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コンピュータと私

完成度に満足していないので加筆修正することがあります

初めて買った本格的なマイコン MZ80K2E

初めてのコンピュータとの遭遇は15歳の時だ。学校にコンピュータルームがあって、そこに日立のミニコンがあった。コンピュータの授業は翌年まで待つ必要があったが、待ちきれない私はコンピュータルームに出入りしていた。特に怒られることもなく自主的に学ぶことができたのである。

当時のミニコンはFORTRANで走りパンチカードを使う。学内にパンチカードの凄い達人がいて、指の間にパンチカードを挟み、カードを引き抜くと読み取ることができる。なんと人間パンチカードリーダである。これにはたまげてしまった。

ミニコンで刺激を受けた私は、ワンボードマイコンを手に入れるが、マシン語が理解できず持て余してしまった。これは素直に受け入れると良いものを、なぜそうなるのか、理屈がわからないものを拒絶する悪い癖があったためだ。実を言うと未だにこの悪い癖に悩まされている。

その後、しばらくはコンピュータから距離を置くことにした。マシン語が理解できないのは悔しいが、その前にコンピュータの仕組みを勉強することが必要だと悟ったからである。コンピュータとの遭遇は散々な目にあってしまった。

再びコンピュータに目覚めたのは、アルビン・トフラーの第三の波を読んだ時だ。現在のコンピュータ社会を見事に予言している。これからはコンピュータの時代になると確信した。ちょうどこの頃、自動車教習所に通っていて、専用端末を使って電話回線でホストコンピュータに接続して予約する経験も影響したと思う。ちょうどこの頃は、アップルが日本上陸するなど、コンピュータ界が賑わい始めた頃である。

アップルにしろ、当時のマイコンは非常に高価だった。中古車の値段と変わらなかったくらいだ。マイコンが欲しいのだがとても手に届く価格ではなかった。翌年になるとマイコンを手に入れるチャンスが訪れる。シャープがMZ80シリーズの廉価版のMZ80K2Eをリリースしたのだ。

もはや、迷う必要も躊躇うこともない。即決で購入したのは言うまでもない。とは言え、貯金とボーナスとお小遣いを叩いて購入した。オプションを付けてフル装備にしたから、廉価版で安くなった分は帳消しである。2ヶ月分の給料相当分が吹き飛んてしまった。しかし、これはとても良い自己投資になった。

初めての本格的なマイコンを手に入れたわけだが、これが難儀な代物で、うんともすんとも動いてくれない。私にとって大金を投じただけに焦ってしまった。ワンボードマイコンの悪夢が蘇る。やっと動き出したのは一週間後のことであった。コンピュータとの相性のわるさに苦笑いしてしまった。未だになにがいけなくて動かなったのかわからない。

MZ80K2Eはクリーンコンピュータと呼ばれていた。OSが組み込まれてなく、好きなOSで使えたからだ。もちろんマシン語も使うことができた。標準で付属していたのはBASICだった。このBASICを浸かって様々なプログラムを書いて勉強した。


オリベッティM20

この頃、会社でオリベッティの16ビットパソコンであるM20を導入した。しかし、満足に使いこなせるのは私だけである。こんなわけで私の専用パソコンになってしまった。まぁ、会社の所有物で家に持って帰れない難点はあったが。

2台のコンピュータを自由に使える恵まれた環境にあったわけだが、昼間は通常の仕事があるから、プログラミングができるのは夜に限られた。連日、日付が変わるまで会社に残ってプログラミングに励んだ。当時はプログラミングができるのは50人に1人とか言われて、自慢だったのは言うまでもない。

2台のコンピュータの使い分けだが、自宅でプログラムを書き上げて、会社のM20に移植する方法を多用した。プログラミングは独学で覚えた。プログラミングを教わりたくても、周りには自分より詳しい人間はいない。当時は独学でプログラミングを学んでいた人ばかりだったと思う。

