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お題頂戴エッセイ大喜利② 「わたしはここまでどのように神様に導かれてきたか」

「お祈りします」

新入生への言葉の最後に院長先生がおっしゃると、

上級生たちが一斉に膝の上で指を組み、目をつむって顎を引いた。

わたしはあわてて真似をした。

ミッションスクールの入学式。

講堂いっぱいの生徒750人と壇上の先生方がともに祈る。

それから6年間、わたしたちは毎朝この時間を持つことになる。

いまでも「お祈りします」という声が聞こえたら、反射的にその構えになるのだ。

身についた自然な動作が誇らしくもある。

そのように「祈り」を経験してきた者として「神様の導き」とは

「生きている」ということに等しい。

最初の祈りから現在まで、生きてこられたということは、

ひとえに、神様に導かれたから。

そう信じている。

こういう大真面目な自分。嘘はない。

ただ、その自分を糖衣するように、

日常を「神様の導き」で楽しむ愉快な自分もいる。

たとえば「紀ノ国屋の神」だ。

わたしは国立に越してきて以来23年間、紀ノ国屋スーパーにほぼ毎日通っている。

夕方の6時すぎ、店の玄関の二つめの自動ドアを入ったところで

きょうの晩御飯のおかずを決める。

そして材料を一つずつカートの籠に入れていく。

今夜は豚肉の常夜鍋にしようと思ったから、小松菜と豚のしゃぶしゃぶ肉。

するとしゃぶしゃぶ肉が値引きになっている。

また他の日は、台所洗剤のレフィルを買わなくちゃと雑貨の棚に近づくと、

それだけが値引きになっている。

ホットケーキミックスと牛乳と卵とメープルシロップ

四つとも値引き札がついていたこともある。

紀ノ国屋に着くまではなにも考えないのがコツといえばコツだが、これはやはり、

紀ノ国屋が大好きなわたしに神が応えてくださっているのだろう。

自動ドアのところで「きょうはこれにしなさい」と

導いてくださっているのかも知れない。

値引きになっているものを買うのではなく、買うものが値引きになっている。

神の導きとはそいうものである。