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朝に体を起こすとギチギチに固まってたり、ブランコに乗ると酔ったりするようになった。
はたまた「えーと、ほらほらあの人…ピアノを弾く、えーと」と延々に名前が出てこなかったり、公園を駆け回る子供たちから、ほとばしる若々しさを感じた時などに時間が経ったと思う。

著名人が高齢で亡くなったニュースを見て、年齢に驚きながらも、そりゃそうかと当たり前のことに気がつく。

お店の方が高齢になられて閉店するという張り紙を見ても同じように思う。

それが通っていたお店で、閉店のお知らせを知る場合と、いつの間にか閉店していた場合があるが、後者の方が言葉にできない感情がやってくる。
この前は「永遠に続く愛もないもんね」と謎のワードが頭をよぎった。

掘り下げて考えてみたら、毎日行っていたわけでもなく、年数回のような気もする。しかし行けば何かしらを買ってたわけで、あぁ面白いお店だったんだなぁと思う。

店にとっては太客ではないが、ふらっと寄って、ぼーっとした買い物が出来るお店がたくさんあることが楽しい。

循環していくものだと理解しつつも、自分の過ごした時間が泡のようになった気がして、どこかから寂しさが漂ってくる。

しかし過去と遠い未来の語法が同じで、
現在にある、または ない の視点でみると、現在しか生きていない。

過去となった、あの現在を楽しく過ごせたことが豊かなことだった。

つまらないなら楽しいことを探すしかあるまいと、町をぶらついて楽しいお店を見つけたい。

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