孤軍奮闘の末にプログラミングを会得することができた。ビジネス用のプログラムを作っては、社長に見せて評価してもらった。おかげでプレゼンの能力が鍛えられた。これが将来に営業で役に立つことになる。ほとんどはボツにされたが、何本かは社内で使うことができた。

自分で作ったプログラムの中で最も役に立ったのはお米のブレンドシュミレーションだ。在庫している原料を使ってブレンドをシュミレーションすることができる。原価を指定すると最善のブレンド方法を見つけてくれるプログラムだ。

お米のブレンドは組み合わせが重要で、原料の相性の良し悪しを知っている必要がある。無数にある組み合わせから、最適解を探し出すのが大変だった。経験と勘で最適解を見つけていたが、いつも正解とは限らなった。ならばパソコンに総当りで組み合わせを評価させれば、最適なブレンドが見つかるわけだ。

ブレンドの割合を1%ステップでシミュレーションすると膨大な計算が必要になる。10%ステップにしても、かなりの計算が必要だ。初期のプログラムは計算が終わるまで一晩かかった。寝てる間に計算させれば良いと考えたが、時間がかかり過ぎとダメ出しされた。ひたすら計算のスピードアップに挑戦して、30分程度で終わるところまで漕ぎ着くことができた。ようやく完成である。この他にも顧客管理システムや配送ルートの最適化システム等をプログラミングして社内で使った。

ボツに生ったプログラムもある。需要予測プログラムだ。このプログラムはパッケージの一部として製品化されていた。お米の消費パターンは一定のリズムがあることから、比較的予測しやすい。当初は購入周期の計算をしていたが、途中で他所の店で買われてしまうと正しく計算できない欠点があった。購入周期の計算は顧客別なので避けられなかった。これを全顧客の購入周期を使って計算の精度を高めた。いわゆるビックデータの活用である。

他所の店で買われても、ほぼ正確に予測できたが採用には至らなかった。理由は実にバカバカしい話で、高精度で予測できても無意味だと言う。それでパッケージの魅力が増すことはないと言い切られる始末。そこそこ当たれば充分らしい。製品化にあたって割り切りも必要だが、それで良いのかと納得いかなった。

この頃、オフィスコンピュータを入れ替えることになり、私は旧型を払い下げてもらった。オリベッティの人から個人でオフコンを持っているのは、あなたくらいだと言われてしまった。普通ならそうであろう。しかし、こんな高価なコンピュータは払い下げでもない限り個人で所有できない。このチャンスを逃したくなかった。

巨大なオフコンを自宅に運び込むのは大変だった。やっとの思いで運び込みセッティングを終えたまでは良かった。このオフコンは電気を盛大に消費する。会社の事務所でもブレーカーが落ちて騒いでいたのを思い出した。オフコンを稼働させる時は、電化製品すべてを止める必要があった。やはり、個人で所有するには大変な代物でだったのである。


Olivetti 2020 オフィスコンピュータ

略語解説
オフコン=オフィスコンピュータ
マイコン=マイクロコンピュータ
パソコン=パーソナルコンピュータ

会社からオフコンを払い下げてもらったわけだが、電気食い過ぎで満足に使えない。当然、発熱も凄いわけで実用性はまるでなかった。個人でオフコンを持つことはこう言うことなのだ。完全に宝の持ち腐れである。それでもPL/1の勉強はできた。色んなプログラミング言語を覚えたわけだが、コンピュータは理系の仕事ではないと思う。言語を覚えなければならず、これは文系の方があっていると思う。このミスマッチがコンピュータは難しいイメージを作ったのではないか。そう思うのである。

写真ではコンパクトに見えるが、実際はかなりデカい。本体の他に箪笥ほどのハードディスクもある。6畳の部屋はオフコンに占領されて狭くなってしまった。まるで6畳のコンピュータルームだ。普通の方がみたら絶句してしまうに違いない。言葉では表せない異様な雰囲気さえあった。常識はずれのオタク部屋と言う方が適切かもしれない。

