見出し画像

無条件の愛と条件付きの愛

今、進められているのは、社会の担い手である大人の意識改革です。

赤ちゃん時代についた傷によって、いつか自分を縛り、限界のある世界で生きていくことになる。
この縛りをなくすことは、できるでしょうか。




可能です。
それは、この社会を担う大人たちが、自分には傷があると自覚すること、そして、自分の行いは条件付きの愛であると気づくことから、始まります。
この肉体ある三次元に愛を形にするのは行為ですが、行為の始まりは意志であり、その意志として方向性を定めることが、条件となるのです。
肉体を生きる限り、無条件の愛をあらわすことは、ほぼ不可能です。
母性愛は無条件の愛というのは、幻想なのです。
そのことに気付き、自分が定めた条件という縛りは何かを常に注視して改め、限りなく無条件にちかづけていくことです。
私たち大人も赤ちゃんだったので、その縛りは赤ちゃんの頃に受け取った条件付きの愛が元になっています。
ほとんどが。

でも、わたしたちはもう赤ちゃんではないし、誰かの手を借りなければ生きていけない、か弱き存在でもありません。
個人として立つ、一人の大人です。
与えられたものを捨てることもできるのです。
知っていますか?
その条件を受け入れたとき、それを縛りとしてこころに置いてしまうのは自分自身なのです。
赤ちゃんの頃の原初的な傷を、成長の中で体験として繰り返し、強化してしまうのです。
それは、個性ではありません。個性を隠す傷のかさぶたです。
だから、傷を癒やすことです。
傷を癒やす過程で、大人からの条件付きの愛に失望したわたしに気付き、幼い私を好き勝手した相手に対する怒りが溢れ、それを味わい尽くしたとき、冷静に、その相手の姿が作り物に見えるでしょう。
その作り物の中身は、わたし自身です。
わたしは、いつしかわたし自身を縛り、わたし自身を憎んできたのです。
条件付きの愛は、与えられるものではなく、繰り返すものになってたのです。
もう、かつての大人はどこにもいない。作ってきた縛りも、どこにもない。

わたししか、そこにはいない。

ならば、わたしを愛する。自由にしてあげる。
肉体は制限があるけれど、精神はどこまでも自由です。
全て許し、全て癒やし、全て愛し…。

そうすれば、無条件の愛とは、誰かから与えられるものでなく、自分自身が本来持っているもので、それを捧げる先は、わたし自身に他ならないとわかるでしょう。
自身が無条件の愛で満たされたら、本来持ってた個性が輝き出します。
無条件の愛による創造です。

人に向ける愛は行為だから条件付きになる。
自身へ向ける愛は意識だから無条件になる。
ただ、自身の行為へと現れるときも、条件付きになりますから、何を条件としたのか注視する必要があります。
無条件の愛による創造が現れるまでは、無理なく何もせずにいられたら、それが最善といえるかもしれません。

そうして、無条件の愛で自身を包んでいる大人から育つ子どもは、そのことを学べるでしょう。
創造的に行為し、無条件の愛を意識として、常に自身を満たせば家族へ、地域へ、社会へと。
無限に広がっていくのです。

何をしても、何をしなくても、自由です。
それを知っている大人が中心となれば、この社会は大きく変わります。
まずは、傷を癒やすことからです。


文責:たまねぎP

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?