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勇気とヒカリについて。

勇気とは。

自分自身の醜さに目を背けない勇気。
深い外傷が傷跡として残るように、己の醜さはかつて深く傷ついた経験が元になっているといえます。



見つめてみたら、その穢れは傷であるとわかります。
しかし、それも目を逸らさなければわからないことです。
醜さや傷が見えにくく深いところにあるなら、そこを照らさなければ気づくことができません。
光をもって照らす。醜さに向き合う勇気とは、自身の光から生み出されます。
大切なのは、暗いところは、同じ場所にある光で照らされるということです。
つまり、己の中に傷があるなら、己の中の光でしか、それを照らし出すことはできないのです。
光とは。どこかの場所にいて灯されるものではなく、誰かによって与えられるものではなく、全ての人が等しく持って生まれたものです。
生命の源であり、生きる希望です。
だから、ここにいるから私は安全だとか、これをしているから私は安心だとかいう思いは欺瞞なのです。
傷を照らす光とは、決して外部から与えられるものではないのです。
なぜなら、自分の内側以外のものは全て、内側から生れ出た結果だからです。
結果で原因は変えられません。
内側が何であるかを知ることで、勇気を呼び覚ますことができるのです。
醜さに向き合うのに一人では不安なら、誰かと支えあうこともよいでしょう。傷ついた経験のない人はいないから、それをきっかけに繋がりを持つことは自然なことです。
一人で抱えきれないと感じるなら、セラピストやカウンセラーなど専門機関に頼ることも大切でしょう。
けれど始まりは、一人ではなくても、いつか繋がりを放すことが必要です。
勇気をもって醜さと向き合う、それは、その人自身にしかできないことです。
セラピストもそのことを承知で、その人自身が己と対峙するときには、離れる勇気を持つことです。
互いに励ましあい、支えあうことはできても、その人の代わりになることはできません。
すがりあう関係は、単なる傷のなめあいで、何も生みださない。
その人自身の内側で起こることを、誰も知ることはできないのだから、わたしはあなたのことをわかっていると思うのは奢りです。
傷と向き合う時、人は孤独です。
実際のところ、そうでなくても人は、肉体を持つ限り孤独です。
けれど、その人自身が己と向き合い、己に気づくことで、外側の世界は大きく変わります。
外側の世界とは、果てがありません。
やがて宇宙にまで至り、そしてまた宇宙から、新しい生命が誕生します。
それが生命の循環であり、わたしたちが肉体をもって生きている証です。
孤独であるからこそ、他者を、そして己を愛おしむことができるのです。
己の傷に向き合うことこそ、他者と己を愛することです。
他者と己が違うことを経験するからこそ、それぞれがもつ光の輝きを知り、そしてその光は全てに分け隔てなく与えられている事を知り、根本を流れるつながりを知るのです。
わたしたちは肉体をもって、わたしたちを愛するために生きているのです。


文責:たまねきP

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