オフコンと言うオモチャを手に入れて自己満足の世界に浸っていた。そこに運命を左右する出来事が発生した。パソコン通信との出会いである。パソコン通信は電話回線経由でパソコンとホストコンピュータを接続して情報交換をする。一種の情報ツールだが、双方向と言う点に置いて画期的である。情報を得るにはテレビやラジオ、紙のメディアしかなく、これらは受け取るだけの一方通行である。

パソコン通信を知って、時代が変わる予感がした。アルビン・トフラーの予言通りに情報化社会が訪れると確信した。いよいよ第三の波の到来である。パソコン通信を始めるために、パソコンとモデムを買い揃えた。この出費も良い投資になった。スキルアップの投資はするべきだ。

パソコン通信は面白い。連日、寝る時間を削ってホストコンピュータにアクセスした。ホストコンピュータを運営していたのは、テレビ局やデパート、出版社、大学が多かった。また、個人でホストコンピュータを運営する草の根BBSが多数存在した。既にこの頃から松坂屋等がECを始めていて、いつか私も参入したいとチャンスを待つことになる。

初期のパソコン通信の回線速度は150bpsと非常に遅かった。比べるものがなかったので、遅いとは感じずに時間がかかると感じていた。黎明期に入って300~1200bpsに向上したが、それでも今とは比べ物にならない遅さだ。どのくらいの遅さかと言うと、送られてくる文字が1文字ずつ確認できたほどで、次の文字を待つと言う感じだった。まさか1Gbpsの時代が来るなんて想像さえできなかった。

通信速度が遅いので長時間の接続にならざる得なく電話代が重い負担になった。市外通話になると接続をためらってしまう。この問題を解決するホスト局とユーザーを繋ぐ全国レベルのVANサービスが現れ、直ぐに契約したのは言うまでもない。経済的にとても助かった。インテックのTri-Pのことである。


EPSON PC-286L

この頃にメインで使っていたのはEPSONのPC-286Lだ。ラップトップパソコンで性能の割に安価。持ち運びには少し重いが機動性に優れていた。パソコンと言えば巨大なデスクトップしかなかったので、発売と同時に手に入れた。このラップトップパソコンは営業で大活躍することになる。

パソコン通信が始まってから少し経つと、コンピュータメーカーがパソコン通信サービスに乗り出した。大手商用ネットワーク時代の幕開けだ。
パソコン通信大手はNECのPC-VAN、富士通日と商岩井のNIFTY-Serveの2大巨頭に、日経等が後を追う形だった。NIFTY-ServeからアメリカのCompuServeに接続することもできた。これはNIFTY-ServeがCompuServeからライセンスを受けて開業したからだろう。PC-VANは当初は無料で直ぐに契約したが、従量制料金で割高になるNIFTY-Serveは躊躇ってしまった。

PC-VANにはクロード・チアリさんやマムシこと三木さんがSIGを開設していた。どちらも雲の上の存在だった。後に三木さんの編プロから仕事を請け負うことになるとは夢にも思わなった。PC-VANでの活動と言えばアスキーアートだ。ゆでたまごと名乗るライバルがいて作品を競い合った。お互いを尊重して作品を評価しあったのは楽しい思い出だ。漫画ユニットのゆでたまご氏と同じ人物かはわからない。

NIFTY-Serveは知人の中村氏に誘われて加入することになった。農と食フォーラムの運営を引き受けたので、私にも参加して欲しいと言う。中村氏は減農薬研究会を主宰し、私はそのメンバーの一人だった。中村氏は後に長崎大学の教授になる。彼の話は長くなるので別の機会にしょう。中村氏に誘われた農と食フォーラムだが、驚くことに放置状態にあった。管理者不在で荒れ放題になっていた。中村氏の姿はどこにもない。

私を含め3人の農と食フォーラムメンバーが、運営者の筑波大学の谷口教授のところへ行き、運営の権利を譲渡する交渉をした。運営する気がなかったようで、あっさり片付いた。中村氏の話によればNIFTY-Serveから農と食フォーラムの話を持ちかけられたようで、そんなに乗り気ではなかったようだ。こうして3人は運営を引き継いだ。

