶりじゃ」
無邪気にそう言う由龍の笑顔を見て猿公も嬉しかった。
「ありがとうございます。人を笑わすのが商売の身にとって恐悦至極に存じます」
猿公、お殿様と呼ばれるお方と話をするなど初の経験なので、言葉がやたら硬い。
「いやいや、礼を言わねばならんのは、こっちの方じゃ」
つい三ヶ月ほど前に三百名近い家臣と領民を失い、つい先だって領地まで手放してしまって、爾来、傷心の日々を送っていた由龍にとって、笑いは本当に久しぶりのことだった。家臣たちにしてもそれは同じだ。彼らもまた家や家族や友を失い、自分の命すら明日にも失うかもしれないという毎日を過ごしているのだ。心の底から笑ったことなど、ここ暫く無かったことだろう。
「人を笑わす商売と言われたが、それはどのような」と正三郎が横から尋ねた。
「へえ、落語家でおます」
答えてから猿公は考えた。どうやら自分がタイムスリップしたらしいことは感づいているのだが、今がどの時代なのかわかっていなかった。彼の知るところでは、落語の始まりは江戸時代の元禄のことで、今はそれよりも前らしい。つまり、まだ落語家という商売が存在しない時代なのだ。
「落語、つまり話を落とすと書きまして」
猿公は名前を書いたさっきの紙に「落語」と記し、持てる知識をかき集めて説明した。
「つまり曽呂利新左衛門殿のようなもんじゃな」と由龍は膝を打った。
落語家の始祖のひとりに数えられることもある曽呂利新左衛門の名はもちろん知っていたので、猿公は「そうです、そうです」と頷いた。
そこで由龍は新左衛門が秀吉に伝えたという件の井戸の話を語った。そして、昨日の晩、朝彦がその井戸に潜り、猿公を連れ帰ったことも。
「ひゃあ。それでわたいはこの世界へ来たんでっか」
これでタイムスリップ間違いなし。もともとSF小説やSF映画が好きなこともあり、SF作家との付き合いもあったりしたので、タイムスリップがどのようなものかはわかっていた。ようするに、あの井戸は過去と未来を結ぶタイムトンネルのようなものなのだろう。新左衛門の話に出てくる「あの世」とは、この時代から見た未来のことなのである。俄には信じがたい話ではあるが、猿公は信じた。自分が置かれているこの状況を鑑みれば信じざるを得ないではないか。
「で、今はいったいいつでんねん?」
「いつ、というのは年月のことを訊いているのかな」由龍が答える。「今年は慶長二十年。今日は三月の二日じゃ」
ケイチョー? なんじゃ、そりゃ。西暦で言うてくれんとピンとけーへんわ。聞いたことはあるねんけどなあ。ケイチョー、ケイチョー。あ、そうか、くっしゃみ講釈や。
落語の『くっしゃみ講釈』の中に講釈師が『難波戦記』を語るくだりがあり、それは「頃は慶長も相改まり明くれば元和元年五月七日の儀に候や」という一説から始まる。猿公は『くっしゃみ講釈』を高座で掛けたことはなかったが、師匠の小猿や兄弟子の猿松の持ちネタでもあり、これまで何度も聴いてきた。昨夜の繁昌亭で猿松がやった噺でもあった。だから、そのくだりは覚えていたのだ。
ここで補足しておくと、慶長が元和と改元するのは大坂夏の陣が終わった後のことなので、今は由龍の言う「慶長二十年」が正しく、元和という元号はまだ存在しない。
ってことは、今は大坂の陣のころなんやろか。
「あのう。もしかして岡神はん、あ、いや、岡神様は徳川はんと戦おうとされてるんで?」
「そのとおりじゃ」
「で、今は夏の陣でっか、冬の陣でっか?」
「ん、なんじゃそれは?」
大坂冬の陣、夏の陣というのはのちの呼び名で、由龍が知るはずもない。
「ええっと。このお城に籠もって徳川はんと戦われるのは初めてでっか?」
「去年の冬にも戦はあった」
すると今は夏の陣の準備中ってことか。今日が三月二日で『くっしゃみ講釈』に出てくる日付が五月七日。あと二ヶ月もすればここは戦場になるのだ。
井戸が未来と繋がるのが新月の夜だけとすると、今夜はもう新月ではないため、還ることができなくなったということで、猿公が元の世界へ還ることができるのは次の新月の夜、すなわち約一ヶ月後まで待たねばならない。
その間に戦いに巻き込まれるかもしれないという焦りや恐怖感は不思議と湧いてこなかった。いざとなれば次の新月の夜にあの井戸へ飛び込めば元の世界に還られるだろうという考えがあったからなのだが、しかし新月だからといって必ず井戸が未来と繋がるという保証はまったくないということに猿公は気づいていない。新月であること以外の条件が必要なのかもしれず、昨夜はその条件がたまたま揃った特別な日だったのかもしれないではないか。それに、井戸が繋がったとしても元いた世界に戻れる保証だってないのだ。出たところが別の時代である可能性だってある。
だが、そうした負の可能性があるなどという考えは猿公の頭の中に微塵もなかった。頭の中にあるのは、次の新月に必ず還れる。そして、これで一ヶ月の休みを退屈せずに過ごせるだろうという、じつに脳天気なものであった。まあSF好きの頭の中なんてその程度のものなのである。
「猿公どのはどこから来られたのか」今度は由龍が質問した。
「はあ、わたしは未来から来ました。未来、わかりますか。ずっと先の、ええっと」言いながら頭の中で計算する。確か関ヶ原の戦いがちょうど一六〇〇年で、大坂の陣ゆうたらその何年後や。まあ一六〇〇年代の初めのころやわな。ってことは、「四百年ぐらい先の時代から来ました」
「おおっ。四百年も」
一同から驚きの声が挙がった。
「それだけ絶つと今とは様相もずいぶん変わっておるんじゃろな。ええっと」今度は由龍が計算する番だ。「今から四百年前と言えば頼朝公が鎌倉幕府を開いたころになるんかのお」
イイクニ作ろう鎌倉幕府。猿公の頭の中に「1192」という数字が閃いた。
「鎌倉のころと今とではどれぐらい変わってるんでしょうな」と正三郎が由龍に尋ねた。
「さあ、わからんわ。わしはその頃まだ生まれておらんからの」
その答えに家臣たちは笑った。猿公も一緒になって笑った。笑いながら、うまい返しやんか、と感心した。
「あのう」と朝彦が恐る恐る口を挟んだ。
「なんじゃ朝彦。猿公どのに訊きたいことがあるのなら訊いてみよ」と由龍。
「そのう。四百年先でも豊臣家は安泰なのでしょうか?」
とたんに一座はシーンと静まりかえった。
猿公はそれに気づかず、「豊臣はんは滅びますわ」とあっさり言ってしまった。
一座の緊張に猿公もようやく気づき、咄嗟に自分の口を両手で塞いでしまった。「あわわわわ」
「そうか。豊臣家は滅ぶのか」しばらくして由龍がトーンを落とした口調で言った。「で、それはいつのことですかな。ずっと先なのか。それとも」
猿公は答えられなかった。あいかわらず口を両手で塞いだまま、目を泳がせている。そんな猿公に由龍は今までにない真剣な表情を見せた。
「この戦、豊臣方の分が悪いことはわかっておる。徳川には勝てんだろう。わしらはそれをわかってこの城へ来た。この城で討ち死にする覚悟はできているのだ。なあ猿公どの。教えてくれんか。豊臣家は近いうちに滅ぶのか」
静かな口調だった。静かなだけに重みを感じた。その重みに猿公の首はガクっと折れた。頷いたのだ。
「それを聞いて安心した」と由龍は一転にこやかな顔に戻った。「これで我らも心おきなく戦える」
「そうじゃ、そうじゃ」と正三郎も相槌を打った。そして一同に向け、「のう、皆の衆」
他の者たちも皆一様に「おう」とか「そうじゃ」とか言って喚声を挙げた。猿公はなんとなくホっとした。
「猿公どの」由龍は満足したような表情で言った。「面白い話をもっと聞かせてはくれんかのお。その落語とやらを」
おお、聞きたいぞ、聞きたいぞ、とあちこちからも声が聞こえた。
猿公はその要望に応え小咄をいくつか聞かせてやった。どれも初歩の初歩、「鳩がなんか落としていったで」「ふーん」程度の他愛もないものばかりであったが、それでも大いに受けた。笑い転げている者までいた。
この物語の最初の方で、猿公の芸が面白くないのは明治生まれの芸人が「古いなあ」とつぶやくほど古くさいからである、という説を紹介したが、明治より三百年前の人たちには充分すぎるぐらい新しかったのであろう。十七世紀の笑いしか知らない者には二十一世紀の笑いは衝撃的と言っていいほど異質なものだったにちがいない。
「わしゃ、こんなに笑ったのは生まれて初めてじゃ」ひとしきり笑ったあと、由龍は言った。「のう、猿公どの。落語というのはこんな短いものばかりなのか?」
「いえ、普段はもっと長い噺をやってます」
「そうか。それじゃ、今度はそれを聞かせてくれないか」
おお、それがいい、それがいい。わしも聞きとうござる。短いのでこんなに可笑しいのだから、長いのになったらもっと可笑しいだろう。笑い死にするのではないか。
一同のそんな声を聞きながら、猿公は悦に入っていた。この人たちは喜んでくれている。わしの話すことを面白がってくれている。おれの言葉で笑ってくれている。おれの噺をもっと聴きたいと言ってくれている。そんな彼らの要望に応えずにおらりょうか。
「それでは一席やらせてもらいます」と猿公が膝を改めたとき、ひとりの男が入ってきた。猿公は知る由もなかったが、それは由成だった。じきに軍議が始まるからと由龍を呼びに来たのである。由龍は渋い顔をしたが、行かないわけにはいかない。
「猿公どの。すまぬが、長い話を聞かせてもらうのは今夜まで待ってもらいたい」と由龍は言った。そして、こう続けた。「それでのお。今夜だけじゃのうて、明日以降も聞かせてもらいたいのじゃが」
ようするに由龍は毎晩落語をやれと言っているのだ。それはつまり猿公にここへ留まれと言うことと同義であり、行き場(というか還り場だが)を失った猿公にとって、これからしばらくの衣食住を保証されるということでもあった。断る理由はどこにもない。
というわけで、今夜から毎日、時間を決めて落語をやらねばならぬことになった。期間は次の新月の日までである。年嵩の家臣のひとりが冊子を手繰り(それは暦であったらしい)、次の新月は四月一日だと告げた。
先に岡神家の連中は暇だということを述べたが、それでも全員が全員、朝から晩まで暇というわけでなく、ことに日中は皆それなりに動き回っていた。夜は交代で物見や城中警護に当たる者が僅かにいたが、ほとんどの者は陣屋に詰めていた。そのため、猿公の落語会は夕食後一刻ほど経ったころに開かれることとなった。現在の時間で午後七時ぐらいと思っていただきたい。なによりその時間なら由龍も参加できる公算が大きかった。

