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森に響く音

ストリートピアノというものをときどき見かける。
人々の行き交う町の風景の中に、ぽん、と優美な違和感で置かれている。そこにピアノがあるというだけで、なんとなく心がゆったりする。

この夏、ひとつきほど、よく利用している駅の広場にピアノが置かれていた。ピアノの音色は好きだが、ろくに弾くことはできないのでいつも横目に通りすぎていた。
一音一音確かめるようにきらきら星を弾く女の子、スピード感あふれる演奏で人々の注目を集める青年、弾こうとしたのか近づいたけれど、そのまま通りすぎていく女性……
私が見ていないうちには、他にどんなピアノと人との交わりがあったのだろう。

ある日、ピアノのそばに差しかかったとき。
とーん、とーん、と単調な音が響いていた。見ると、足元にたくさんの道具を詰めたカバンを置き、真剣なまなざしでピアノの内部を確かめている男性がいる。

(調律、)

このとき私は遅ればせながら宮下奈都さんの『羊と鋼の森』を読んでいたので、思わず足を止めてしまった。
とーん、とーん。
小説の主人公は、ピアノが鳴る様を森にたとえていた。遠く近くざわめく樹々の息づかい。森の匂い。
ああ、と思った。足早に歩む人々の雑踏の中で、とーん、とーん、という音が響く。そこから、すうっと静かな空気が広がっていくように感じた。森。森か。すてきだ。

調律が終わるまで見ていたかったが、仕事に向かう途中だったので名残惜しくその場を離れた。音色が整ったピアノを最初に弾いたのは誰だったのだろう。森の気配を感じることはあったろうか。
1オクターブにも届かない自分の手のひらを、少しさみしく見つめてしまった。


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