NIFTY-Serveのフォーラム運営はSYSOP(運営者)とSUBSYS(副運営者)、FREEFLAG(課金免除者)で構成される。SUBSYSとFREEFLAGの人数はフォーラムの規模で変わる。当初はメンバーが少ないのでSYSOP1名とSUBSYS1名でスタートした。年功序列で決めたので私は運営者ではない。その後、メンバー増えてからSUBSYSになった。実際に運営を支えたのは、何を隠そう私である。

農と食フォーラムの運営は簡単ではなかった。運営者3人の性格やスタンスが異なり、バランスすることもあれば歩み寄れないこともあった。私は様々な企画を立てて盛り上げた。また、わざと炎上する話題を出し、火消しを行うことを連発した。マッチポンプだと批判されたこともあったが、メンバーを増やして楽しませたのは疑いようのない事実である。メンバーの数はあっと言う間に1万人を超えている。

様々な企画を立てて実行したが、一番のヒットは「バケたん運動」であろう。私が主宰者となり農と食フォーラムのメンバーに参加を呼び掛けた。協力者たちは横浜に結集して、稲の育成マニュアルの製作や種もみの発送準備を手分けして行う。遠方は千葉や栃木、新潟から駆け付けたメンバーもいる。種もみは新潟のメンバーが無償で提供してくれた。これがバケたん運動の起点である。バケたん運動の活動の様子を見ていた新聞記者が取材を申し入れてきた。快く取材を受諾して1週間後には新聞記事になった。記事を見た他紙からも取材を受けて、バケたん運動は広く認知されることに成功した。


NEC PC-9801N

話は前後するが、バケたん運動を始める前に、私の呼びかけと新潟の農家のメンバーの協力でメンバーたちは田植えをしている。この頃に愛用していたパソコンはNECのPC-9801Nだ。NEC初の本格的なノートパソコンである。PC-286Lの重たさに辟易していた私は、PC-9801Nが発売されると直ぐに購入した。このノートパソコンは長期間活躍してくれた。公衆電話からアクセスするためにハンディカプラも購入しいる。ノートパソコンと一緒にアタッシュケースに入れて、営業ツールとしても活躍してくれた。

バケたん運動の快進撃は続く。しばらくしてテレビ朝日から電話が入る。クイズヒントでピントで取り上げたいと相談された。あの有名な番組が取り上げてくれるなんて信じられない。しかし、嘘や冗談ではなく本当の話だった。取材の日程を打ち合わせて農と食フォーラムのメンバーに報告した。メンバーたちは喜び大盛況になったのは言うまでもない。8月の夏盛りに取材を受けて放送されたのは9月の連休になった。ちょうど、放送日は新潟にメンバーが集まって稲刈りをする日だった。宿でテレビに釘付けになるメンバーがいれば、様子をチャットで実況報告するメンバーもいた。テレビに私が登場すると拍手喝采、大騒ぎである。チャットもこれまでにない盛り上がりを見せていた。

バケたん運動と田植え、稲刈りは私が呼び掛けた企画の中で大成功した事例である。この様子は私がライターとして日本農業新聞と月刊パソコン通信に記事を書いている。思い返すと私がライターになったのは、農と食フォーラムの活動がきっかけである。私が月刊パソコン通信の読者の友の会に参加した時、編集をしていた編集プロダクションのデスクから記事を書いてみないかと声をかけられた。農と食フォーラムの投稿で私の存在を知っていたらしい。偶然にも私が読者の友の会に参加したのでライターにスカウトしたわけだ。こうして偶然が重なってライターとして活動を始めることになったのだ。


NEC PC-9801FA

農と食フォーラムは私の人生を変えた。ライターデビューのきっかけを作ったからだ。だが、ライターの仕事は生易しいものではない。記事を書く仕事をもらう必要があるからだ。仕事を得る方法は2つある。編集部から執筆依頼を受ける方法。企画を作って提案して採用してもらう方法。受け身で仕事を待つか、自分から仕事を取りに行くか。どちらも簡単ではない。