由龍との謁見後にまた二階の部屋へ戻された猿公はショルダーバッグからスマホを取り出し電源を入れてみた。電池の残量を示すインジケーターは真っ赤になっている。つまり間もなく電池が無くなるということだ。もうじきにこのスマホは使えなくなる。まあ電話を掛けたところで誰かに繋がるはずもないので電池の残量など関係ないのだが。そう思って猿公はひとり苦笑した。
それからスマホをじっと見た。すると新しい着信があったという通知があることに気づいたので見てみると、七月二十七日の午前一時過ぎに猿松からの着信履歴が残っていた。時間的にちょうど大阪城公園を走りまわっていた頃で、電話が掛かってきていたことに気づかなかったらしい。
猿公はまた苦笑して、なんの気なしにその猿松の番号をタップしてみた。プルルルルと呼び出し音。繋がるはずがないと思っていたら、「はい、もしもし。おお、猿公か」と、ひどい雑音に混じって猿松の声が聞こえたので、驚いて思わずスマホを耳から離した。
「おい、猿公、聞いてるんか。なんや、えらいガーガーいうてるな。あ、いやいや、昨日やっぱりもうちょっと一緒に呑みたかったんでな、呼び戻そ思て電話したんや。ほんなら、お前、掛けたとたん後ろから嫁はんに頭パーンてはたかれてな。あんたっ、今夜はもう充分呑んだやろ。はよ帰って風呂入って屁ぇこいて寝なはれっ。おい、聞いてるんか」
「あ、はいはい、聞いてます」
「そやからな、たいした用やなかったんや。すまんな。ああ、今な、嫁はんに言われて洗濯物とりこんでるとこでな。手ぇ止まってるゆうて嫁はん、こっち睨んでるわ。そやから切るぞ。ほなな」ガチャ、ツーツーツー。
猿公はスマホを見つめて唖然としていた。なにがどうなっているのかまったくわからないのだが、十七世紀から二十一世紀に電話が掛けられたことは事実だった。どうなってるんや。ドコモはこんなとこにもアンテナ立ててるんか?
猿公は試しにツイッターを開き、「四百年前へ旅してます。探さないでください」とツイートしてみた。少し時間はかかったがちゃんと投稿されたようだった。そして、それを最後に電池の残量はゼロになった。
さっぱりわけがわからない。だがまあ、タイムスリップというとんでもないことの渦中にいるのだ。なにが起きても不思議ではないだろうと納得した。やはり脳天気な男だった。
猿公はスマホをバッグに放り込み、代わりにスケジュール帳を引っぱり出した。七月二十六日の欄に「夜・繁昌亭・正摂師匠」と書いてあり、七月はそのあと何も書かれていない。八月はずっと空白が続いていて、二十八日になってやっと「昼・ラジオ、夜・住吉・石野」とある。昼にラジオに出て、夜に住吉で石野澄男が世話役の落語会に呼ばれているという意味である。
猿公は七月二十六日の空いているところに二色ボールペンの赤色の方で「三月一日・新月」と書き加えた。それから「二、三、四」と数えて二十九番目の欄にこれも赤字で「四月一日・新月」と記した。それは元の世界の八月二十四日に相当した。どうやら仕事に穴を開けることはなさそうなので、ちょっとホっとした。
それから、今夜からのことを考えた。なにしろ二十八日間ぶっつづけで落語をせねばならないのである。これまでの十二年間のキャリアで、これだけの期間に連日高座に上がったことなどもちろん無かった。せっかくの機会なのでできれば毎日違う噺をやってみたいと思った。
猿公は、スケジュール帳についているメモ欄に、これまでやったことのある噺を思いつくままに書いていった。全部で五十ほどあった。次にそれをひとつずつチェックしていく。まず、一度か二度しかやったことがない噺は線を引いて消した。細部まで覚えていて今すぐ完璧にやれるものには演題の前に◎を付けた。思いだしつつ練習すればなんとかなるだろうというものには○。不完全でも最後まで騙し騙しやりおおせるかもしれないものは△。数えてみると、◎が八。○が三。△が七。合わせて十八。ぜんぜん足らんがな。あと十本、なんとかせねばならない。ああ、せめて落語のネタ本でもあればなあ。
噺の中には今この時代にやっても意味が通じないと思われるものも多い。というか、ほとんどがそうなのである。それもそのはずで、先にも述べたように、落語は元禄の頃に成立した芸なのだ。古典落語といっても、一六一五年から見ると百年ほど未来にようやくその取っ掛かりが生まれる芸能なのである。まあ、それはあまり考えないことにした。二十一世紀でも未来を舞台にした新作落語をやる者だっているではないか。
その日の夜まであれこれ考え、そして出た結論が「出たとこ勝負」と「まあなんとかなるやろ」というものだった。どこまでも脳天気であった。

夜になり、朝の謁見のときに由龍が座っていた大広間のいちばん奥に畳を五枚ほど重ねて高座に見立てた。やったのは『延陽伯』だった。もちろん◎ランクの一本であり、昨日、天満天神繁昌亭の夜席で掛けたばかりの噺だったので至極スムーズにやれた。聴衆、すなわち岡神家の連中は最初から最後まで大爆笑だった。もちろんこれは初めての経験だった。
翌日以降も◎ランクの、時うどん、軒付け、崇徳院、鷺とり、向こう付け、高津の富、壺算、と並べた。これで◎はすべて使い果たした。この間に○や△を練習してモノにするという計画だったが、正直いってうまくいっていない。しかし、初日同様、大爆笑に次ぐ大爆笑で、猿公も乗りに乗ってやれた。これだけ勢いがあれば少々まずくてもなんとかなるかもしれないと思いはじめていた。いや、絶対なんとかなるで、これは。
そんなことを考えながら寝床を敷いていると、朝彦がお願いしたいことがあるといって猿公の部屋に入ってきた。その願いとは、落語を教えてくれということであった。これまで弟弟子や他門の後輩は言うに及ばず、素人さん相手の落語教室でも教えた経験があったので、「ああ、いいですよ」と猿公は安請け合いした。
ところが、これが明くる日に由龍の耳に入った。由龍はその日の夜、陣屋へ顔を出すなり、自分にも教えろと言った。殿様の願いを断るわけにもいかず承諾すると、他の者も我も我もと言いだし、けっきょく猿公は全員に落語を教えることになった。その日やるはずだった『道具屋』が最初の教材になった。
この日以降、落語会は落語教室に形を変えた。このため毎日違う噺をやるという目論見は崩れたが、これでネタ不足に悩む心配もなくなったのである。


第4章  ギャグ大名

岡神陣屋の二階には猿公が使っているのと同じような間取りの部屋が幾つも並んでいて、そこには岡神家の血縁者や比較的高齢の者が入っていた。残りのほとんどの者は一階の大広間で寝起きしている。一階には大広間の他、風呂、厠、台所と、武器や食料を仕舞っておくための物置がいくつかあった。一階に納めきれない備品の一部は二階の空き部屋に置かれている。
食事は大広間で一堂に会して摂ることになっていた。猿公は客分として最初のうち自分の部屋に膳を運んでもらっていたが、落語教室が始まってからは皆と一緒に大広間で食べるようになっていた。というより、寝るときを除きほとんど大広間にいるようになった。これは夕食後の落語教室の時間以外にも、のべつまくなしに教えを請うものが猿公の部屋へ押しかけ、煩わしくなったためである。大広間のいちばん奥、最初の謁見時に由龍が座っていて、落語会では高座とされていた場所が猿公に与えられたスペースとなっていた。
食事は最初に猿公が食べたのと同じ玄米に大根の炊いたん、味噌汁というのが基本で、ときおり大根が芋に変わったり、焼き魚がつくこともあった。ごはんは食べ放題で若い連中は何杯もおかわりしたが、領地から持ってきた兵糧米はその半分以上を城中の蔵へ納めたのに関わらずまだまだ残っていた。
せっかく大坂の陣真っ只中の大坂城にいるのだから、城中や大坂の町なかも見て歩きたいと猿公は思っていたが、さすがにそれは許されなかった。猿公が他家の者に見られると徳川方の間者(スパイ)に間違われるかもしれないという理由からであった。実際に城中には間者が数多く入り込んでいるといわれている。陣屋から出ることは許されなかったが、それでも猿公にとっては充実しきった日々が続いていた。猿公はそんな日々のあれこれを毎晩寝る前に書きとめていた。夏休みの宿題の日記みたいやな。この時代の和紙に四百年先から持ってきたボールペンで文字を書くのは不思議な感触だった。
三月十日から始まった落語教室は順調に進んでいる。教わる側、つまり生徒が誰も熱心で、教え甲斐があった。皆めきめきと上達していった。これは、彼らが泉州人だということが大きい要因であると猿公は考えていた。泉州固有の訛りはあるものの、上方落語で使う大阪弁とほぼ同じイントネーションの言葉がほとんどで、教えやすく、また習いやすかったのだろう。
なかでも、由龍と朝彦の上達ぶりには目を見張るものがあった。両人とも教えはじめて僅か四日目には『道具屋』をソラで最後まで語れるようになっていた。もちろん、まだまだ細かいところを練っていくことは必要だが、こりゃたいしたもんや、と猿公は感心した。
特に由龍の場合、戦が近づいてきているため日中はほとんど軍議に出ねばならず、陣屋に顔を出せるのは夕食後のほんの一刻ぐらいだというのに、日中でも時間があれば何かと質問をぶつけてきて予習復習も欠かさない朝彦に並ぶトップの成績を挙げていた。これで朝彦並みの時間があればどうなっていることか。初謁見時に垣間見せた笑いに対するセンスの良さはどうやら本物だったようで、それを見抜いたわしの眼力も大したもんやなと猿公はほくそ笑んだ。
落語を教えるだけでなく、息抜きに自分がいた時代の生活様式や自分自身のことなども話したりしたし、逆にこの時代のそういったことを聞いたりもした。とくに、今のような戦時下でなく、平時のときの暮らしぶりを聞くのは楽しかった。それは元の世界へ還ったとき、きっと何かの役に立つだろうと思った。
この頃になると、岡神陣屋に面白い男が現れたという噂は他家にも漏れ伝わっており、覗きに来る者も出はじめていた。

三月十五日。この日の軍議で、冬の陣後に徳川方の策謀で堀が埋められてしまい裸城と化した大坂城ではもはや籠城戦は不可能とみて、野戦での決戦に命運を賭けることが決められた。それに伴い、野戦の経験に乏しく家臣の数も少ない岡神家は野戦には参加せず城中警護に当たるよう指示が下った。
こうして、いよいよ決戦が近づいてきて風雲急を告げる大坂城であったが、岡神陣屋の落語教室はますます盛り上がっていた。他家から覗きに来る者は日増しに多くなり、ついには自分にも落語を教えろと押しかけ生徒になる者も現れだした。
そんな状況のなか、岡神陣屋でも重大な発表が成されていた。それは二日後の三月十七日、久々に落語会を開くというものだった。出演者は猿公、そして由龍と朝彦の三人である。
猿公はふたりを正式に弟子とし、由龍には萩之茶屋猿龍という芸名を与えた。「猿龍」と書いて「エンタツ」と読む。朝彦の芸名は萩之茶屋阿茶公とした。こちらは「アチャコ」と読ませる。「アサヒコ」をもじったのであるが、朝彦には「アチャコはエンタツと対をなす由緒正しい名前である」と重々しい口調で告げた。我が主と対をなす名前とは畏れ多いと朝彦は恐縮したが、たいそう喜んだ。
三月十七日は好天に恵まれた。折りしもこの夜は満月ということもあり、落語会は陣屋の中ではなく野外で行われることとなった。例の井戸の鉄蓋の上を高座にしようというのである。じつはこれ、由龍のアイデアだった。緊張に包まれガチガチに固まっている城内を笑いでほぐし、少しでも戦いやすくしようとの考えであった。由龍はまた、家臣たちにアチコチで噂の種を振りまくよう命じていた。落語教室で鍛えられた面白可笑しい話術がここで役に立った。
由龍の目論見通り、日が暮れ時より城内のアチコチから、なにか面白いことがあるらしいぞと人が集まってきた。その数はどんどん増え、日がどっぷり暮れた頃には天守閣北側の広場は足の踏み場がないぐらいの人が集まっていた。あとから聴いた話では、その中には天守閣内で寝起きしている大将格の武将も混じっていたというし、また、ほんの少数ではあるが女性の姿も見えた。これもやはり天守閣内で暮らす女たちであった。猿公はこの時代にタイムスリップして初めて女を見た。
定刻になり、満月の灯りが天守閣を煌々と照らすなか、いよいよ落語会が始まった。まず高座に上がったのは萩之茶屋阿茶公こと仲井戸朝彦であった。彼は最初のうち、あまりの人の多さに気圧されて声が上ずっていたが、岡神家の同輩から「こりゃ、しっかりせんか、朝彦」とツッコミが入り笑いが起きると気が楽になったのか、グイグイと語りだした。満場の聴衆からは絶え間なく笑い声が挙がりつづけた。
猿公は崩れそうなところをすぐに立ち直った朝彦を流石だと思い、そしてドンピシャのタイミングでツッコミを入れ朝彦の窮地を救った者にも感心した。岡神家には笑いの素質を持った者が揃っているのか。それとも、わしの指導がよかったからか。ぐふふふ。
朝彦は『道具屋』を途中まで語ったところで高座を降り、代わりに萩之茶屋猿龍こと岡神由龍があとを引き継いだ。リレー落語というやつである。高座に上ったのが弱小ながら大名と知った聴衆はドっとどよめいた。その一瞬後には、どよめきは笑いに変わっていた。そしてその笑い声は朝彦の時と同様、最後まで途切れることがなかった。
朝彦の語り口が畳みかけるようにグイグイ攻めるものだとしたら、由龍のそれは引くべきところは引き、押すところは押す、緩急の妙に味があった。朝彦は爆笑タイプ、由龍は名人タイプといったところか。由龍、今はまだ笑わせることに精一杯だが、もう少し修練を積めば、人情噺で「聴かせる」こともできるようなるのではないか。いや、なるはずや。絶対なる。もし由龍がわしの元いた時代に生きていれば上方落語界は言うに及ばず日本中の落語家の頂点に立てるんやないか。それほどの素材だと猿公は思った。そして、この男をあちらの世界に連れて還りたいと心底思った。
満月の下での落語会で猿龍、阿茶公のリレー落語のあと、トリの猿公がやったのは『くっしゃみ講釈』だった。前にも述べたが猿公はこの噺を高座に掛けたことがなかった。だが、この日に落語会を開くことを思いついたときから、これで行こうと決めていた。
最初の落語会の日の朝、猿公がまだ毎日違う噺をしようと考えていたとき「落語のネタ本でもあればなあ」などと思っていたことも前に述べたが、それに類するものがあったのである。それは、そう、ICレコーダーであった。この世界へタイムスリップする直前の落語会で、猿公は兄弟子である猿松の『くっしゃみ講釈』を誤って録音していた。それが役に立ったのだ。猿公の使っているICレコーダーは電池の保ち時間が最大三十時間あり、しかも使わなくても減りつづけるスマホと違い、使わなければなかなか減らないスグレモノだった。
この世界へ来た時点で電池容量は十時間ぐらい残っていて、こっちでの高座も録音していたが、それでもまだ七時間ほど残っていた。猿公はICレコーダーで猿松の『くっしゃみ講釈』を再生し、文字起こしして、それを元に練習したのである。
これを選んだのは噺の中に講釈師が『難波戦記』を語るくだりが出てくるからであった。『難波戦記』では秀頼をはじめ、豊臣方の主だった武将の名前がズラズラっと出てくるので、ここでの客、つまり豊臣方の家臣たちには間違いなく受けるだろう。『くっしゃみ講釈』では、講釈師がこの豊臣方の家臣の名前を読みあげたあとにハックショーンと最初のくしゃみをする。そこから先へ進めないというのが笑いのツボなのであるが、先だっての猿松ヴァージョンではそのあとに徳川方の武将を読みあげる最中にハックショーンを入れていた。こりゃ、こっちの方が受けるわな。猿末兄さん、ええ噺をやってくれたもんや。猿公は兄弟子に感謝した。
月越えの井戸の上に設えた高座に上がった猿公は、目の前を埋めつくす人の群の多さに感動を覚えた。いったい何人ぐらいいるのだろうか。猿公がいちばん多くの客の前で落語をしたのは、小猿師匠の独演会の前座でNHK大阪ホールの舞台に上がったときで、そのときの客数は千五百人ぐらいだった。今夜はそれにはとうてい及ばないだろうが、さして広くない場所にぎゅうぎゅう詰めという状態なので、威圧感は相当にある。
そのうえ、猿公の高座はもちろん大受けであり、朝彦や由龍以上の笑いが絶え間なく続いていることにも感動していた。ひょんなことからこの世界へ来て半月、人を笑わせることにはもう馴れていたつもりだったのに、今宵のは格別だった。
噺が終盤に入り、いよいよ『難波戦記』のくだりになり、「頃は慶長二十年、大坂城中千畳敷御上段の間には内大臣秀頼公、御左側には御母公淀君、介添えとして大野道犬、主馬修理亮数馬、軍師には真田左衛門尉海野幸村、四天王の面々には後藤又兵衛基次、長曽我部宮内少輔秦元親、木村長門守重成、七手組の面々何れも何れもと控えたるところ綺羅星の如し」と豊臣方の武将の名を列挙するところで予想どおり大きな喚声が挙がった。そのあと「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは駿遠三、三ヶ国に於いてさる者ありと知られたる本多平八郎忠勝が一子、老中忠朝とは我がことなりハア、ハア、ハックショーン」と、こちらは予想以上の大爆笑であった。
「コショウが無いんでトンガラシくすべたんや」とオチを付けて高座を降りたとき、猿公の感動はピークに達していた。

