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カイロの紫のバラ

ウッディ・アレンの映画。

以前は好きな作品があった。

「ラジオ・デイズ」や「ギター弾きの恋」「誘惑のアフロディーテ」「世界中がアイ・ラブ・ユー」。

「カイロの紫のバラ」は、ミア・ファロー演じるセシリアに感情移入したものだ。

スクリーンの向こうの世界に憧れる彼女。

現実の生活に疲れて、映画館のほの暗い空間に安らぐ。

わたしも育児中はとにかく疲れていた。

こどもたちの時間にはやり直しは効かないから、いま集中してやらなくちゃ。

それは納得して臨んでいたが、心身の疲れはたまるばかりだった。

せめてもの楽しみがビデオの映画鑑賞。

そんな年月もあった。

ロバート・デ・ニーロが出た「RONIN」を見ていたときのこと。

ニースのシーンで、カフェのテラス席にパラソルが並んでいる景色が映った。

光を跳ね返すパラソルを見ていたら、意識がすーっとそこに吸い込まれていったのだ。

わたしはそこに立っていた。

昼間あまりに疲れていたからだとは思う。

でも、それ以来、わたしの映画の見方は変わってしまった。

映画のなかの時間が自分の時間になり、映画のなかの場所が自分の場所になった。

俳優の瞳を、目の前にいる人の瞳のように見つめ、一つ一つのしぐさをたどる。

これを「映画に恋をする」と表現する人もいるのかも知れない。

映画を見ているとき、わたしは映画のなかにいる。

「カイロの紫のバラ」のセシリアのように。