執筆依頼は実績がないと難しい。編集部は実力を認めた人にしか仕事を与えないからだ。実績がないうちは簡単な記事を書かせて様子をみる。この仕事はテストを兼ねている。編集部が要求するレベルの記事を書けなければ次はない。テクニカル系の執筆は文章力はさほど求められない。その代わりに情報の質を要求する。文学的な文章よりも論文的な文章を求められるわけだ。毎回の執筆依頼がテストなので、駆け出しのうちは苦労する。実績ができるまでの苦労だが、評価されるような仕事をしないと次はない。執筆依頼はどのような理由があっても断れない。断るとあてにできないと判断されるからだ。

企画の持ち込みは誰でもやっているだろう。企画の提案が通れば仕事にありつける。企画書作りがキモになる。編集部に企画を持ち込んでプレゼンをする。簡単なようで難しい。私は企画もプレゼンも得意だったから提案が通ることが多かった。しかし、企画書は素晴らしいと褒められたが、納品した原稿はダメ出しされて何度も書き直しをさせられた。最初から良い仕事ができていたわけではない。厳しくダメだしされて腕を磨いたのである。どんなことでも同じだが、最初からできる人は少ない。失敗を重ねて成長する。私も失敗を重ねて成長したわけだ。決して天才でもなんでもない。失敗を怖れない努力家と言うだけだ。


98magazine最終号

月刊パソコン通信でライターデビューした頃に、出版社がパソコン通信のBBSを始めた。運営者を募集したので私は応募することにした。担当者と面接して音頭取りみたいな役割を与えられた。このことがきっかけになって98Magazinの読者の友の会にも参加するようになった。編集長から記事を書いてみないかと誘われた。月刊パソコン通信につづいて98Magazinでも記事を書くようになる。友の会には私の他にもライターが参加していた。彼からフリーランスとして独立を勧められたが、本業を捨てて独立することは出来なかった。本業で成功していたからだ。

本業の方では、ある作戦を密かに進めていた。神奈川県がネットワーク会社を作ると言う情報をキャッチした。神奈川県の第3セクター方式のネット会社の準備組織ができていて、BBSの運用を始めていた。早速、個人として会員になり管理者にアポを取った。管理者に交渉してBBSに自由に使えるエリアを確保することができた。準備組織とも連絡がつき、交渉を重ねた結果、ネット会社の創業に参加できることになった。

なぜ、創業に参加すること狙ったのか。この話は会社には内緒で進めていた。大きなプロジェクトの参加はリスクが伴う。今回は母体が神奈川県なので多少は安心できるが成功する保証はない。このような案件は必ず反対する者が出る。有無を言わさず会社に認めさせるには、引けない状態にしておく必要があったのだ。強引な方法だが、私の常套手段でもある。

第3セクターの創業に参加する狙いは、他社を排除することだ。私は第3セクターでEC事業を始めるつもりだった。同じようにライバルが参加すると競争が起こってしまい旨味が少なくなる。第3セクターの株主になって独占的に販売しようと考えた。この策略は成功した。ライバルから気付かれずに、創業に参加することができた。他社が参加すると株主の利益を損なうことになる。これで他社が真似をすることはできない。

神奈川県と話を付けた後、常務に根回しをした。上司を飛ばして常務に話をするのはルール違反だが、私は特別に認められていたのだ。計画を聞かされた常務は驚いていたが、直ぐに大手柄であることを認めてくれた。これで第3セクターに参加するプロジェクトを実行できる。ここからが正念場だ。

念願のEC事業は第3セクターで始める目処が立ったわけだが、同時に大規模なDX化を進めることにした。大きなきっかけがないと、DX化を進めることは難しいからだ。パソコンは絶対に必要なモノにして、パソコン嫌いの反対を封じ込める必要がある。反対の理由は、苦手だとか、根拠のない不要論だ。実にバカバカしい話である。EC事業はDX化の推進に大きなきっかけになった。