この野外落語会の大成功により、岡神陣屋を訪れ落語を習いたいと望む者の数は格段に増えた。猿公ひとりで教えることは不可能になり、そのため朝彦はじめ岡神家の者たちが教師役に回ることとなった。
落語の話題は天守閣内にもアっという間に拡がり、ついに秀頼の耳にも届いた。落語会から四日後の三月二十一日の軍議のあと秀頼は由龍を呼び、落語というものを聴いてみたいと強く望んだ。秀頼の望みはすなわち命令である。じつはこれには秀頼よりも淀殿の意向の方が強かったともいう。野外落語会を見た女たちから当夜の様子を聞かされた淀殿が強く興味を示し、秀頼の口を借りて由龍に命じたというのである。
断るわけにいかず、かといって猿公や朝彦を秀頼の御前に連れて参るには問題が多く、けっきょく由龍は秀頼の前で落語を披露することになった。いうなれば御前落語会である。
由龍は猿公が最初にやった『延陽伯』を特に気に入っていたので、これを自分もやってみたいと思い、猿公に稽古を付けてくれるよう頼んだ。そのため秀頼には五日の猶予をもらった。それにしても日があまりにも無いので猿公は二の足を踏んだが、これがうまくいくと秀頼は落語にますます興味を抱き、猿公にも会いたいと言うに違いない。そうなれば望んでいた天守閣に上がることもできるかもしれないと由龍に説得され、ついに承諾した。
由龍は御前落語会までのあいだ軍議を欠席することを許され、朝から夜まで猿公の特訓を受けることになった。
御前落語会が城内のどこで行われたのかは不明だが、あるいは『難波戦記』で語られた千畳敷御上段の間であったかもしれない。客は秀頼、淀殿の他、『難波戦記』に名を連ねる名将たちも呼ばれた。由龍が岡神陣屋へ行っている間は岡神家の代表として天守閣内に詰めている必要があったため岡神家にあって唯一落語を聴いたことがなかった由成の姿もあった。それに加え、城内の女がほとんど集まっていたという。
由龍は五日間で覚えた『延陽伯』を見事にやり通し、集まった者たちから拍手喝采を受けた。とくに淀殿をはじめとする女たちの受けの良さは異常なほどであった。関ヶ原の件で由龍を嫌っていたはずの淀殿は一転して由龍の大ファンになったようであった。
秀頼は案の定、由龍に落語を教えたという男に興味を持ち、何者なのかと由龍に問うた。由龍は猿公のことを詳しく話した。月越えの井戸と呼ばれる井戸から現れたこと。四百年先の未来から来たこと。落語および落語家のこと。そして最後に、月越えの井戸の噂は二十年近く前に亡き太閤殿下から聞いた話であり、殿下が猿公と自分とを、延いては秀頼殿を結びつけてくれたに違いないと付け加えた。
猿公に落語を習うことによって、もともと達者だった由龍の話術はますます上手になっていた。秀頼はじめその場にいた者たちは由龍の話に引き込まれた。最後の秀吉のくだりでは淀殿など、「殿下、殿下」と譫言のように言いながら涙を流していた。秀頼は黙って聞いていたが、最後にひとこと「会うてみたいの」と呟いた。

それから三日後の三月二十九日、猿公は秀頼に謁見を許された。落語を一席聞かせ、そのあと話を聞きたいという。ただし、その際、自分が最初に訊いたように、豊臣家の行く末について尋ねられるかもしれないが、そのときには本当のこと、すなわち豊臣家が滅ぶということは絶対に言うてくれるな、と由龍から釘をさされた。
筆頭家老の加島正三郎から借りた裃を纏った猿公は由龍に連れられ念願の天守閣へ上がったが、緊張しすぎて何も目に入らなかった。小部屋に通され、由龍からひとりで待つよう言われた。ここへ来るまでどこをどう通ったのかもろくに覚えておらず、ただ階段を何ヶ所も上らされ、えらく高いところまで来たみたいやなあとだけ思っていた。
しばらくすると、前に一度だけ見かけたことのある男が呼びに来た。たしか由龍の弟だったはずだ。名前は由成と言ったか。連れていかれたのは大広間だった。岡神陣屋の大広間の何倍もある。大々広間だ。その大々広間のほぼ中央あたりに由龍が座っていて、猿公はその後ろに由成と並んで座らされた。だだっ広い大々広間にいるのはその三人だけだった。正面のいちばん奥は一段高くなっていて、そこが上座なのだなと猿公は思った。
そのまま随分と待たされた。間が持たなくなった猿公は横の由成の方に顔を向け、小声で「あのお」と話しかけようとした。そのとき前から由龍の「しっ」と言う声が聞こえ、前に顔を向け直すと、女性が十人以上ゾロゾロと出てきて、上座の手前に中央を開けるような形で座った。由龍と由成が深く頭を下げたので、猿公もそれに倣いお辞儀をする。
少しして、「頭を上げよ」と女性の声がした。由龍と由成は顔を上げたようだったが、自分はどうしていいかわからず、そのまま頭を下げていると、横から由成が手を伸ばし、猿公の目の前の畳をトントンと叩いた。頭を上げろという合図だと思い、猿公は顔を上げた。
上座の中央に男が座り、その両側に少し離れて女性が座っているのが見えた。向かって右側の女性は五十歳ぐらいか。左側の女性はまだ若いようだ。
中央の男が黙って手招きし、歳をとった方の女性が「もそっと近う」と言った。先ほど「頭を上げよ」と言ったのと同じ声だった。由龍は座ったまま一歩前進した。すると中央の男、今度は声を出し「いいから、ここへ」と自分のすぐ前を指さした。由龍は立ち上がり、由成に目配せすると静かに歩きだした。由成も立ちあがったので、猿公もすぐに立ちあがった。そして由龍のあとをついて前へ進んだ。
由龍は男が指さした場所へ猿公を座らせ、さっそく始めるように言った。自分は今までとは逆に猿公の背後に由成と並んで座った。
猿公は中央に座る男の顔をようく見た。これが秀頼なのか。ずいぶん大きいように見えた。一段高いところに座っているのでそう見えるのではなく、本当に大男のようである。こちらの世界に来てから出逢った者の中では頭抜けた大きさだった。そのうえ男前である。眉目秀麗という言葉が頭に浮かんだ。この男が秀頼だとすると右の女性は淀殿か。年は食っているが、美人だった。若い頃はもっと美しかったことだろう。左は千姫だろうか。近くで見ると若いというよりまだ子供である。
「ええ、萩之茶屋猿公と申します。このたびは畏れ多くもこのような場にお招きいただき、人を笑わし小金を稼ぐ下賤の身にとって恐悦至極、誠にありがたいことでございます」
そう挨拶してから失礼いたしますと裃を脱ぎ小袖だけになると、『崇徳院』をやった。聴衆のほとんどが女性だったので、猿公は噺をしながら万代池女学院高等学校でやったときのことを思いだしていた。ただ、あのときと違い、みんな笑っている。秀頼もよく笑っていた。背後で聴く由龍と由成は必至で笑いを堪えているようだった。
「猿公とやら」噺が終わったあと秀頼は言った。「直に話を聞きたい」
秀頼が手招きするので猿公はもう少し上座へ近づいた。それを挟むように由龍と由成が座る。
「由龍から聞いた。四百年ほど先の時代から来たというのは本当か」
猿公は肯き、この世界へ来た経緯を語った。そして落語のことも詳しく説明した。
「師匠どのがいた時代のことをもっと聞きたい」
そう問われて、猿公はまず自分の生活のことから話しはじめた。どのようなところに住み、どのようなものを食べ、どのような毎日を送っているか。一年前に女に逃げられたことまで、秀頼にも通じるよう言葉を選びながら話した。それまで岡神家の者たちに何度も語ってきたことで、もう充分練れていることもあって、話しやすかった。
秀頼は猿公の話をよく理解した。理解しづらいときにはすぐに質問を返して不明な部分を打ち消そうとした。由龍と初めて会ったときもそうだったが、かなり頭が良いのだろう。
「秀頼殿。もうそろそろ」と淀殿が口を挟んだ。
もうかれこれ一刻(二時間)以上も経過していて、淀殿はさすがに飽きてきているようであり、千姫にいたっては船を漕ぎはじめていた。猿公も少し喋り疲れてきていた。
「おお、そうか」秀頼は素直に頷いた。「それでは最後にひとつだけ聞かせてもらいたい。四百年先の時代では武家はどうなっている」
まだ武家が支配する時代が続いているのかという質問だった。両脇で聞いていた由龍と由成が一瞬緊張したように感じた。
「天皇様を上に戴き、実際の政はお武家様が中心になって行っています」と猿公は言った。もちろん嘘である。そして、更に嘘を重ねた。「そのお武家様を束ねておられるのは秀頼様のご子孫でございます」
それを聞き秀頼と淀殿は笑みを見せたが、淀殿が満足そうな笑い顔だったのに比べ、秀頼のそれは少し寂しそうに見えた。
「次の新月に還ると言ったのお」秀頼は立ちあがってから、そう言った。「いつだったかな」
「四月一日、明後日でございます」由龍が答えた。
「そうか。それではもう会えんかな」
その答えを聞かずに秀頼たちは立ち去った。
由龍は膝を崩すと、ホっとした表情で由成の方を向いた。由成はやれやれと言うように肩をグルグル回している。彼は秀頼がいる間ひと言も発することがなかったが、えらく肩が凝っているようであった。猿公は大きく息を吐いた。そして由龍に何か言おうとした。が、由龍は黙って首を横に振った。あれでよかったのですよ、師匠。猿公には由龍がそう言っているように思えた。

