![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/129277451/rectangle_large_type_2_d9d474d40618cb124ad56e2f7314de28.png?width=800)
お城巡りへ行きたい
お城巡りが好きです。専門知識は全くありません。ただ当時の生活を感じたり様々な工夫を見つけることは面白いです。なによりこの場所で本当に歴史に残る人々が歩いて、ときには熾烈な戦いが行われたと考えれば、不思議な気持ちになります。お城(天守)と聞くとなんとなく最初は殿様や姫様の絢爛な印象が浮かびますが、実際は敵を向かい撃つための要塞だと見学するたびに考えを改ます。自分用のメモとして、行ったことあるお城と行きたいお城の沿革を簡単にまとめます。おおよそ東から西への順です。と言いつつ西日本だけです。
名古屋城
尾張国愛知郡名古屋
16世紀前半、今川氏親が尾張進出のために柳ノ丸を築く
1538年、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名
1542年頃、織田信秀が古渡城に移り、那古野城は子・信長の居城となる
1555年、織田信長が清須城に移り、叔父・信光が授かるも殺害され、家臣・林秀貞が守るもやがて廃城
1609年、徳川家康が九男・義直の尾張藩の居城として名古屋に城を築くことを定める
1610年、築城が開始
1612年に天守が完成。1615年に本丸御殿が完成
1615年4月、徳川家康は九男・義直と浅野幸長の娘・春姫の婚儀に駿河から出席するが、その最中に豊臣方挙兵の報が入り、そのまま大阪へ出陣し豊臣家を滅ぼす
明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家17代の居城だった
1945年(昭和20年)、名古屋大空襲で焼失
戦後、城跡は名古屋市の都市計画によっ名城公園となる
1959年(昭和34年)、天守を再建
2013年(平成25年)、天守を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業の着手が発表
2018年(平成30年)復元された本丸御殿の一般公開を開始
彦根城
近江国犬上郡彦根
江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つ
国宝指定された5城のうちの一つ(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)
1600年の関ヶ原の戦いの後、徳川四天王の一人・井伊直政はその軍功により18万石で近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城だった佐和山城へ入る
井伊直政は居城を移すことを計画していたが、1602年に関ヶ原の戦傷が癒えず死去
家督を継いだ井伊直継が幼少ゆえ直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年に彦根城の築城を開始
1606年、天守が完成し、直継が入城
1622年、全工事が完了し、彦根城が完成。その後も井伊氏は加増を重ねる
1633年、井伊氏は徳川幕府下の譜代大名の中で最高となる35万石を得る
幕末に大老を務めた井伊直弼は35歳で藩主となった
1993年(平成5年)~1996年(平成8年)、平成の大修理
大阪城
摂津国東成郡
1583年~1598年、豊臣秀吉が築城
1614年の大坂冬の陣の後、内堀と本丸のみ残る。1615年の大坂夏の陣で、落城
1620年~1629年、二代将軍・徳川秀忠が再築
江戸時代、三度の落雷による損傷と修復を繰り返す
1868年の王政復古の大号令の後、新政府軍へ引き渡された日、本丸の台所から出火し、ほとんどの建造物が焼失
1930年(昭和5年)~1931年(昭和6年)、博物館として天守を再建
1945年(昭和20年)8月14日(終戦前日)、空襲で大きな被害を受ける。1868年の火災で被害を免れていた建造物も焼失
1948年(昭和23年)から修理が進められ、1949年(昭和24年)に天守内の博物館が再開
1995年(平成7年)~1997年(平成9年)、平成の大改修
姫路城
播磨国飾磨郡
江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つ
1346年、赤松貞範が築城(とする説が有力)
1600年、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田城から播磨52万石で入城
1601年〜1609年、大改修で今日見られる大規模な城郭へ拡張
1617年、池田氏は跡継・池田光政が幼少ゆえ山陽道の要衝を任せるには不安との理由で因幡国鳥取藩へ転封。本多忠政が伊勢国桑名藩から15万石で入城
1618年、本多忠刻に嫁いだ千姫の化粧料を元に西の丸が整備され、全容がほぼ完成