最初に自社に端末一式を揃えた。営業マン全員にノートパソコンとモデムを持たせた。EC事業に参加を希望するところにも端末一式を揃えてもらった。これでネットワーク化することができた。これらは取引先のNEC関連会社から安く提供してもらった。こうしてDX化は一気に進んだのである。当時、営業マンがネットワーク上でノートパソコンを使って仕事するスタイルは珍しかったはずだ。

強引に大金を使ってDX化を進めたため、「山本君はなんでも買ってもらえる」と言われてしまった。社内プロジェクトで実績を積み上げているから、好きなだけ予算がつく。これは私の特権である。しかし、こうした僻みのような不満は付きものだ。しばしばプロジェクトを進める障害になる。

第三セクターのネット会社は株式会社ケイネットとして誕生した。同時にEC事業も開店することができた。盛大なパーティが開かれて多くの来賓が集まった。報道機関もたくさん集まり取材対応に追われてしまった。お世話になっている月刊パソコン通信のデスクも来ていた。日刊の新聞は、翌日に月刊誌は次の発売日に記事が掲載された。このEC事業が注目された理由だが、取扱商品が米であったことによる。当時の食糧管理法は規制が厳しくて、EC事業は事実上不可能と思われていたからだ。

当時の食糧管理法は卸売業者のBtoC取引を禁止していた。販売エリアは隣接県までになっていた。ケイネットは神奈川県と東京都をエリアとしていたので販売エリアの問題はクリアできる。BtoC禁止をクリアする方法は法律の裏をかいた。つまり、卸売会社は小売店の依頼で販売の代行を行い、実際は小売店が販売するビジネスモデルを構築した。注文は卸売会社が取りまとめて、最寄りの小売店にメールで転送する方式を取ったのだ。このビジネスモデルは非常に強力な販促ツールになった。小売店にとってはEC事業に参加するとお客様を紹介してもらえるメリットがある。だが、参加を拒むとお客様を取られる可能性がある。どっちが得なのかは誰でもわかる。

ケイネット上で開店の翌日、神奈川県庁から呼び出された。同時にケイネットから神奈川県からサービス停止の命令が来たと連絡があった。ケイネットには問題はないと回答して、神奈川県庁へ急いで行って事情を聞いた。なんと食糧管理法違反だと言う。明らかに事実を誤認していた。丁寧に説明すると違反がないことに納得してくれた。ただ、法律にないことはしないでくれと懇願されてしまった。この誤った命令は常務の助言で神奈川県に対する貸しにしてある。未だに返してもらっていないが。

EC事業はパストラルネットとしてオープンした。ケイネットはNAPLPSによる画像が使えた。アニメーションも可能である。商品の説明にもってこいだった。他社のEC事業は文字情報だけだったので差別化することができた。かつて憧れていた松坂屋などを追い越すことができたのだ。長年、チャンスを伺っていただけに感無量だった。騒ぎもあったが他にはないEC事業を立ち上げることに成功した。まさに日本初のシステムだ。

念願のEC事業だったが、私は早々に手を引くことになる。ヘッドハンティングで転職することになったからだ。転職する前にリモートワークを行ったり、農と食フォーラムから脱退する等、色々なことがあったが別の機会にお話しよう。転職してからは本業の小売業と副業のライターの両方で多忙を極めることになる。しかし、ラッキーは長くは続かないものだ。本業は史上最悪の冷害のため、商品を仕入れることができず、仕事がなくなってしまった。このような変化があり、ライターとして食べていくことを決意した。ライター仲間からはやっぱり専業のライターになったかと冷やかされてしまう。人生何が起こるか分からない。ケイネットからはコミュニティをやらないかと誘われたが、将来性がないので丁重にお断りした。案の定、数年後にケイネットは撤退することになる。