三月三十日になった。太陽暦では三月は三十一日までだが、このころ使われていた太陰太陽暦の暦法である宣明暦では三月は今日で終わる。明日はいよいよ四月一日。新月の夜であり、猿公が還る日であった。そして、猿公の最後の落語を聴ける日でもあった。
戦に備えての城内整備は急ピッチで進んでおり、その作業に岡神家の者が駆りだされることも格段に増えていた。そのため落語勉強会に顔を出せる者の数は多いときでも半数ぐらいになっていた。ただ、その分、他家から来ている者の数も増えているので、一夜ごとの参加者は減るどころか増え続けていた。
夜の勉強会が終わり、他家の者が全員帰ったあとで酒宴が始まった。明日はもう呑んでいる時間はないので、これが猿公を交えた最後の宴ということになる。作業に出ていた者も戻ってきていて、珍しく由成もいた。
あまり強くない猿公はすぐに酔っ払った。そして酔っ払った勢いで由龍に言った。それは前から言おう言おうと思っていたが、どうしても言えないことだった。あるいは、それを言いたいがために弱い酒をガブガブ呑んで酔っ払ったのかもしれない。
「やっぱり無理でっか?」と猿公は訊いた。
「無理ですわ、師匠」と由龍は答えた。
猿公は由龍たちに「一緒に逃げまひょう」と誘っているのである。つまり、明日の夜、猿公と一緒に月越えの井戸へ飛び込もうというのだ。
「我々はこの大坂城へ死ぬために来たのです」と言って由龍は笑った。「逃げる気なら最初から来てませんわ」
そのあとを弟の由成が引き継いだ。
「朝彦があの井戸から別の世界へ行って、お主を連れ帰ったと聞いたときにな、わしも逃げられると考えた。確かにあの井戸があれば逃げることは容易いだろう。その代わり、わしらは一生、やれ裏切り者よ、やれ卑怯者よと後ろ指さされて生きねばならんのじゃ。四百年も先の時代に行けば指さす者も居るまいと思うかもしれんが、それが居るのじゃ。我らがみんなその者なんじゃ。兄はわしに指を指し、わしは、そう、朝彦に指さすじゃろう。朝彦もまた別の物に指をさす。指さす者が周りに居らんかったら、自分で自分に指をさす。わしらの心に逃げたという気持ちが残っている限り、それは続くのじゃ。そうまでして生きてゆける勇気はわしには無い。それはな、ここにいる全員の思いじゃ。なんの因果か武家に生まれてきたからには無粋な真似はできん。たとえわしらのような戦もろくにできん小家の者でもな」
由成は途中から涙声になっていた。そこかしこからもすすり泣きが聞こえていた。
「お侍いうのも難しいもんでんなあ」と猿公も涙を堪えて言った。「どうしてもあきまへんか」
「せめて攻めてきた敵と一太刀交えて、手傷ぐらいは負わせんとな」
「はあ、そうしたら逃げられまっか」
「少なくとも後ろ指さされることはないじゃろう。だがな、わしらの任務は外へ出て戦うことじゃなく、この城を守ることなのじゃよ。ここで一太刀交えるということは外へ出た連中が全滅して、敵が城中へ攻め込んでくるということじゃ。そうなったらもう逃げる暇も無かろうて」
その言葉への返事は無く、由成は「ん?」と猿公の顔を覗き込んだ。そして呆れたように言った。
「眠っておられるわ」
猿公は酔いつぶれてしまっていたのだ。由成は由龍の方を見、兄弟は顔を見合わせ、笑った。他の者からも笑い声が漏れた。

「ふぁっくしょーん」
猿公は自分のくしゃみで目を覚まし、その勢いで上半身が跳ね起きた。
「おお。目を覚ましよったぞ」
そんな声がしたので顔を向けると、由龍がこっちを見て笑っていた。
「夕べはけっこう呑まれてましたな」
そう言われて、頭が少し重いことに気づいた。昨日の酒がまだ残っているようだが、それも朝食を済ますと収まった。
今日、すなわち慶長二十年(一六一五年)四月一日の落語会では由龍、朝彦の他にも十二名の者が落語をすることになっていた。また、今日は秀頼の計らいで岡神家の家臣は全員城内での作業に出なくてもいいというお墨付きを貰っていたので、落語会は昼過ぎから始めることにした。
まず第一部として、初舞台を踏む者たちが一人あるいは二人のリレー形式で八つの噺をやった。その八つとは、道具屋、時うどん、軒付け、崇徳院、鷺とり、向こう付け、高津の富、壺算、だった。いずれも猿公がこの世界に来た最初の頃にやった噺ばかりだった。
昼のことだし、最初の頃のようにこの大広間での開催なので、野外でやったときほどの聴衆は集まらなかったが、それでもあとからあとから人が押しかけ、夕食を挟んで後半が始まった頃には岡神陣屋は満杯になっていた。
第二部では朝彦が『くっしゃみ講釈』、由龍が『延陽伯』をやった。猿公の最後の噺は新作落語だった。それも作ったばかりの噺だった。
「暑い夏の夜のことでございます。わたくしども同様というぼんやりした男、なにやらブツブツつぶやきながら大阪城公園を歩いております」
それは猿公が体験した、いや今まさに体験している、三十日間の出来事を落語に仕立てたものであった。岡神家の者たちは笑いながら、感慨深い思いで猿公の噺を聴いた。
「最後の落語が終わり、いよいよこの男、月越えの井戸に飛び込みます。井戸の縁に足をかけて、ひぃ、ふぅ、の三つで、どっぶーん。さて、この男、無事に元いた世界へ還れたんでしょうか。それはこれからのお楽しみちゅうことで。ギャグ大名という馬鹿馬鹿しいお噂でございました」

落語会が終わったあと、猿公は風呂に入った。ここでの最後の風呂である。湯に浸かりながら、ホンマに還れるんやろか、と思った。今の今まで新月の夜に井戸に飛び込みさえすれば必ず還ることができると信じていたのに、今の今になって初めてそう考えた。だがそれが不安感から来るものではなく、岡神家の人たちと別れたくないという思いが生んだものだということに、猿公は気づいていない
風呂から上がるとポロシャツとジーパン、上下の下着、それにスニーカーが用意されていた。この世界へ来たときに着ていたものだ。その横にはショルダーバッグも置かれている。一ヶ月ぶりに二十一世紀の衣服を身につけ、なんだかこそばゆく感じ、猿公は苦笑した。
猿公はショルダーバッグを肩から斜め掛けし、待っていた由龍とともに月越えの井戸へ向かった。井戸の周りには岡神家の家臣が全員集まっていた。鉄蓋は既に外されている。猿公は縁に立ち、中を覗いた。縁からは縄梯子が降ろされている。
「水が湧いてます」と背後から朝彦が言った。
「気持ちは変わりませんか?」猿公は由龍にもういちど尋ねた。
由龍はニコっと笑って首を横に振った。
「ご武運をお祈りしています」猿公もニコっと笑い、そう言った。
「師匠もご無事で」と由龍が返し、他の者たちも口々に「師匠」、「猿公どの」と言う。涙声の者もいた。
猿公は縁を跨ぎ、縄梯子に足をかけた。一段一段、慎重に降りていく。井戸の底に湧いていた水に足をつけた途端、何かに下へ引っ張られるような間隔があった。「ありゃりゃ」と思う間に身体が水の中に引き込まれ、スっと気が遠くなった。


第5章  帰還

「ふぁっくしょーん」
猿公は自分のくしゃみで目を覚まし、その勢いで上半身が跳ね起きた。
あたりを見回すと、すぐ傍らに井戸が見えた。そして、顔を上げると天守閣。この一ヶ月ほど見てきた天守閣とは違っていた。その横に満月が浮かんでいる。ああ、間違いない。ここは大阪城公園や。わしは還ってきたんや。
猿公はショルダーバッグから腕時計を取り出し時間を確認した。午前三時だった。やはり六時間ほどズレている。立ち上がり、井戸の縁に立って中を覗いてみたが、暗くてよく見えなかった。今日は何日なんやろ。ちゃんと八月二十四日に戻れたんやろか。あ、もう零時まわってるから二十五日か。
あたりを見回すと、遠くにゴミ箱が見えた。そこまで歩き中を見ると、空き缶などに混じってスポーツ新聞が捨てられているのを見つけたので引っぱり出した。「猛虎打線、今日も沈黙」、「泥沼8連敗」という大きな見出しに思わず舌打ちする。いやいや、こんなん見るために拾たんちゃうがな。日付を見たかったのだ。八月二十四日。昨日の朝刊なら問題ないのだが、それを確認する手だてはここにはなかった。ま、ええか。アパートに戻ればわかるこっちゃし。
だが猿公の足はアパートではなく、また井戸の方へ向かった。もしかすると、考えを変えた由龍たちが井戸から出てくるかもしれないと思ったからである。しばらく様子を見てみるつもりだった。井戸の傍らに転がっている鉄蓋の上に腰を降ろし、ICレコーダーを取り出した。電池はまだ一時間分ぐらい残っている。
イヤホンを耳に差し、今夜の由龍と朝彦の噺を聞いた。両名とも満月の日より格段に上達していた。これを落語家仲間に聴かせ、「四百年前のわたしの弟子ですねん」と言ったら、みんななんと言うだろうか。猿公はひとりほくそ笑んだ。
由龍の『延陽伯』が終わり、自分の噺が始まったころ、地面が揺れた。地震かと思ったが、そうではなかった。揺れているのは地面ではなく、座っていた鉄蓋だった。
「うわ。なんや、なんや」
猿公は飛び上がった。鉄蓋を見ると、ガタガタ震えている。そして、スっと浮き上がった。
「うわ。なんや、なんや」
鉄蓋は一メートルぐらいの高さまで浮いたかと思うと、横に動き、井戸の上に被さった。
猿公は口をポカンと開けてそれを見ていたが、すぐに気を取り直し、井戸に近づいた。蓋に手を掛け開けようとしたがビクともしない。どうなってるんや。さっぱりわけがわからなかった。

その場に十分ぐらい立ちすくんでいたが、なにも起こりそうにないので、帰ることにした。アパートへは井戸のある本丸からだと西の丸庭園を突っ切るのが近道なのだが、深夜は入れないので、天守閣の脇を抜けて極楽橋の方へ向かう。途中で「秀頼・淀殿ら自刃の地」の碑の横を通り、複雑な気分になった。彼らに会ったのはつい一昨日のことなのだ。猿公は眉目秀麗な秀頼の顔を思い浮かべた。
極楽橋を渡り、西へ向きを変え、京橋口から大阪城公園を出る。ここまで来たらもうアパートは目と鼻の先だった。コンビニで食べ物とビールと買って、ついでにレジの兄ちゃんに「今日は八月の何日やったっけ?」と訊くと、二十五日という答えが返ってきた。やはり計算どおりに還ることができたのだった。アパートに辿り着いたのは午前五時前、もうそろそろ夜が明けるころだ。
一ヶ月ぶりの我が家であった。アパートの入り口にある集合ポストはパンパンに詰まっていたが、広告物だらけで、それらは全部ゴミ箱へ放り込んだ。「ああ、やっぱり家が一番や」とおばちゃんみたいなことを言いながら部屋に入り、スマホを充電器と繋ぎ、扇風機とパソコンの電源を入れる。ジーパンを脱ぎ、下半身はトランクス一丁になって万年床に腰を降ろす。パソコンが起動したのでツイッターを開くと、あちらの世界から送った「四百年前へ旅してます。探さないでください」というツイートはちゃんと投稿されていて、「なに寝ぼけたこと書いてるねん」とか「酔うてるんか」とかいう芸人仲間からのコメントが付けられていた。メールやLINEは山のように届いていたが、コンビニで買ったえび満月を肴にビールを呑むとすぐに眠くなり(なにしろ一ヶ月ぶりのビールなのだ)、ろくに目を通さないうちに眠ってしまっていた。
眼が醒めたときにはもう昼を過ぎていた。スマホの充電が終わっていたので確認すると、着信履歴がこれも山のように入っている。留守番電話に繋ぐと伝言が十件あまり残されており、ほとんどは猿公の身の心配を案じるもので、あとは仕事の打ち合わせのことだった。そのすべてに電話を返し、メールやLINEをチェックして返信するのに夕方までかかった。
それから、一昨日は酔っ払って眠ってしまい、昨日は時間がなくて書けなかった日記の残りを書いてから、スナックに預けておいたキャリーバッグを取りに緑橋まで出かけた。
「いや、猿公ちゃん。あんた今までどこ行ってたん」スナックのママである猿松の嫁は目を丸くして言った。「ぜんぜん連絡つけへんって、うちのん心配してたんよ」
「へえ。ちょっと旅に出とりまして」
姐さんが「おなか空いてない?」と訊くので焼きそばを作ってもらった。昨夜こっちへ還ってきてからえび満月しか食べておらず、姐さんに訊かれなくても注文するつもりだった。玄米と大根と芋と焼き魚以外の食事は久しぶりだった。そうでなくても姐さんの作るこの焼きそばは美味いのだ。焼き上がる直前に玉子を落としてグチャグチャっと掻き混ぜるのだが、この玉子の麺への辛み具合が絶妙なのである。ビールにもよく合う。
焼きそばを食べ終わったころ猿松が顔を出した。猿公が来ているからと姐さんが呼んだらしい。猿松にもどこへ行っていたのか尋ねられたが、本当のことを言ってもどうせ信じてもらえないだろうと思い、適当にごまかした。猿松は久しぶりに猿公と呑めるのが嬉しいらしく、その日は遅くまで付きあわされた。途中で他の芸人仲間も何人か呑みにきて、賑やかな夜になった。

