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高度成長期の下町生まれが里山の自然農にたどり着くまで③ 喪失の世代

 前回の続きとして80年代を書き起こします。物心ついてから生まれ育った60年代や70年代よりも彩度の低い時代、見渡す世界の一切が曖昧で輪郭の剝げ落ちた時代、思い出すのが億劫な時代です。
 そのかわり当時を思い出させてくれる、卒業写真集のように大事な一冊があります。とても懐かしい本です。
「劇団 月夜果実店 ~喪失の世代・考」 1991年・講談社 

題名の「月夜果実店」は、私が20代の頃に関わっていた小さな劇団でした。著者の小林道雄さんはフリーランスのライターの方です。お生まれが昭和9(1934)ですから50代の後半頃だったでしょうか。警察の冤罪事件に切り込んだ「犯罪は常に我が前にあり」など、数多くの優れたルポルタージュを手掛けた社会派の方でした。劇団主宰の堀切和雅さんをメインに取材されながら、まさに「喪失の世代」として我々の群像を、厳しくも優しい目線で描写してくださったものです。
 私も前の連載で「あらかじめ失われた」という表現をしましたが、その「既失感」は、たぶん私たち世代に誰彼となく通底していたのでしょう。それが戦中派の小林さんには良く見通せたことかと、いまになって察します。この文章の最後に出てきますが、私たちの世代は「何を喪失したか自分で分からない」人間たちです。そんな親子ほどの年齢の違う私たちの話を、全身全霊で聴きこんでくださるものでした。この人になら、自分のつまらない話でも受け止めて貰えそうだと安心し、なおさら喋ってしまうという循環があったのです。それこそが「話す・聴く」という人間関係の基本ではないでしょうか。劇団の仲間たちも個々にインタビューを受けているのですが、おそらく同様の感覚を持ったのではないでしょうか。自分で話しながら気づいていない行間の何か・見たくない部分も含めて引き出してくれる。そういう方でした。その後しばらく私は、一人で考えを整理するときには心中に小林さんをイメージして話したものです。つまりこうした年代を越えた人間関係もまた私たちの世代にとって「あらかじめ失われたもの」だったわけです。
 気が付けばいつの間にか、私はこの頃の小林さんの年齢を越えてしまいました。しかし、あのときの小林さんのように真摯に若い世代に向かい合って、時に叱りもしながら受け止めているだろうか。そう自問するのが恥ずかしいほど、若い世代との関係はありません。たぶんもう無理だろうとも思うのです。「僕らは経済成長なんて知りません」と言われてしまうと、これはもう弁解の余地もない。
 この本が出た91年は、ちょうどバブルの弾けた年でした。取材を受けていたときは、バブル経済の最中でした。時代の空気というのは遍(あまね)く在るもので、べつにバブル経済で大儲けてもいないのに、どこか浮世に足がつかない極楽とんぼが群れ飛んでいた。
 私たちの世代は皆この時代をくぐっています。戦争のような悲惨はないそのかわりに、いわく言い難い独特の曇った気配がありました。
 以下、私の発言は、本からの引用です。前後の脈絡が見えないかもしれませんが、ご勘弁ください。38年前の文章を読んで改めて感じるのは、何十年経っても、ヒトの本質は変わらないないなあ、というのが偽らざるところです。
 (前略)
新宿Kホテルのラウンジで会った須藤章は、舞台で見ていた印象とはずいぶん変わっていた。思ったより小柄だったが、思慮深いその喋り方は芝居の世界にいる人間とは思えないほど地味な感じだったのである。
 いったい、なぜ芝居だったのか?私の問いに彼はこう答えた。
 「僕は、人と喋って冷たくシラケられたらどうしようと恐怖感を抱くタイプの人間です。今日みたいにこんなに良く喋れるのは、ちゃんと聞いてくださる方がいるからで、たとえば友達と会って喫茶店で喋ろうかというのはダメなタイプです。そういう人間であるだけに、たとえ借り物でも、つまり他人が書いた言葉であっても、それによってどうやって自分を出せるかなと考えるわけです。台本を受け取って、じゃあ俺はこんな風にしゃべってやろう…という具合に、自分を見せられる愉しさですね。稽古の段階でも知らない人とコミュニケートできるわけです。ですから逆に、人と会ってもリラックスして自分を表現できて、苦もなく交流できる人には芝居など必要はないでしょう。でも僕には今言ったところに、嬉しいものがあるんです。今の時代には、自分みたいな人間が段々増えているんじゃないかという気がします」
(中略)
「僕は、コンピュータというのはほとんどいじれない人間なんですけれど、そういうものを相手にしてしゃべる人間の気持ちというのは何となくわかる気がするんです。喋ることのできる相手がいるということですよ。子供の頃、独り言というか頭の中で喋ることが癖でした。今のその傾向はあって、頭の中に相手を想像してしゃべっていることが多いです」
★ ★
 このインタビューの頃は、もちろんスマホもインターネットもありません。せいぜいポケベル。けれどすでに時代の兆候として、ひとりひとりが自分以外の他者と絶ち切れてくる時代が始まっていました。電車の中で女子高生が人目も気にせず化粧するようになったのも、この頃からだったと思います。公衆という他者は消されていて、この世界の関心ごとといったら、すべて小さな鏡に映るメイクの仕上がりにかかっていたのでしょう。

