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健全な自殺

私はあるスペインの詩人について次のような話を聞いた。彼は病気にかかり、そしてそれは回復したものの、彼は自分の過去の生活をすっかり忘れきって、自分が以前作った物語や悲劇を自分の作と信じなかったというのである。

エチカ 第4部

 スピノザは「人間身体が死骸に変化した場合に限って死んだのだと認めなければならないいかなる理由も存しない」と断り、人間の本性が過去の本性と全く異なりうる例を挙げていた。私が大学初年級から抱いていた「健全な自殺」の観念が、具体例に化けて眼前に現れたような気がして、少し立ち止まらざるを得なかった。

 幼気な子供は別の人間どころか、別種の生き物だと思っていいほど、我々の本性と異なった性格をしている。自分の幼いころと、成人後の自分を見比べてみて、驚くべき自我の変貌に気が付く。だから私は死んだことがあるのだろうかと言えば、明らかに否だろう。自我は明らかに連続していて、時間軸上どこの各点を取っても身体が何かしらの活動を続けているから。私はこの点、スピノザの主張をおいそれと受け入れられない。

 一方で、時間軸上のメッシュを粗くすると、隣接する点との間で自我が大きく変容していることがある。この変容を私は是として受け入れ、ポリシーとしてきたわけだが、スピノザは、この粗い時間軸で見た時の劇的な本性変化を死と呼んでも良いはずだと言っている。

 例えば、修士課程入学から一年以上を経て、またもや自我の劇的な変容に直面することになった。科学に埋没してみたことで見えてきた予想外の風景を、私は如何ともしがたい。現役の物理学者と一緒に仕事をしてみて、科学に携わることがこうも際限のない苦痛を伴うものなのかと少なからず動揺している。「案ずるより産むが易し」とは歴史の長い諺だそうだが、産むのに多大な思案を必要としなかった運のよい人間が発明したのだろう。しかし物理学に本気で取り組んだことで得られた知識、技術や価値観などが、こうした苦痛と共に流れ込んできて、自己の本性を大いに変化させてしまった。私にとって、これは健全な自殺に他ならないのであり、喜ばしい出来事だったのである。

 では、盲目的に現在の自分を滅ぼすべき存在と認め、新しい自分を構築すべく躍起になる態度は、常に正しいのであろうか。健全な自殺との向き合い方の見直しが迫られている気もする。「健全な自殺」などという飾りを着せるのをやめるのが、最後の自殺の形かもしれない。しかし大事なこととして、私はゴールを設定しないのである。設定したゴールを打ち壊すのがゴールである……この再帰が上手く機能している間は、私も元気なのだと思う。

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