翌日、猿公は朝から大阪城へ出かけた。休みはまだ二日間残っているので、この間に岡神家のことを調べようと思ったのである。とくに由龍の死に関する情報を知りたかった。あの井戸は鉄蓋で塞がれたままだったので、天守閣へ上った。大阪に限らずこのような観光施設に地元民はあまり訪れないというが、猿公も天守閣に入るのは中学校の社会見学以来だった。一階から八階までくまなく見てまわったが、岡神家に関する情報は何ひとつ得られなかった。
次に中之島の図書館へ行ってみた。岡神家のことが載っている書籍は何冊かあったが、そのいずれも由龍の死について「大坂夏の陣で死亡したと伝えられる」と記されているだけだった。いつごろ、どのようにして亡くなったのか書かれているものは無かった。アパートに戻ってインターネットで検索しても、図書館で調べた以上のことはわからなかった。早くも手詰まりだ。
休みの残り一日はあちらの世界で作った新作落語『ギャグ大名』の手直しと練習に費やした。休み明け最初の落語会で掛けてみるつもりなのだ。
八月二十八日の土曜日。浪速ラジオの『土曜はデックデック』、五週間ぶりの放送日だった。毎年、夏休み明けの放送は、まず三十分ぐらいかけてデック鶴見橋がどのように休みを過ごしたかを語るのが恒例になっていた。二十日間に渡るヨーロッパ旅行の話を面白可笑しく語ったあと、デックは「で、きみは夏休み何してたんや」と猿公に話を振った。
「四百年前の大坂城へ行ってましてん」と猿公は正直に答えた。大阪城公園で甲冑の男を追いかけて夏の陣直前の大坂城へタイムスリップして彼の地で人気者になって大名を弟子にして秀頼の前でも落語をして。
その猿公の語り口調がこれまでと違うことにデックは驚いていた。あいかわらず古くさいのだが、なにか自信のようなものを感じる。まったく面白くないということもなく、途中からは突っ込むことも忘れて聞き入ってしまった。そして、最後に「とまあ、こんな落語を作ってましてん」と落としたときには、「落語の話かい」とツッコミを入れながらも笑ってしまった。こいつ、化けよったな、とデックは思った。芸人が急に上達したり面白くなったり売れたりすることを「化ける」というが、今日の猿公にそれを感じたのだ。
猿公の変化に気づいたのはデックだけではない。ラジオのスタッフやリスナーの多くもそれに気づいた。そして、その夜の落語会に脚を運んだ客たちもそうであった。
この落語会は住吉大社近くの居酒屋で偶数月に行われていて、「奇人変人名人寄席」といった。世話人を務める石野澄男が、奇人・変人・名人と勝手に任命した芸人をひとりずつ選ぶ、その名の通りの落語会である。居酒屋での開催とはいえ、お囃子さんや鳴り物の若手も揃える本格的な会で毎回大入りになる。猿公は奇人枠で二回に一度は出演する準レギュラーのような存在だった。
「お疲れさん」トップで出た猿公が舞台を降りてくるなり石野は声を掛けた。「めっちゃ良かったわ」
石野はもっと言いたいこと、訊きたいことがあったが、すぐに二番手の変人枠、物真似師の南家二照が高座に上がったので、そのときはそれ以上話ができなかった。仲入りを挟みトリの名人枠、大御所の草月八十八師匠の高座も終わり、終演後はそのまま打ち上げ。その席でようやく石野は猿公とゆっくり話すことができた。
「一ヶ月ほど姿をくらませとったみたいやけど、その間にあんなもん作ってたんやな」と石野は関した口調で言った。あんなもんとは猿公が今夜やった『ギャグ大名』のことである。
「へえ、まあ、そんなとこで」
「どこからあんな話思いついたんや?」
「じつはアレ、全部ホンマのことなんですわ」
猿公は石野になら本当のことを話してもいいと考えていた。石野なら信じてくれる。きっと、たぶん、おそらく。しかし、
「そらな、ぼくもSFは好きやで。スペースオペラ落語作って顰蹙買うたこともあるぐらいや。そやかと言うて、そんな話、真に受けるほどのアホともちゃうで」
石野は信じなかった。まあ当然といえば当然である。それでも猿公は諦めなかった。猿公はあっちの世界で書いていた日記のコピーと、由龍や朝彦の落語を録音していたものをUSBメディアにコピーしたものを石野に渡した。読んでくれ、聴いてくれ、そしたらわかる。きっと、たぶん、おそらく。その猿公の冗談ッ気がまったく感じられない真剣な表情に石野も断れきれず、それを受け取った。

二週間ほどして石野から電話で「例の件で会いたいんやが」と連絡があった。石野が指定した日時に千日前のお好み焼き屋へ行くと個室に通された。そこで石野は大柄な男とビールを呑んでいた。石野の連れは猿公も何度か会ったことがあるSF作家の村名青菜だった。
「あの日記、村名さんにも読んでもろたんや」黙って村名に日記を渡したことを石野は詫びた。
いえいえ、と猿公は首を振った。村名は五十代半ば、作家になって三十年になる。本が売れない昨今にあってヒット作を連発している人気作家であった。作風もハードSFからコメディ風味の下世話なものまで幅広い。その村名に見せたということは石野が信じてくれたからだと猿公は思った。
「猿公くん、おもろかったで」と村名は大きな声で言った。身体も大きいが地声も大きい男なのである。「そやけどな、あの話にはひとつ足らんもんがあるな。それはな、ロマンスや。ほら、女ッ気がほとんど無いやろ。ここはひとつやな、殿さんの妹かなんか出してやな、主人公に惚れさすねん。妹はな、田舎大名とはいえ高貴な出のお方や。最初はツッケンドンやねんけど、だんだん、こう、心が開いていってな。ついには相思相愛や。それで最後はふたり手に手を取り合って現代へ還ってくるねん。井戸の別れもな、兄と妹の別れちゅーことで、涙なみだや。感動的になるで」
「村名さんはな、あれを小説にしたい言うてるんや」石野が横から言った。
「もちろん、そんときにはな、原案・萩之茶屋猿公て入れさせてもらうで。ギャラもちゃんと払うがな。気になるんやったら、きみとぼくの共著ってことにしてもええし。あっ、あとそれでやな。大坂の陣ゆうたら、やっぱり真田も出さんとアカンやろ。真田幸村や。幸村がな、主人公の落語を聴いてある作戦を思いつくんやな。どんな作戦かちゅーと、徳川軍に向かって落語をさすねん。拡声器かなんかでパァーとな。そしたら徳川の連中、笑いころげて戦どころやない。そこを真田の軍勢が襲いかかるちゅーわけや。それでな、主人公の名前、猿公やわな。これがのちに猿飛佐助のモデルになったと。えっ、石野くん、なに? 相手を笑わせておいて攻め込む作戦、モンティパイソンであったって? パクリ思われまっせって? ああ、そうか。そらアカンな、わはははは。おっ、お好み来たがな。豚モダンこっちこっち。猿公くん、きみも食べいや」
お好み焼きが運ばれてきて、村名はようやく喋るのをやめた。よう喋る人やなあ、と猿公は呆気にとられていた。
「小説のことはまたあとでゆっくり打ち合わせしてください」と石野は村名に言い、そして猿公の方に向き直った。「じつはな、この前、貝塚へ行ってきたんや」
石野は猿公の日記を読み録音を聴き、これは本当のことかもしれないと思いだし、岡神家のことを調べてみようと図書館で資料を漁り、インターネットでもあれこれ検索したのだが、詳しいことはわからなかった。ここまでは猿公と同じである。岡神家の領地だった貝塚へ行くと何かわかるかもしれないということも猿公は考えていた。しかし、一ヶ月休んだ分を取り戻そうとここ二週間、仕事を目一杯入れていたため、その時間がとれなかった。
石野は堺に住んでいるので、貝塚へは南海電車で二十分もあれば行ける。なので、仕事がオフの日に行ってみたという。貝塚の市立図書館の郷土史コーナーで『岡神家史』という昭和四年に発行された本を見つけたが、由龍の祖父である由為と父の起龍についてはかなり詳しく書かれていたものの、肝心の由龍に関する記述はほとんど無く、死亡時のことも「大坂夏の陣で秀頼の自刃を見届け、大坂城が炎上落城した後もよく戦ったが、腹心の部下たちと討ち死にしたと伝えられる」と中之島やネットで調べたのと大差なかった。
「ただな、岡神家の連中は全員死んだわけじゃなく、生き延びた者もおったちゅうことはわかったわ」
その中には由龍の弟の由成の名前もあった。由成は徳川軍に捕らえられたが、夏の陣後、貝塚へ戻ることを許されている。だが、大名としての岡神家の再興は叶わず、由成は浪人として余生を送った。夏の陣の翌年に生まれた由成の子の由重は、寛永十七年(一六四〇年)に岸和田へ入封した岡部宣勝に仕え、以後、岡神家は岸和田藩士として江戸時代を生きぬき、明治維新以降は貝塚で飲食店を経営しているという。『岡神家史』は由成から数えて十五代目に当たる子孫が、かつての岡神家の家臣の子孫を集めて作った親睦団体によって編纂されたという。
そうか、由成はんは助かりはったんや。由成とは数えるほどしか会ったことがなく、ちゃんと話せたのも帰還する前日の一度きりだったが、兄の由龍とは違うその質実剛健な男の顔を猿公は懐かしく思い浮かべた。
「それでな、それ以上ぼくには調べようがないんで、村名さんに話を振ったんや。そしたらな、さすが博覧強記の村名さんや。ぼくの話ひととおり聞いただけで、この本、スっと出してきはってん。」
石野は背後に置いてあった鞄から一冊の書物を取り出し猿公に差し出した。和綴じの本で表紙に書かれている文字は『仙州怪塚秘録』と読めた。
「付箋貼ってるやろ。そこに気になることが書いたある」
猿公は付箋が貼られた項を開いた。そこには、由龍が月越えの井戸を通じて未知の世界と行き来していたということが書かれていて、その横には甲冑姿の武士が井戸の縁に足を掛けている絵が描かれていた。猿公は目を丸くしてその文と絵を凝視した。
「猿公くん。きみ、まさかこの本のこと知ってたんちゃうやろな」と村名が訊いたので、猿公は首を振った。
「そうやろな」と村名は頷いた。
『仙州怪塚秘録』は江戸時代後期、文化文政のころの国学者である室井恭蘭が著した、泉州貝塚地方に伝わる伝説を収集したものであるという。村名によると研究家でもこんな本を持っている者は少なく、「作家ではぼくぐらいやろな」というぐらい珍しいものであるらしい。「まあ荒俣宏さんや京極夏彦くんは持ってるかもしれんが、彼らは半分研究家みたいなもんやからな」。ましてや一介の落語家が読んでいるとは思えず、これにしか書かれていないことを猿公が知っているということは、こりゃひょっとしてひょっとするんちゃうか。いや、絶対ひょっとするで。
「ところで猿公くん。きみ、九月二十三日の夜は空いてるか?」と、鼻息を荒くしている村名を後目に石野が訊いた。
「へえ。もちろん空けてます」
その日は次の満月の日だ。石野が訊くまでもなく猿公はその夜のスケジュールを空けておいた。
「ぼくも村名さんと一緒に行くつもりや」と石野は言った。
九月二十三日はあちらの世界では慶長二十年四月三十日になる。つまり、あちらの世界では新月の夜ということになり、その次の新月は六月一日。大坂城の天守閣が炎上し落城するのが五月七日なので、由龍たちがもし井戸を使って逃げだすとすればその日しかないことになる。ちなみに、こうした情報はすべてインターネットで調べたという。ネット上には、任意の日の月相を調べることができるサイトや、太陽暦の日付を太陰暦の日付に変換できるサイトなど、便利なサイトがあるのである。
「ところで村名先生」と今度は猿公が訊いた。「こっちの世界とあっちの世界、日にちや時間がズレてるのはなんででっしゃろ?」
「ん、だいたい五ヶ月、いや旧暦を新暦に直して四ヶ月か。それと時間が六時間ぐらいズレてるんやったな。そりゃあ、きみ。一日を二十四時間、一年を三六五日ちゅう小さいスパンで考えるからズレてるように思えるんや。もっとこうな、宇宙的なスケールで考えると、一六一五年四月三十日の午前零時が今年の九月二十三日の午前六時に一致するんやろな」
さっぱりわからなかったが、それ以上つっこんだ答えを聞いても大差ないだろうと思い、「はあ」と頷いた。
「そしたら、あっちからこっちへ電話が通じたのは?」ともうひとつ質問。
「それはやな、蓋が閉まっとっても電波はイケイケなんやろな。電波が伝播する、なんちゃって」村名はウシシと笑った。
やっぱりさっぱりだったが、これにも猿公、「はあ」と頷いた。
「ほんなら次は九月二十三日に集まるってことで」お好み焼きも食べ終えたので、石野はそう言って立ちあがろうとした。
「もうちょっと待ちぃな」と村名は言った。「じきにミックス焼きそばが来るさかい」

