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路上のお茶屋開店からみえたもの

あわれなり 人去りて知る 身の不徳

父が旅立った。病気の父を日本に残し、スーダンに戻った1年半に、どのぐらいの意味があったのだろうか。
スーダンで日本語の先生をやろうと意気込んで来たもののコロナの影響で教壇に立つことも未だ叶わず、じりじりと手元の資金だけが減っていくジリ貧状態。
それでもみなさんの力を借りて、インフレ率が400%を超えるスーダンの困難な状況で苦しむ人の助けになりたいと任意団体を作って形だけは何かを成し遂げているような気持ちになってきた。でもこの活動に一体、父と過ごせたはずの1年半分の価値があったのかわからない。父の死に目にも会えず、葬式にも出れず、最期のときに何もできなかったこの後悔を超えるほどのものを、この先スーダンで感じられる日が来るのだろうか。

シッタシャーイ開店から見えてきたもの

お金を稼ぐ手段を失ってしまった人に仕事の道具を与え、それで稼いでもらうということは理にかなっていると誰しも考えるだろう。そこで、スーダンで訳あり女性の定番の仕事となっている路上のお茶屋さんの開店を手伝うことにした。
コップや椅子といった必要なものを1から準備してかかる初期費用は約20000円。これは1日200円の貧困ライン以下で暮らす彼らにとって容易な金額ではない。シッタシャーイは全ての人がすぐにできる仕事ではないということになり、街に物乞いが溢れている理由となる。
紅茶1杯が約20円、コーヒーが約30円で売れた分が1日の収入となる。そこから固定の経費として炭代、氷代と茶葉やコーヒー豆代を差し引くとだいたい1日の売り上げは良くて200円ほどとなった。そしてコップなどの減価償却を考えると実際はもう少し低くなる。それでも現金収入はありがたいと彼女は語った。
たしかにミクロな視点でみるとこの活動はある程度の結果がでたと言えるのだが、この活動を継続するには欠点がある。
まず、このビジネスは路上に日陰を作り、そこでお茶を出し、ほっと一息つく場所を提供することである。安価であることが大事で、コストを削ればどこにいってもほぼ同じサービスということになる。飲食店のような遠く離れた場所にまで赴くという性質ではないため顧客は近所の人に限定される。人通りの良い好立地な場所には既にお茶屋が存在し、客は既に馴染みになっている。お茶屋さんの数を増やしたところで限られた客の取り合いになるだけであり、新しいビジネスの拡大ということには繋がらない。
簡単に言うと需要と供給問題であり、供給を増やしたところで需要が増えるものではないため、店を増やせば増やすだけ1店舗あたりの売り上げを減らしていくことになる。市場規模はビジネスを作る上で大事であり、スーダン国内だけで勝負をしてしまうのは失敗となる。
これは、教育も似たようなもので教育を受けたからといって雇用の受け皿がなければ未来に繋がるものではなくなる。
つまり、日本人の私がしなければならないのは、スーダンの人の労働を日本の市場と繋げ、新たな価値を生み出すことだったかもしれない。残された課題は、日本の市場で勝負になる何かをこの地で探すことなのだが。

皆様からの温かいサポートは、日本に憧れを持ち、日本に留学する夢をもつスーダン人の若者が日本語を学ぶ活動に使わせていただきます。