専業ライターになったわけだが、収入のわりには買い揃えるものが多くて苦労した。パソコンは日進月歩の勢いで進化していたからだ。次々と新しいハードが出てくる。特にCPUの進化が目覚ましかった。1年に何回もパソコンを買い替えなくてはならない。それに伴って勉強することも欠かせなかった。新しい技術が出るたびに学ぶ必要があったのだ。ここで後れを取ると仕事を失ってしまう。


IBM アプティバ

パソコンはPC-9801の時代からDOS/Vの時代に変わりつつあった。パーツを集めて容易に自作できたので、パソコン制作の記事や書籍の仕事がたくさんあった。変革はパソコンのハードだけでなく、パソコン通信からインターネットへとインフラも変わりつつあった。激動の時代の幕開けだ。この頃に使っていたのはEPSONのPC-486GFやIBMのアプティバなどである。自作のDOS/Vパソコンも使っていた。流行の最先端を追いかけなくてはいけないので、部屋中がパソコンだらけになってしまった。


98MATE X超パワーアップ講座

劣勢になった98MATE Xシリーズを改造してパワーアップすることが流行した。IO DATAとMELCOが競い合って改造パーツを開発した影響も大きい。私は書籍を出版して儲けさせていただいた。 激しさを増すパソコンの流れは、最終的にDOS/Vパソコンに軍配が上がり、PC-9801シリーズはフェイドアウトすることになる。

OSもMS-DOSの時代が終わり、Windows3.0からWindows3.1に変わり、Windows95が登場して落ち着いた。IBMのOS/2も健闘したがWindowsには勝てなかった。最終的にDOS/VパソコンにWindows95を使う人が大多数を占めるようになった。やはり、NECがアーキテクチュアを公開して自由に周辺機器を作らせて成功したように、DOS/Vが開かれたアーキテクチュアであったことが勝利の決め手になったと思われる。


マザーボードのすべて

パソコンのハードウェアは著しく性能を上げた。特にCPUとマザーボードは毎月のように新製品が出て、買い替えるのも追いつかなくなってしまった。「マザーボードのすべて」と言うムックを執筆したほどだ。光学装置もCD-ROMからDVD-ROMが主流になり、パソコンでDVDビデオを楽しむ人も多かった。さらにサウンドカードも様々な製品が発売され、プロ用のオーディオカードも手に入るようになった。デジタルビデオの編集もパソコンで可能になり、マルチメディア系に強い私は仕事がたくさん舞い込んできた。毎日のように違うスペックのパソコンを作っていた記憶がある。何台のパソコンを作ったのか覚えていないくらいだ。


CD-Rの焼き方シリーズ

ハードウェアが激しく移り変わる頃、私はハードウェアやOSに強いライターからマルチメディアに強いライターに看板を変えた。オーディオ雑誌もレギュラーで仕事をするようになり、ライターからオーディオ評論家として認識されるようになった時期である。CD-Rの焼き方シリーズは、マルチメディア部門でベストテンにランクインした。ライター兼オーディオ評論家のポジションを確かなものにしている。

小学館サウンドパル


ワークステーション

最近は署名記事や単行本を出すことはなくなった。色々あって名前が出ることを嫌うようになったからだ。秘密厳守のゴーストライターの方が気楽でいい。たまに誰の代筆をしたか言いたくなる衝動を抑えるのに苦労する。ライター以外の仕事もしているので、あまり名前が出ない方が良かったりする。現在、私が使っているのはパソコンではなくワークステーションである。もっともビジネスに特化したパソコンと変わらないが。ワークステーションを使う理由は、重要なデータ処理を行うので堅牢なマシンが必要になったからだ。

ここ数年はパソコンをクラスタ化してスーパーコンピュータにする実験を行ったりしている。成功したらビットコインのマイニングしようかと思ったが、なかなか思い通りの性能が出せないでいる。普通の人から見たらキチガイとしか思えない領域に踏み込んでしまった。いわゆる廃人である。そのうちに量子コンピュータに手を出しそうだ。

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