九月二十三日の夕方、猿公、村名、石野の三人は森ノ宮のお好み焼き屋に集まり(村名が大のお好み焼き好きなのである)、日が暮れた頃に大阪城公園本丸の件の井戸の前まで歩いていった。鉄蓋は閉まっていた。
「この蓋が勝手に開くんか?」と村名が猿公に訊いた。
「へえ。勝手に閉まったんで、開くのも同じ要領やと思います」
猿公が持ってきたビニールシートを地面に敷き、三人は座った。長丁場になるかもしれないのでビールや食べ物も用意しておいた。空には煌々とした満月が浮かんでいる。
「ところで猿公くん、評判ええがな、最近」と石野が言った。
猿公はこちらへ還ってから十度ほど高座へ上がっていたが、石野の言うようにどれも評判は良かった。デック鶴見橋が最初に思ったように芸に自信が漲っている。なにより笑いを取れるようになっていた。これも四百年前の世界での修行の賜物なのだろう。村名は『仙州怪塚秘録』の挿話との一致から猿公がタイムスリップしたことを本当かもしれないと思っていたが、石野は猿公の変わり様からそれを信じようとしていた。
一時間が経ちどっぷり日が暮れても井戸に変化はなかった。
「なんも起きんな」と村名が言った。「こうして井戸をじっと見てるのは退屈やなあ。サックスでも持ってきたらよかったなあ」
村名は最近サックスを始めたのだが、家で吹くと嫁が近所迷惑だと怒るので、いつも近くの公園や河川敷などで練習しているらしい。それでも何度か、喧しいからやめるよう警官が言いにきたという。
「昨日の夜も公園で練習しとったらポリさんが近寄ってきたんでな、最近覚えた『太陽にほえろ』のテーマ吹いたったら敬礼して向こう行きよったわ」
村名はワハハと笑ったが、石野も猿公も眉唾だと思った。
更に一時間経った。井戸に変化はないが、人がひとり増えた。それは近所に住む村名ファンのSFマニアだった。彼はなんと炬燵を背負い片手には麻雀牌を持っていた。あまりにも退屈なので村名が電話で呼び出したのである。呼ぶ方も呼ぶ方だが、来る方も来る方だ。石野も猿公も呆れ果てたが、暇を潰せるのはありがたかった。彼らは街灯の下で麻雀を打った。井戸からは少し離れているが、何かことが起きれば充分わかるぐらいの距離である。
「こんなとこで麻雀やって警官が来ませんかねえ」石野が心配そうに言うと、
「そんときはみんなで『部長刑事』の主題歌でも唄うたら敬礼してくれるんちゃうか」と村名はまたワハハと笑った。
「『部長刑事』に主題歌なんかないでしょ。あれ、オープニングはシュスターコヴィッチの交響曲でしたやん」
「いやいや。終盤のな、原哲男がレギュラーやったころに主題歌があった時期もあったんや。岩崎宏美とかが唄ってた」
「ああ、サブタイトルに『アーバンポリス』って付いてたときでっか。そやけど先生、主題歌、唄えますのん?」
ようそんなアホな話で盛り上がるなあ、と猿公はまた呆れた。もうひとつ呆れることがあった。夏の暑さがまだ残っているとはいえ、夜中になると流石に冷える。村名はまた別のファンに電話を掛け、今度は牛丼と日本酒の熱燗パックを買ってこさせた。村名のどんな無理難題にも応えなアカンて、SFファンは大変やなあ。まあ、好きな作家のお役に立てて嬉しいのがファン心理なんやろけど。
けっきょく夜が明けるまで井戸の蓋は微動だにせず、大阪城公園に徹夜麻雀をしに来たようなものだった。夜が完全に明けて最後の半荘を終えたあと、猿公は肩をがっくり落としていた。
「猿公くん、そんな落ち込まんでもええがな。勝負は時の運や」と村名は言った。
いやいや、麻雀に負けたことで落ち込んでいるわけではない。鉄蓋が開かず、井戸から誰も出てこなかったことに落ち込んでいるのだ。猿公は青空を見あげた。まだ月がうっすら見えている。岡神家の連中はやっぱり大坂城と運命を共にしたのか。燃えさかる天守閣を背景に、バッタバッタと倒れてゆく由龍や朝彦の姿を想像して、猿公の眼から涙がこぼれ落ちた。


第6章  その後

その日から約一ヶ月。猿公は前の満月の夜以来、仕事の帰りはなるべく大阪城公園を通ることにし、また朝は体力づくりのジョギングを兼ねて井戸のあたりまで走ることにしていた。しかし井戸にはなんの変化も見られなかった。
一方、落語家としての猿公の評判はますます上がり、それをいちばん喜んでいるのは彼の最古参ファンともいうべき万代池女学院高等学校のOGたちだった。同校ではあの後も文化祭に落語家を招いていたが、今年のゲストは猿公であった。あの時のことを知る教師や理事の中には難色を示す者もいたが、あれからちょうど十年目の記念にと顧問の竹内眞子先生を含むOGたちが働きかけ、実現したのだ。しかし、問題もあった。文化祭への外部の者の入場は在校生の父兄にしか認められておらず、卒業生といえども入れてもらえない。つまり、猿公招致運動の中心にいたOGたちが観にこられないのである。事情を知る教師や理事会の一部からは特例でなんとかならんかとの声が挙がったが、ルールは曲げられないと言いはる者たちの猛反発を招き、けっきょく文化祭は従来どおりの形で、竹内先生とたまたま妹が在学生というほんの数人を除くほとんどのOGが閉めだされることになった。
しかし彼女たちは諦めなかった。それなら自分たちで落語会を開こうではないかと金を出しあい、文化祭の日の夕方から西萩記念ホールを借りた。こうして猿公は十月二十四日、昼は万女の講堂、夜は西萩記念ホール、とダブルヘッダーで高座を務めることになった。夜の部は入場料さえ払えば誰でも観ることができるきちんとした落語会なので、猿公は共演者として後輩を三人とお囃子さんも用意した。
その前日の二十三日は満月だったので猿公はまた夕方から大阪城公園へ行っていたが、あいにく雨で月が出ていなかったことと、翌日のダブルヘッダーのこともあるので、早々に引きあげた。まあそれでも日付が変わるころまでは粘り、翌朝も五時に起きて朝のジョギングがてら井戸の様子を見にいったのであるが鉄蓋が動いた形跡は見つからなかった。
猿公は気を取り直し万女へ向かった。迎えてくれた顧問の竹内先生は初めて会った時まだ大学を出たてのピチピチしたお嬢さんだったが、今では三十路過ぎの色気ある熟女になっている。まあ、わしもあのころは二十歳過ぎのヒヨッコやったのに、今じゃすっかりおっさんやもんな。
時間が来て講堂の舞台へ上がる。客席を埋めつくした五百人の女生徒たちはよく笑った。なにしろ、箸がこけてもキャハハハハ、らっきょが転んでもキャハハハハと、笑うために存在するような十代前半のギャルたちなのだから笑って当たり前なのだが、十年前は笑うどころか泣いたのだ、全員が。
猿公は万雷の拍手を浴びて舞台を降り、西萩記念ホールに向かった。ここは数年前に廃校になった小学校の講堂を半官半民の市民ホールとして再利用したもので、九百人のキャパシティを誇る大箱である。自分が主となる落語会では通常数十人単位、最高でも百人ぐらいが精一杯なので集客に不安はあったが、客席は八割方埋まっていた。主催者の落語研究部OGたちが頑張ってくれたのだろう。昼に文化祭で観て夜の部にも来た女学生やその家族も多いようだった。
「猿公の勝手に文化祭」と名づけられた落語会は定刻どおりに始まった。まず猿松の弟子の猿児が開口一番、『動物園』をやった。次に笹舟亭鬼面が新作落語『血のしたたる坂道』、猿公が『くっしゃみ講釈』をやって仲入りになったところへ石野が顔を出した。彼は最初から客席で観ていたらしい。
「盛況やがな」
「へえ、おかげさんで」
「昼の文化祭も良かったらしいな。他に仕事があって観られへんかったけど、落研の先生が喜んどったわ」
石野が落研顧問の竹内先生に岡惚れしていることを猿公は知っていた。
「『くっしゃみ講釈』、初めて聴かせてもろたけど、ようできてるな」石野は猿公の噺を褒め、そして、「『難波戦記』の武将名を詠みあげるくだりで岡神由龍の名前も入とったな」と言ってニヤリと笑った。
仲入り後、草月三十三の『代書屋』も終わり、いよいよ残すところ猿公の二席目だけとなった。トリネタは『ギャグ大名』である。一席目の『くっしゃみ講釈』も客はよく笑ったが、こっちはそれ以上に受けていた。この二ヶ月の間、猿公が最も多く高座に掛けた噺で、石野はこの噺を聴くのは「奇人変人名人寄席」以来だったが、その時よりかなり練れていると感じた。ただ、ちょうど真ん中あたりで一瞬、言葉に詰まったことを石野は聞き逃さなかった。なにかに気を取られたような感じだった。
終演後、石野はまた楽屋を訪れたが、猿公は居なかった。
「終わるなり飛びだしていきましたで」と後輩落語家のひとりが太鼓を片づけながら言った。
お客さんを見送りに行ったと思い、石野もロビーの方へ向かった。竹内先生、もう帰ったかな。帰りにお茶でも誘えばよかったな。まだ居ったら誘てみよ。だが、ロビーに竹内先生の姿は無く、ホールの外へ出ても見つからなかった。もう帰ってしまったらしく、石野は肩を落とした。猿公の姿も見えないので、石野はもういちど楽屋へ行った。荷物は置いたままで、まだ着替えてもいないので、そのうち戻ってくるだろう。あっ、もしかして竹内先生とこっそり会うてるんちゃうやろな。もしそうやったら、あのガキ。
そんなことを考えているところに猿公が戻ってきたので、石野はつい「どこ行ってたんや」と声を荒らげてしまった。
しかし猿公、その声が耳に入らなかったようで、なにやら呆然としてブツブツ呟いている。
「おい、猿公くん。どうしたんや。幽霊でも見たような顔して」
「あ、石野先生」猿公はようやくそこに石野が居ることに気づいたようで、こう続けた。「幽霊が居ましたんや」
「なんやて?」
「幽霊、かどうかわからんけど、居てましたんや、由龍はんが。岡神の殿さんが」
まあ落ち着けと言って猿公を椅子に座らせた。そして、片づけを終えた若手連中に「きみら、悪いけど、先に打ち上げ会場へ行っといてくれるか」と言った。主催者の万女OGたちが打ち上げ用に近くの居酒屋を抑えていることを聞いていたのだ。「主役はすぐに連れていくさかい」
猿公が言うには、『ギャグ大名』の途中で、客席の後部ドアが開いて何人か入ってきたという。そして、その者たちは甲冑を纏っていたというのだ。客席は暗く、後ろの方はもっと暗かったが、あんな派手な格好、見間違いようがない。
「ああ、途中でなんかに気ィ取られたような感じしたけど、それでかいな」
あれは由龍たちに違いないと猿公は言った。夕べの十二時過ぎから今朝五時までの間にあの井戸から出てきよったんや。
「そやけどな、それがホンマに岡神家の者やったとして、なんでここへ来たんや。なんで今夜ここにきみが居ることわかったねん」
「いや、それは、なんちゅーか、運命の赤い糸に導かれて」
「んなことあるかいな」
とにかく今はその話のこと忘れて打ち上げ行こう、と石野は言った。あんまり待たせると悪いさかい。石野は猿公を着替えさせた。

打ち上げ会場の居酒屋に入ると若手落語家や万女OGたちが既に楽しく騒いでいた。その中に竹内先生の姿もあったので、石野の顔はパっと明るくなった。しかも彼女の横の席は空いている。石野は「なんや、そこしか空いてないんかいな」と空々しく言いながら竹内先生の横に座った。猿公は空けておいてくれたのだろう、いちばん奥に座った。
これで全員揃ったので乾杯ということになり、いちばん年嵩の三味線の籠目屋かごめ姐さんが乾杯の音頭をとった。あとは無礼講である。
「ぼくらが入ってきたとき、えらい盛りあがってたけど、なんかあったんですか?」石野は竹内先生に尋ねた。
「いえね。なんでも大阪に落ち武者が出たとかって」
石野は驚いて竹内先生の顔を見た。猿公も向こうから驚いた顔でこっちを見ている。
猿児が「これですわ」と言って、猿公にタブレットを見せた。石野も立ち上がり、猿公の背後から覗いた。それは「大阪に落ち武者現る! まとめ」というツイッターのまとめサイトだった。
それによると、最初の書き込みは今朝の七時に「大阪城なう。どう見ても落ち武者なんですが(笑)」というもので、写真も添付されていた。写真には確かに甲冑を纏った者どもが写っている。猿公はその写真を凝視したが、かなり遠くから撮ったのか被写体は小さく、顔まではわからない。次の投稿は二時間後の午前九時で、このときにはまだ大阪城にいたようだが、その次は九時半で森ノ宮。さらに十時に玉造で目撃情報があった。そうして時系列で追っていくと、彼らは南へ南へと移動しているようだった。そのうち、夜中の三時ごろに大阪城公園の本丸で見たという後追い情報や、夏に甲冑姿の男が大阪城公園で誰かに追いかけられているのを見たというものもあった。これは朝彦と猿公のことだろう。そのうち、顔がハッキリ写っている写真が出てきて、猿公は「あっ」と声を出した。石野が後ろから「当たりか?」と訊くと、猿公は振り返って「由龍はんや」と答えた。
「えっ、兄さんの知り合いでっか?」と三十三が尋ねる。
「ああ、いやいや。知り合いやのうて、知り合いに似てるっちゅーだけで」猿公に代わって石野が答えた。
彼らを見たというツイートはまだまだ続いたが、時間を経るに従って探しに行ったけど見つからなかったという書き込みも増えてきた。目撃情報に添えられた写真を総合すると、甲冑姿の一団はどうやら七人のようである。最後に目撃されたのはこのすぐ近くで、時間はちょうど猿公たちの落語会が行われているころだった。それで盛りあがっていたのだ。
「もしかしたら、うちらの落語、聴きにきたんかもしれまへんな」と鬼面が言った。
「おいおい、それやったら受付でわかるやろ。鎧の中から財布出したんか?」と石野が苦笑した。
「いえ、それが」と万女OGのひとりがおずおずと言った。なんでも、最後の猿公の高座が始まったとき、もう今から入場する者もいないだろうと、受付の者もホールに入って噺を聴いていたというのだ。
また、客席の後ろの方で観ていた別のOGは、猿公の噺の途中で後ろのドアが開く音がし、何人かが入ってくる気配を感じたという。彼女は高座に集中していたので誰が入ってきたのか確認しなかった。関係者だろうと思ったと付け加えた。
「それが落ち武者やったかもしれんな」と三十三が言い、笑い声がおきた。
みんな笑っていたが、猿公と石野だけは真顔のままだった。

