情けは人の為ならず?誰のため?
日本の諺「情けは人の為ならず」は誰でも知っていますね。
そしてこの諺の真の意味は、「人に対して情けをかけておけば、巡りに巡って自分に良い報いが返ってくる」という見返りを期待する気持ちが込められています。
もちろんこの言葉を否定するつもりはありません。どのような動機であれ良い行いは推奨されるものです。
しかし、この見返りを期待する日本人の情けは、見返りを期待できない人に対しての情けを阻害していませんか。ホームレスや障害者に対する支援や理解が進まない要因の一つではないでしょうか。
イスラームにおける情け
イスラームでは、情けは違った捉え方をします。それを実際に肌で感じた事例を紹介します。
『青年海外協力隊としてスーダンに赴任した初日、バスの乗り方が分からず困っていた時に声をかけてくれた青年は、私の手を引っ張って乗りたかったバスまで案内してくれました。
海外では親切な人ほど危険で、あとからお金を請求して来ることはよくあることです。きっとお金を請求して来るだろうと身構えていたら、グッバイといって笑顔で去って行きました。
まあまあここまではよくある話で、親切な人と出会えてよかったぐらいにしか思っていませんでした。 無事目的地に着きバスから降りるため運賃を払おうとしても、どうしても運転手はお金を受け取らないのです。周囲も何か私に言っています。この時、青年が私のバスの運賃を払ってくれていたことに気が付きました。
青年はなにも見返りなど求めずに、さも当たり前であるかのように親切にしてくれたのです。スーダンに来たばかりで不安を感じていた私にとってこの優しさは、スーダンで暮らすことの不安を全て払拭してくれたのです。今でもこの出来事を思い出すたびに熱いものがこみ上げてきます。』
見ず知らずの外国人を助けてくれた青年は、もちろん見返りなど期待もしていなかったでしょう。イスラーム教の聖典クルアーンにその答えがあります。
クルアーン第2章アルバカラ
261. アッラーの道のために自分の所有するものを施す者を例えてみれば,ちょうど1粒が7穂を付け,1穂に百粒を付けるのと同じである。アッラーは御心に適う者に,倍加してくださる。アッラーは厚施にして全知であられる。
262. アッラーの道のために,自分の財産を施し,その後かれらの施した相手に負担侮辱の念を起こさせず,また損わない者,これらの者に対する報奨は,主の御許にある。かれらには,恐れもなく憂いもないであろう。
263. 親切な言葉と寛容とは,侮辱を伴う施しものに優る。アッラーは富有にして慈悲深くあられる。
264. 信仰する者よ,あなたがたは人びとに見せびらかすため,持物を施す者のように,負担侮辱を感じさせて,自分の施しを無益にしてはならない。またアッラーも,最後の(審判の)日も信じない者のように。かれらを譬えてみればちょうど,上を被った滑らかな岩のようなもので,大雨が降れば裸になってしまう。かれらはその働いて得たものから,何の得るところもないであろう。アッラーは不信心の者たちを御導きになられない。
265. アッラーの御喜びを求め,また自分の魂を強めるために,その所有するものを施す者たちを譬えてみよう。かれらは丘の上にある果樹園のように,大雨が注げばその収穫は倍加し,また大雨がなくても,少しの湿り(で足りる)。アッラーはあなたがたの行うことを御存知であられる。
イスラームでは、情けをかけた瞬間に、神様がその人を祝福してくれます。そのためスーダンでは、困窮者から見返りを求めない施しがそこかしこで見られます。
このような困った人を助ける社会は、自分が困った時にも誰かが助けてくれる社会なのです。
私はこのような社会に理想を見出したのでした。
本当に情けは人の為ならずです。
皆様からの温かいサポートは、日本に憧れを持ち、日本に留学する夢をもつスーダン人の若者が日本語を学ぶ活動に使わせていただきます。