アラフォー上海留学日記【38日目】

4/4 木

昨日Gさんに紹介してもらったイラストレーターのUさんが、city walkを開催するというので参加。いろいろなエリアでテーマを決めて、専門家といっしょに街歩きをするそうだが、今回は虹口区の四川北路。
昼過ぎに天潼路站で待ち合わせ。天潼路って聞き覚えがあると思ったら、ここにある七浦服装市场に遊びにきたっけ。微妙に治安が悪そうな印象だったが、四川北路をまっすぐ北に行けば魯迅や内山完造が住んでいた文人エリア。

駅のコンビニで珈琲を買ったら、店内すべてセルフ決済のお店だった。ロボットみたいなのが店内をうろついている。コップのふちぎりぎりまで珈琲が注がれて、ちょっと焦る。

上海の歴史と建造物にくわしい専門家の董さんが解説をしてくれる。まずは虹口がどういう場所だったかのレクチャー。苏州河の北側にあるこの地区は、英仏租界のある中心地から川を超えないと行けない場所だったこともあり、遅れて上海に乗り込んだアメリカが1854 年に租界をひらき、それを借りるかたちで存在していた共同租界に、最大時は10万人もの日本人が住んでいた通称「日本租界」もあったそうな。黄浦江を臨む日本領事館のとなりにロシア領事館があったり、さまざまな国の文化が入り交じる場所。
政府関係者以外で最初にここの租界に入ってきた日本人は長崎人で、あとは広東人も多く、長崎弁と広東語が流通していたという。長崎弁が標準語の世界、おもしろい。

苏州河に臨むこのエリア最初のマンションである河滨大楼へ。S字型であほみたいにでかい。でかすぎて写真に収められない。敷地面積は約7000平方メートル。1935年築のモダン建築で、当時は地下にプールがあり、銀幕のスターが住み、映画会社のオフィスなども入っていたという。現在はバルコニーから东方明珠などThe上海な景色をひとりじめできる。参加者のひとりはここに住もうと本格的に検討したことがあるそうだ。高くて手が出なかったようだが。

その隣は1925年竣工の上海邮局总局。クラシックな堂々たる風格。塔には神々の使者を務めるエルメスが鎮座し、手紙を届ける使者たる理念を象徴している。柱も窓も巨大。かつてはここに新聞が貼られ、多くの人が読みに来ていたという。また、1980年代まで苏州河には水上生活者がたくさんいたそうである。

さらにその隣には、見事なアールのC字型の建物が。1930年築の瑞康公寓。中に入ってみると、裏側はとてもシンプル。

苏州河から一本北の通りに入ると、20年代のアールデコ建築(上海邮局总局)と、30年代のシンプルなモダン建物(旧新亜大酒店)の対比を見てとれる。従来、上海の地盤がゆるいため高い建物を建てられなかったが、30年代にはアメリカの建築技術が持ち込まれ、エレベーターつき鉄筋のこの建物が建てられたという。

そのさらに一本北にあるのが、かつて日本憲兵隊本部軍が使っていた1935年築の大桥大楼。今は普通に人が住んでいる。処刑場があった中庭は運動場になっていた。階段の幅の広さに、ぜいたくな予算がかかっていることがわかる。手すりも凝っているし。ギギギときしむ音がする古いエレベーターがスリリング。

このエリア、人気最盛期のユニクロさえ早々に閉店したといい、商業がなかなか発展しないそうだ。かろうじて営業していたBlue Noteのうらさびしさよ。

1900年前後築の昆山花园公寓。作家の丁玲もここに居を構えていたそうな。赤レンガと丸い窓の老洋房。今は1階~3階が分割されて住居となっているが、かつては3フロアを使って生活していたそう。1階は寒いので、入口に暖炉のあとが。タイルがかわいい。