打ち上げもお開きになり、猿公は石野ともう一軒いくからと言い、若手たちにギャラとは別にタクシー代を渡した。彼らは彼らでまたミナミへでも出て呑みなおすだろう。石野は竹内先生を呑みに誘ったが断られたので猿公に付きあうことにしたのである。もちろん、もう一軒いくというのは嘘であり、本当は由龍たちを探そうというのだ。しかし、SNSの目撃情報はあれからあとはプッツリ途絶えていて、どこをどう探せばいいのかわからなかった。とりあえず南へ向いて歩いた。ときどき道行く人やコンビニなど開いてる店で「落ち武者見ませんでした?」と尋ねたが、見たという答えはなかった。
「ところで猿公くん。きみ、昨日の晩、村名さんと会うたか?」国道二十六号線を南へ向かって歩きながら、石野が尋ねた。
「いえ、会うてませんけど」
「そうか。いやな、昨日の晩また村名さんにお好み付きあわされてな。十三に新しいお好み焼き屋できたちゅうて。例の『ギャグ大名』の小説化の話、年明けから連載はじめるらしいわ。それで、きみに会うて契約のこととか話しあわなアカンとか言うとったからな、それやったら今夜は満月やし、また大阪城行ってるんちゃいまっか言うたら、ほな今から一緒に行こかて誘われたんやけど、今日は朝から用事あったんで断ったんや」
「はあ。そしたら村名先生、ひとりで行きはったんでっか」
「きみとは行き違いになったようやな。それにしても、村名さんも暇人やな。いや、連載やらようけ抱えてるから暇なわけないんやけどな」
「村名先生、わしよりあとに大阪城へ行ったんやったら、由龍はんたちと会うてませんかねえ」
そや、いっぺん電話してみよ、と石野はスマホを取り出した。
「もしもし、村名さんでっか。石野です。あれ? 村名さん、村名さん?」
「どないしたんでっか?」
「切れたわ」
石野はもういちど電話を掛けたが、呼び出し音が何度か鳴ったあと、「おかけになった番号は現在電源が入っていないか電波が届かない場所にあります」。石野は「アカンわ」と言ってスマホを切った。
由龍たちが意図的に南へ向かっているのなら、目的地はおそらく貝塚だろうとふたりは予想した。南へ向かっているうちに西萩記念ホールの前を通りかかり、前に貼ってあった今夜の落語会のポスターを見たのではないか。そのポスターには猿公の名前が大きく載っていて、それ以上の大きさで顔写真も印刷されている。それを見た彼らは師匠である猿公の姿を確認しに立ち寄ったのだ。しかし、この時代で自分たちが目立ちすぎることは充分にわかっていたのだろう、下手に声を掛けると師匠に迷惑を掛けることになるやもしれん。そう考え、黙って見にきて黙って立ち去ったのだと猿公は考えた。
二十六号線をこのまま進めばやがて貝塚へ着くが、道は一本ではない。南へ行く道は他にいくらでもあるのだ。ここまで目撃情報が得られないということは別の道を行っている可能性の方が高いだろう。
大和川が見えてきたとき、とうとう石野が音をあげた。明日も午前中から仕事があるのでこれ以上はキツいという。ここはとりあえず仕切り直そうということになり、タクシーを拾って堺市内にある石野のマンションまで行った。翌日の夕方まで仕事がない猿公は石野の部屋に泊めてもらった。
翌朝、猿公は南海電車で貝塚へ向かった。貝塚駅を降り、西の方へ歩く。貝塚は師匠の小猿が定期的に落語会を開いているので何度か来たことがあったが、その会場である市民会館は南海貝塚駅から東側にあり、西側を歩くのは初めてだった。神社があり、かつて貝塚寺内の中心だった大きな寺があり、更に行くと古い町並みが残る細い通りに出た。その一角に旧民家の外観はそのままで内部のみ改造した飲食店があった。看板には「洋食オカガミ」と書かれている。石野から聞いていた由成の子孫が営むという店であった。
四人掛けのテーブルが左右二卓ずつ、計四卓あるだけの小さい店で、客はいちばん奥の席に夫婦連れと思われる男女の老人が一組いるだけだった。猿公はその手前のテーブルを独り占めし、注文を取りにきた若い女の子に、トーストとアイスコーヒーのモーニングセットを注文し、そのついでに、昨夜から今日にかけて甲冑姿の男たちを見なかったか尋ねてみた。
「それって、昨日ツイッターで話題になってたやつ?」女の子は興味深そうに目をクリクリさせて言った。「このへんにおるん?」
「大阪から南へ向かってるって聞いたんで、今はこのへんかなって思って」と猿公は答えた。
女の子は「さあ、知らんわ」と言って、奥の方に「マスター」と声を掛けた。
店主と思しき中年男性が顔を見せた。これが由成の子孫か、と猿公は思った。
「こちらAセット、冷コーで」と女の子はマスターに言い、「昨日の落ち武者、このへんにおるんやて。マスター、知ってる?」
どうやら由龍たちのことはこの店でも話題になっていたらしい。
マスターは「さあ」と首を捻り、こう言った。「この店はこのへんの情報交換所みたいになってましてね。朝から何人かお客さん来はったけど、そんな話まったく出ませんでしたわ。おたく、なんでそんなこと訊くんです。どこかの記者か何かで?」
「いや、そういうわけじゃないんですが、ちょっと調べてまして。時にこの店は岡神家のご子孫が営まれてるて聞いたんですが、あんたが?」
「はい、そのご子孫です」
マスターのその言いようが可笑しかったのか女の子がケラケラと笑った。
そのとき、奥の席の老カップルのお婆さんの方が「あれ、あんた。小猿さんとこの子ォやんか」と言った。小猿がやってる落語会で猿公を観たことがあるようだ。
「間違いないわ。あのときの面白ない子やわ。覚えてるがな。落語でいっぺんも笑えへんかったん、あんたが初めてやもん」
その容赦ない言いように猿公は「あちゃー」と思ったが、バレてしもたんはしかたないと、由龍や由成が出てくる新作落語を作ったのでご子孫に挨拶に来ましたと言った。まあ、あながち嘘でもない。
「へえ、うちのご先祖が落語に」マスターは嬉しそうにそう言い、猿公の向かいの席に座ってしまった。「それは聴いてみたいなあ」
マスターの喜んでいる顔を見ながら、わしはあなたのご先祖様に会ったんだと言ってやろうかと思ったが、変な奴だと思われるだけだろうから、やめた。それより、そんなとこに座ったりして、注文したモーニングのAセットはどうなってるんや、とそっちの方が気になった。しかしマスターはそんなことまったく気に掛けた様子もなく、ご先祖が出てくる落語ってどんな内容なのかと訊くので。掻い摘んでざっくり話した。
「ほお、井戸を通ってタイムスリップですか。そんな井戸あったら面白いやろなあ」
もしかして月越えの井戸のことが伝わっているのではないかと考えて話してみたのだが、このご子孫は何も知らないようだった。
マスターは「あ、そうや」と言って奥へ入っていったので、モーニングセットのことを思いだしたのかと思ったが、すぐに戻ってきた。手に一冊の本を持っている。それは石野が言っていた『岡神家史』だった。
「うちの曾祖父さんが書いたもんでんねん」
同書を編纂したのはたしか由成から数えて十五代目と聞いていたので、このマスターは十八代目ということになる。彼の話では洋食屋を始めたのは曾祖父さんの祖父、つまり十三代目で当時はもっと大きな店であったらしい。だが、昭和の初期、中国との戦争が長びくにつれて食材の確保がだんだんと難しくなり、アメリカと交戦状態になるとついに経営困難となり、店は閉めたのだという。
十八代目は大学を出たあと銀行系のコンサルティング会社に勤めていたが、数年前に脱サラし、自宅を改造して洋食屋を復活させた。この店ではどうやら『岡神家史』の販売も行っているらしい。かなり高価だったが、財布には昨日のギャラが入っていたし、どうせこのあと図書館へ行ってこの本を読んでみようとも思っていたので思い切って購入することにした。
本の代金を払っているとき、店の奥から中年女性がお盆を持って出てきた。お盆にはコーヒーとトーストが載っている。どうやらモーニングセットは忘れられてなかったようでホっとした。女性はマスターの奥さんのようである。
そのあと猿公はさっき側を通った寺や神社へも行ってみたが、けっきょく有用な情報をなにひとつ得ることなく貝塚をあとにした。

それから五日が経った十月三十日。大阪城公園に現れた落ち武者の噂はあれっきり一切出なかった。その代わり、えらいことが起きていた。村名が失踪したというのだ。
二十三日の夜、村名は十三のお好み焼き屋から大阪城公園へ行くと言って、それっきり姿を消した。村名が小説やエッセイを連載している文芸誌や単行本を出版予定の出版社、レギュラー出演しているテレビやラジオなどの各担当者は大慌てであるらしい。
「いやあ、まいったで、ホンマ」石野が疲れた顔で言った。「村名さんと最後に会うてたんがぼくやさかい、なんか知ってるんちゃうか言うて、みんなぼくのとこに押しかけて来るねん」
浪速ラジオの喫茶室である。『土曜はデックデック』の放送後、石野が猿公を訪ねてきたのだ。
「なんで大阪城公園なんか行かはったんか、石野さん、知ってるんでしょ、言うて詰め寄ってくるねんけど、ホンマのこと喋ってもどうせ信じてもらえんやろし。ホンマ難儀したで」
「村名先生、もしかして」
「うん、あの井戸へ入らはったんやと思う」
あの夜、落ち武者が出現したのは午前零時過ぎから三時までの間だと思われる。村名が彼らと遭遇したかどうかはわからないが、井戸の蓋が開いている時その場にいたのだとしたら。SF作家としては本当にタイムスリップなどというものができるのか試したくなったとしても不思議ではあるまい。
「そしたら、あの時のあの電話」
「そうやがな。あれは過去の世界に行った村名さんの電話に繋がったんやわ、たぶん」
ということは、村名は早くても次の満月の日まで戻ってこれないということになる。インターネットで調べると、それは十一月二十二日だった。
「それも戻ってこれたらの話やけどな」
「えっ、戻ってこれまへんか?」
「きみのときみたいに向こうに助けてくれる者が居ればええけど」
そう言われて猿公は考えてみた。もし向こうの世界で岡神家の人たちに会えなかったら自分はどうなっていたのだろう。なにしろ夏の陣直前の大坂城中にどう見ても不審な者が突如現れたのである。徳川の間者か、切って捨てい、てなことになっていたとしてもおかしくない。岡神家の連中がお人好し揃いで幸運だったのだ。
あちらでは大坂城落城から一ヶ月が経っている。現地がどのような状況なのか、もちろん知る由もない。
「あの人はバイタリティの固まりのような人で要領もええし知識も豊富やしな。どんな窮地でも切り抜けられるような気もするけど。そやけどなあ」と石野は溜め息をついた。「ご家族もぼちぼち失踪届を出すみたいで、そうなったら今度は警察にも事情聴取されるやろ。その時どこまで話していいものか、頭痛いわ」
「難儀な話でんなあ」
「なに人ごとみたいに言うてるねん。元はといえば原因はきみにあるんやで。それに、ぼくが警察に洗いざらい話したら、きみも呼び出されるで」
「うわ。ホンマに難儀や」猿公も溜め息をついた。大の男がふたり揃って溜め息をつく様は他人から見れば滑稽に映っただろう。
「ところでな、もうひとつ話があるねん。昨日、うちの近所の骨董屋で聞いたんやけどな」
石野が骨董好きで、その手の店にしょっちゅう顔を出していることは猿公も知っていた。石野の聞いたところによると、西成の骨董店に最近、甲冑を売りに来た男たちがいるという話が骨董屋のネットワークを通じて伝わってきた。その数、七人分。
「えっ、それって」猿公は思わず大声を出しそうになった。
持ちこんだのは甲冑などとは縁もゆかりもないように見える釜ヶ崎のドヤ暮らしの男(仮にキイ公としておく)だったので、骨董屋の主人は不審に思い、どこで手に入れたのか尋ねた(本当はどこで盗んだと訊きたかったようだが)。
キイ公はいつものように立ち呑み屋でその日の稼ぎのほとんどを酒に化けさせたあと、ドヤに帰って屁ェこいて寝よとフラフラ歩いて、ドヤの真ん前まで来たとき、急に甲冑を纏った男たちがドカドカと現れ、取り囲まれてしまった。ビックリして酔いも醒めてもたがなとキイ公はボヤいたという。中のひとり、いちばん年嵩風の男が甲冑と男の服を取り替えてくれないかと言った。七人分ほしいと言う。キイ公は甲冑の値打ちなどわからないし、服を七着も持っていない。そこで、同じドヤに住む歴史通のおっさん(仮にセエやん)を呼んだ。セエやんは男たちが着ている甲冑を眺め回し、キイ公に「こりゃ値打ちもんやど」と耳打ちした。キイ公はさらにもうひとりドヤ仲間に声を掛け、三人で七着の服を男たちにくれてやり、甲冑を手に入れた。そして翌朝、それを骨董屋に持ちこんだというわけである。
骨董屋は七人分の甲冑をひとつひとつ丹念に調べ、それがかなりの物ばかりなので驚いた。セエやんの目利きは正確だったようである。ひとつなどは大名が着るような立派なものだった。しかし、それよりも目を引いたのは、甲冑に残るまるで昨日今日斬り合ったかのような刀傷の生々しさだった。骨董屋はキイ公たちに大金を払い、これは自分のところのような小さい店では扱いかねる逸品だと判断し、すぐに堺の老舗店に連絡を取った。その話はすぐに堺や大阪中の骨董屋へ伝わり、石野の行きつけの店を通じて石野の耳にまで届いたのである。
ちなみにキイ公たちは濡れ手に粟で転がり込んできたその大金をその日の内に住之江の競艇場で全部スってしまったというが、これは余談。
「これで彼らの目撃情報があのへんで途切れてしまった謎が解けたってわけや」
SNS上で最後の目撃情報があった西萩記念ホールは釜ヶ崎からほど近くにあったのである。
「すると由龍はんらは今風の普通の格好してはるんですな」甲冑姿を探しても見つからんはずやと猿公は納得した。
「頭もこうハゲ河童みたいな髪型やと思うねんけど、帽子かぶればロン毛の兄ちゃんみたいに見えるしな」と石野も言う。
「食事とかどうしてるんでっしゃろな。この世界で使える金なんか持ってへんはずやし」
「そやなあ。案外まだ釜ヶ崎のあたりに居って、日雇い労働とかして稼いでるんかもしれんな」
ただひとつわかったことは、彼らの行方を探しだすことがますます難しくなったということであった。