池田輝政から版籍奉還までの約270年間、城主を6氏31人が務めた
1910年(明治43年)~1911年(明治44年)、明治の大修理
1934年(昭和9年)から戦時中の中断をはさみながら修理
1956年(昭和31年)~1964年(昭和39年)、昭和の大修理
2009年(平成21年)~2015年(平成27年)、平成の大修理
岡山城
備前国御野郡
隣接する大名庭園・後楽園は、水戸・偕楽園、金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称される
1570年、宇喜多直家が当地を支配
1573年、宇喜多直家が石山城(岡山城)へ入り、改築
1581年の宇喜多直家の死後、子・秀家が遺領を継承し、57万4,000石の大大名となる
1590年~1597年、8年間にわたる大改修。岡山城の呼称が定着
1600年、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった宇喜多家は改易となる。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城
1602年、小早川秀秋が岡山で急死し、小早川家は嗣子なく断絶
1603年、播磨姫路城主・池田輝政の次男・忠継が備前28万石を与えられたが、幼少ゆえ兄・利隆が代政
1613年に池田忠継が岡山城へ入るが、1615年に死去
1615年、池田忠継の弟・忠雄が淡路から31万5千石で入城
1632年、池田忠雄の子・光仲が因幡鳥取へ転封し、入れ代わって池田光政が因幡鳥取から31万5千石で入城
以後、幕末まで光政系池田氏の居城となる
1945年(昭和20年)、岡山大空襲で天守が焼失
1964年(昭和39年)〜1966年(昭和41年)、天守を再建
2021年(令和3年)~2022年(令和4年)、令和の大改修
松江城
松江藩
江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つ
国宝指定された5城のうちの一つ(他は犬山城、松本城、彦根城、姫路城)
豊臣政権時代、出雲は山陰道・山陽道9か国を領していた毛利家の支配下で、一族の吉川広家が月山富田城にて隠岐・出雲を支配
1600年の関ヶ原の戦いの後、毛利家は周防・長門2か国へ減封となり、吉川広家も岩国へ移封。堀尾忠氏が遠江国浜松12万石から出雲・隠岐24万石で入封
1607年~1611年、月山富田城は山城で不便だったため、松江城を築城
1634年、京極忠高が若狭国小浜藩(若狭・越前国敦賀郡)から出雲・隠岐26万石で入封。松江城の全容が完成
1638年、 松平直政が信濃国松本藩から出雲18万6千石で入封。以後、明治維新まで続く
1950年(昭和25年)~1955年(昭和30年)、天守を解体修理
広島城
安芸国佐東郡
1555年の厳島の戦いで、毛利元就が武田氏を滅ぼし陶氏(大内氏)に勝利。以降、毛利氏が当地を支配
1589年、毛利輝元の決定で築城が始まる
1591年、毛利輝元が入城
1599年、完工
1600年、毛利輝元は関ヶ原の戦いで減封され広島を去る。代わって、福島正則が安芸広島・備後鞆49万8000石で城主となり、改築
1609年、大規模な城整備と城下町作りが徳川家康を怒らせ、福島正則は謹慎を言い渡される
1619年、福島正則は武家諸法度に反する改築を咎められ、信濃国川中島と越後国魚沼の4万5000石へ転封される
1619年以降、浅野氏の居城となり、明治時代に至るまでの約250年間、12代続く
1945年8月6日、アメリカ軍が広島市へ原子爆弾投下。建物は倒壊し、火災により焼失
1957年(昭和32年)~1958年(昭和33年)、天守を再建
萩城
1600年、毛利輝元は安芸国ほか8か国112万石の大大名であったが、関ヶ原の戦いで西軍総大将となり敗戦し、隠居のうえ嫡男・秀就に家督を譲るよう命じられ、周防・長門の2か国29万8千石余へ減封される
1604年から、毛利輝元が広島城に代わる新たな居城として築城
1604年、毛利輝元が未完成のまま入城
1608年、完工
250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であった
1874年、前年に発布された廃城令により破却
天守の再建予定なし
熊本城
肥後国飽田郡
1588年、加藤清正が肥後北半国の領主となり隈本城へ入る
1600年頃、天守が完成
1600年、加藤清正が関ヶ原の戦いの功績で肥後一国52万石の領主となる
1606年に城の完成を祝い、1607年に「隈本」を「熊本」と改める
1632年、加藤清正の子・忠広の改易により、細川忠利が豊前小倉城から肥後54万石で入城
江戸時代を通じて、熊本城は細川氏の治世下で拡張され続けた
西南戦争時、政府軍の重要拠点であると同時に、西郷軍の重要攻略目標となる
1877年、西郷軍の総攻撃2日前、原因不明の出火で大小天守などの建物が焼失
1960年(昭和35年)、天守を再建