近隣の老房子。窓の意匠が凝ってる。電球がたくさんぶらさがっているのは、住人同士が電気代でもめないように、ひとりひとつ使っているからなんだそう。マイ電球にすれば解決するだろ!というまさかのソリューション。スイッチも人数分あるようだ。
住んでいるのはおじいとおばあ。立ち退き料をもらっても新しいマンションにはとうてい引っ越せない老人たちが、老房子のおもな住人なのだ。このエリアでは、昔ながらのお菓子屋さんやお茶屋さんに列ができていて、新しいお店は見向きもされていない。そりゃ、ユニクロも撤退するわ。

横から見るとペンシルビルみたいだけど、意外と横幅がある中国银行大楼。1929年築。董さんが、北からこのビルを眺めた絵葉書を見せてくれた。こういう資料は中国にあまりなく、董さんは日本に行ったときに買い集めているという。1920~30年代、日本と上海は密な関係にあったしな。当時の日本文学を勉強していたので、そこらへんはよくわかる。

旧上海第六日本国民学校近くの、かつての日本人住宅。当時の日本の小説などに登場するエリアはだいたいここらへんだという。董さんが、日本っぽい建物でしょう、というが、あまりピンとこず。建築における日本っぽさとは、どこに現れるものなんだろう。
途中でなにかを燃やしたあとをUさんが発見し、清明节ですね~と言う。いわく、丸でかこったなかで紙のお札を燃やし、あの世のご先祖に送るんだそう。丸のなかに入らないように、入ったらあの世に連れていかれますよ、と言われてビビる。言われる前に参加者のCさんがすでに足を踏み入れていて笑った。

虹口区と静安区の境目。警察の管轄が変わるので、ここらへんは治安が悪く、かつては盗まれた自転車が集まったり、泥棒市がよく開かれていたそうである。一帯は取り壊しが進んでおり、董さんが見せてくれた10年前の写真との落差が激しい。10年後はどんな姿になっているのだろうか。

上海で一番短い国道、厚德路を通り、広東系のシアターや教会などがありにぎわっていたというエリアへ。だいたい2階建ての住宅が多いなか、にぎわっていた場所のみ3階建て住宅の建築が許されていたそうな。小区のオーナー同士が共同で通路をつくり、小区どうしが合体している。裏から見ると、通路の入り口に「A1927D」と築年の碑があった。教会自体はもう教会として機能していないが、今も裏に入ればステンドグラスが残っている。

日本軍の慰安所だった場所へ。子どもたちが遊ぶ小区のなかにひっそりとそれはあった。日本から連れてこられた慰安婦、そして東南アジアからの慰安婦も多く働いていたという。胸がぎゅっとなる。近くには第一サロンと呼ばれた慰安所も。中には庭園があり、多くの人が集まっていたそうだ。処刑所があった場所もそうだけど、かつての凄惨な歴史を上書きするような生活の濃厚なにおいが頼もしい。

インドのシーク教の教会跡。インド人もたくさん流入しており、護衛と金持ちユダヤ系インド人の両極端にわかれていた。

近くにあった汤圆屋さんで休憩。董さんが熱っぽく、汤圆は絶対店でゆでたてを食べなきゃダメ、冷凍品を家でゆでるのは難しいし、外卖はもってのほかと語っていて、汤圆愛を感じる。アツアツなのでお箸を使わないとうまく食べられない日本人勢に対し、地元の人たちはレンゲひとつですいすい食べていてかっこいい。荠菜鲜肉が食べたかったが、それは持ち帰り用のゆでる前のやつしかないというので、鲜肉のやつを食べた。やわらかなもちと甘めの肉餡がうまい。

董さんが参加しているモダニズムがテーマの展示会が近くで開催されていたので立ち寄る。建築、ファッション、レタリングなどの、モダニズムの変遷を集めたおもしろい展示だった。

帰りに学校近くで紙のお札を燃やしている人がいた。写真を撮っていると、近くにいた警備員の兄ちゃんが、清明节だから火を使ってもOKなんだよと教えてくれた。私には上海で思いを馳せる故人はいないが、ここにいる誰かが想う故人を想像し、あの世で元気でな、と思った。


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