第7章  その後のその後

十一月二十二日、満月の夜。猿公と石野は大阪城公園の例の井戸の前にいた。はたして村名は戻ってくるのか。前の満月は雨だったが、今夜は晴れている。だが、寒かった。彼らは缶コーヒーなどで暖をとりながら待っていた。
「ありがとうございました」猿公は石野に言った。「わしの名前、出さんといてくれたそうで」
浪速ラジオの喫茶室で話をした数日後に村名の妻が失踪届を出し、警察に失踪当夜のことを訊かれた石野は、「大阪城に月越えの井戸ちゅうのがあるそうで、なんでも満月の夜にその井戸へ飛び込むと過去の時代に行けるちゅう伝説があるっていう話が昔の書物に書いてあるとかで、その真偽を確かめにいくと言うてましたんや」と答えた。けして嘘ではない。嘘ではないが、真実をすべて述べたわけでもなかった。石野は猿公のことは黙っていた。そのため猿公は警察に呼ばれることがなく、その礼を言ったのである。
「あっ」異変に気づいたのは猿公だった。「蓋が動いてます」
午前一時ごろだった。石野も井戸の方に眼をやった。鉄蓋がガタガタ震えている。そして、スっと浮き上がった。ふたりの口からほぼ同時に「おおっ」と声が出た。
鉄蓋は井戸から十センチほど浮いたかと思うと、横に動き、井戸の傍らへ静かに着地した。
ふたりは井戸の縁まで近づき、中を覗いた。井戸の底からゴボっという音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、村名がポンっと頭を上に向けて井戸から飛びだした。彼の身体は井戸を完全に出たあたりの空中でいったん静止した。空中で立ち止まっているような姿勢だった。それからそのまま横にスっと動いて、地面にゆっくり降り、そしてゴロっと倒れた。
猿公も石野も呆気にとられそれを見ていた。ややあって、ふたりは仰臥する村名の傍らに屈み込み、顔を覗き見た。村名はグーグー寝息を立てている。ホっと息を吐きだしたのも束の間、「ふぁっくしょーん」と村名は大きなくしゃみをし、その勢いで目を覚ました。
「おっ、石野くんに猿公くんやないか。ちゅうことは戻ってこれたんやな」村名は上半身を起こしあたりを見回してから、「で、今日は十一月二十二日か?」
「はい、十一月二十二日です。もう日付は変わって二十三日になってますけど」と石野が答えた。「えらい騒ぎなってますよ。奥さんは失踪届出さはるし、局とか出版社とかは上を下への大騒動で」
「わはは。そうか。いやあ、あの日な、十三から梅田に寄ってな、ここへ着いたん三時ごろやったかな。そしたら若い連中が落ち武者見たとか言うてわあわあ騒いどってな。あ、これはもしかしたらってここまで来たら蓋が開いてるがな。それ見たとたんな、なんも考えんと飛び込んどったわ」
そのとき、蓋がまたガタガタ震えだしたかと思うと、一メートルぐらい浮きあがり、そして横に動いて井戸の上に被さった。
「おおっ」
猿公も石野も村名に訊きたいことは山ほどあったが、とりあえず移動しようということになり、朝までやっている梅田の阪急東通りの外れにあるお好み焼き屋までタクシーを走らせた。二階の個室に入り、村名は店の者に「充電させてもらうで」と声を掛け、スマホのケーブルを壁のコンセントに差した。
「あっちの世界、面白かったけどな、お好みが無いのがなあ。自分で作ろうかとも思ったけどな、豚肉はまあ鶏で代用できるとして、キャベツが無いのがなあ。お好み一ヶ月も食べへんかったって我が人生で初めてやったんちゃうか」
「そんなことより先生、あっちの世界はどうなってました? 大坂城が落城したすぐ後やったんでしょ」
「そうやそうや。大坂の町はもうてんやわんややがな」
村名はあちらの世界では大坂城に逗留していた南蛮人と思われていたらしい。現代でも大男の部類に属するが、十七世紀ではとりわけ大きく思われ、着ているものも異人のようであることから、そう判断されたのであろう。
「顔立ちは典型的な日本人なんやけどな」と言って村名は笑った。
大坂城から焼け出された異人(と勝手にそう思いこんでいるだけなのだが)に人はやさしく接してくれた。大坂人は昔から人情に厚かったんやな。村名には絵心があったので、似顔絵や風景画を描いて金を稼いでいたという。さっきも言ったようにてんやわんやだったので絵などには見向きもしない者も多かったが、物珍しいのか食い扶持が稼げるぐらいには売れた。
最初の数日は寺や神社の軒下を借りて寝起きしていたが、そのうち異人の絵描きが大坂の町をウロウロしていると聞きつけた珍し好きの醸造業を営む鴻池善兵衛という商人が自分の家に住まわせるようになった。
「鴻池って、あの鴻池でっか?」と猿公が訊いた。鴻池財閥や鴻池善右衛門の名は、落語の『鴻池の犬』や『はてなの茶碗』に出てくることもあり、猿公には馴染み深い名前だった。
「いろいろ話してるうちにわかったんやけどな、初代の鴻池善右衛門の兄さんに当たる人らしいな」
良いパトロンがついたことで衣食住に不自由することなく、村名は大坂の町を見てまわることができた。
「おかげで小説のネタが山ほど溜まったわ。まあ、それらはおいおい書いていくんで、それ読んでもらうとして」村名はそう言って猿公に顔を向けた。「岡神由龍の噂も聞いたで」
岡神家の家臣は大坂落城の折りに大半が討ち死にするか捕らえられたが、生き残った者は大坂城を脱出し、大坂の町なかに潜伏していたらしい。岡神家に限らず、大坂の商人はほとんどが豊臣贔屓だったので、そういった者は多かった。村名が逗留していた鴻池の隣家にも長宗我部盛親の家臣が潜んでいたという。とくに岡神家の場合、領地が近かったこともあり、顔見知りの商家も多く、中には泉州出身の者もいたので、そういったところに匿われていたのだろう。
そうして由龍たちは二十日あまり大坂城のすぐ近くに身を隠し、次の新月を待ったということか。
「それで今夜や。向こうの日付で六月一日やな。日が暮れるのを待って、ちょっと、これ」と言って右の小指を立て、「お姉ちゃんとええことしてきますわ言うて鴻池の屋敷を抜け出して、あの井戸のとこまで行ったんや」
夏の陣後の復興作業は始められていたが、大坂城はまだ焼け野原のままで、井戸へは容易に近づけたという。すると、井戸の蓋は開いていて、縁から縄梯子が降ろされていた。岡神家の連中が脱出したときに使ったものだろう。それを伝い村名も井戸を降りた。そして還ってきたというのである。
そろそろ夜も明けようかというころ、村名は充電が済んだスマホで、出版社や放送局の担当者に電話を掛けまくった。
「ああ、ぼくや、村名や。久しぶり。ちょっと取材旅行に出ててな」
まあ確かに取材旅行といえなくもない。時間が時間なので電話に出る者はほとんどいなかったが、そういう者には留守電に伝言を残した。最後に家へ連絡した。
「母ちゃん、かんにん。今から帰るよって」
「奥さん、怒ってはったでしょ」と石野が訊いた。
「カンカンやがな。帰りとうなくなってきたわ」と言って村名は大声で笑った。

それからしばらくして、あの大阪城公園の井戸の蓋にステンレス帯が十字に掛けられ、周りは柵で囲まれた。柵には「危ないので入らないでください」という看板も付けられている。なんでも、夜中に蓋を開けていた者がいると通報があり、危険防止のための処置であるらしかった。どうやら、村名が戻ってきた時に見ていた者があったらしいが、大騒ぎにならなかったところをみると、村名が井戸から飛びだしたり、蓋が浮き上がった瞬間をみられたわけではないようだった。
変わったことといえばそれぐらいで、その後はとりたてて何も起こらず年が暮れ、年が明けた。
二月になって文芸誌『流星小説』三月号が猿公のアパートに送られてきた。村名の新作『大坂城異聞/月越えの井戸』の連載が始まったのである。タイトルの傍らに「萩之茶屋猿公・作『ギャグ大名』より」と添えてあるのを見て猿公はニヤニヤした。自分でも何冊か買って師匠やデックなどお世話になっている方々に読んでもらおう。
猿公は既に出版社から原案料を貰っていたが、単行本化の際には著作者印税の四分の一が支払われることになっていた。村名は当代きっての人気作家で『月越えの井戸』第一回目の評判も良く、単行本もベストセラーになるに違いないので、猿公の許にもけっこうな金額が入ってくることだろう。
それも含め、猿公の評判はうなぎ登りで、仕事の依頼も増えてきた。四月からはラジオのレギュラーがもう一本増え(それは村名がメインパーソナルティを務め、石野が構成を担当する番組だった)、初のテレビ番組のレギュラーも決まっている。本業である落語の依頼もどんどん増えてきて、この分だと今年の夏は長期間の休みを取れそうになかった。
『流星小説』三月号が書店に並んだころ、貝塚でも落語会を開いた。洋食屋オカガミのマスターが、ご先祖様の出る『ギャグ大名』をぜひ聴きたいからと近所の寺にかけあい、本堂を借りたのだった。一昨年の夏に猿公から逃げだした女が観にきていたので猿公は驚いた。会うのはフられてから初めてだった。
「猿公ちゃん、変わったわね」と元カノは言った。「めっちゃ面白かったわ」
一瞬、元の鞘に戻れるのではないかと猿公は期待したが、彼女は一緒に来ていた男を「秋に結婚するねん」と紹介され、「ああ、それはおめでとう」と引きつった笑顔を見せた。
そんなこともあったりしたが落語会は好評だったので、今後も定期的にやっていくことになった。
また、三月からはもうひとつ、自分が主催する落語会を西萩記念ホールでスタートさせることにもなっている。もっとも会場はキャパシティ九百人の大ホールではなく、元々小学校だったときに視聴覚教室だったキャパ百人の小ホールの方であったが。こちらの運営には万代池女学院高等学校のOGたちが関わっており、石野もノーギャラでいいから手伝うと申し出ていた。石野の目当てはもちろん落語研究部顧問の竹内先生であった。
由龍たちの故郷である貝塚と、彼らが最後に目撃されたこの会場で落語会を続けていれば、そのうち由龍たちが姿を見せるのではないか。猿公はそう考えていた。忙しい仕事の合間を縫って彼らの行方を探し続けているが、いっこうに見つかる気配はない。しかし、猿公は諦めていなかった。落語をやり続けてさえいれば、いつかきっとまた会える、そう信じていた。
だから猿公は今日も高座へ上がるのだ。
「暑い夏の夜のことでございます。ここに居りましたひとりの男、なにやらブツブツつぶやきながら大阪城公園を歩いております」

参考文献・資料
『芸人名人奇人変人伝』石野澄男・著(スマイリー出版)
『岡神家史』岡神泉友会・編
『仙州怪塚秘録』室井恭蘭・著
『歴史大百科シリーズ・全戦国武将大百科』歴史少年編集部・編(歴史少年社)
『絵で見てわかる歴史シリーズ・一冊まるまる関ヶ原の戦い』(同上)
『絵で見てわかる歴史シリーズ・一冊まるまる大坂の陣』(同上)
落語『延陽伯』
落語『くっしゃみ講釈』
講談『後太閤記/太閤と由龍』

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