喪失の世代

 小林さんのインタビューよりも5年ほど前の1986年3月に、岩波書店の月刊誌「世界」に私が寄稿した文章があります。若い人へのアンケートという形でした。タイトルは忘れてしまったけれど、今の時代(80年代)に何を思っているか、といったような内容でした。ちなみに拙稿は没採用でしたけど…。 
 その没原稿を小林さんに「参考までに」とお見せしたので、同じ原稿の一部を開陳します。それにしても38年…Those were the Days…

 「生まれたのは1963年。東京都荒川区。水と風が吹き溜まった下町には、何をしているか分からない得体のしれない人たちが、いつもふらふらとしていたのに、みんなどこへ行ってしまったのでしょうか?ともあれ、経済成長の遠心力に弾かれて、小学校から千葉県へ。記憶の前後をまさぐると、自分はいつも黙っていたような気がします。白黒からカラーに変わったテレビの前に座り、黙ってとりとめもなく一人で自分と喋っていた気がします」
(前略)
「今の時代に、なんだかみんな「飽きてきた」ようです。「もの」に飽きて「こと」に醒めて。沼の底のような喫茶店のソファーにもたれて蟹みたいな目をしながら「何か面白いことないか?」と呟くさまは不気味です」
(中略)
「この文章はいま、マニラで書いています。
この一週間、クーデターと、銃撃戦と、マルコスの逃亡がありました。
他にも色々なことに行き当たりました。けれどもなぜか、明日何が起こるか分からない状況にいると、日本にいるよりも気持ちが柔らかくなる気がします。
そういえば、去年の今頃は、イラン・イラク戦争の只中にいて、陸路でトルコへの国境を目の前にしながら足止めをくらい、ラジオから流れる爆撃のニュースに青ざめていたものでした。しまいにはイランに核ミサイルが落ちたというデマまで流れて「これでついにヒバクシャになってしまった」と呟きながらX線防止用のフィルムサックを頭にかぶって眠れない夜を過ごしたものでした(註・当時は、空港の手荷物検査のX線からカメラの撮影済みフィルムをガードする袋があった)。
 それでも、あとになって感じるのは、そうした時間の濃さ重さであって「日本に生まれて平和で良かった」と溜め息をついたりすることはないのです」
 ★ ★ ★
 フィリピンで立ち会った政変やアジア諸国を歩いていた頃のことは、また後の回で書きます。いま読み返すと若書きの恥ずかしさが溢れるけれど、小林さんはこの拙文を引用しながら下のように書いてくださいました。
 ー前略ー
(須藤の文章に)甘えるなという言い方もあるだろうが、私にはそうは言えない。私だとてこんな社会を望んだわけではないからである。
ただ、私は喪われたものが何であるかを知っている。いわばその潤いの中で生きてきたからである。しかし彼らが知っている社会は、物心ついたその時から既に無機的に乾ききっていた。堀切(註・劇団主宰)の言葉を借りるなら、彼らは「こうなると生きてるのも死んでるのも同じじゃないでしょうか」という閉塞的な状況の中に青春を過ごしているのだ。
(中略)
そしてふと私は、カフカの謎めいた言葉を思い出していた。
「鳥かごが鳥を探しに行った」 
彼らにとっての芝居とは、そんな鳥かごではないのか。

次回も、80年代の話をします。
異世界としてのアジア諸国と出会い、農と出会う頃。
私の世界に彩が戻ってくる頃です。
(つづく 2024/2/5)


 

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