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サンリオのピカレスク映画「ユニコ 魔法の島へ」 魔法使いククルックの強烈なインパクトとみじめな末路


サンリオのアニメ映画「ユニコ 魔法の島へ」に登場する悪の魔法使いククルックの魅力と、彼に共感してしまった話です。
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最初はいわゆる「サンリオアニメ」のお勉強のつもりだった

アニメ「おねがいマイメロディ」(2005-)はブラックジョークを多分に含んだ内容で、それまでのサンリオのイメージを大きく変えた。以降アニメオタクの間ではサンリオアニメ=「女児アニメの異端」「カオスアニメ」というイメージが一般的となっている。

……では、それ以前のサンリオアニメはというと、あまり語られることがない。

私自身も「おねメロ」以前の作品はほぼ触れたことがなかった。それが上記のnoteがいい刺激となって、アレコレ触れてみている。「サンリオアニメ」好きとしてその前史を履修しておく、くらいの気持ちでいた。

そんなお勉強気分を吹き飛ばしたのが「ユニコ 魔法の島へ」(1983)だった。

そもそも「ユニコ 魔法の島へ」って?

ユニコ(cv.三輪勝恵)は自分を愛してくれた人たちに幸せをもたらすユニコーンの子供だ。生みの親は手塚治虫。元々はサンリオの漫画雑誌「リリカ」に連載されていたもので、「魔法の島へ」は「ユニコ」の映画化第二弾となっている。

あらすじはこうだ。ユニコはある村でチェリー(cv.島本須美)という少女に拾われる。彼女の家にはチェリーの他に年老いた両親だけ。兄が一人いたが、質素な暮らしに嫌気が差して家を飛び出し、今は行方が知れない。その名はトルビー(cv.池田秀一)。彼は魔法による幸せを求め、魔法使いククルック(cv.常田富士男)に弟子入りしていたのだった。人間や動物を生き人形に変えては自分の城の建築資材として使う(!)ククルックに、ユニコは立ち向かうことに……。

ユニコとタイトルにあるが、この映画の実質的な主役はチェリー……でもトルビー……でもなく、ククルックだ。

悪の魔法使いククルックの不気味かつポップな魅力


ククルックは元々、人形劇団で悪役ばかりを演じる人形だった。それが操り糸がこんがらがって面倒になった人間に捨てられ、やがて自我と魔法の力を得る。悪に凝り固まった魔法使いは、人間への復讐を志すようになった。

「昔は人を脅したり気味悪がられたり怖がられたり嫌がられたものだよ」
「あたしが悪いことをすればするほど、みんなに喜ばれたものだよ」
「あの頃は楽しかったよ」
「それなのに人間どもはあたしを捨てたんだよ」

まんまるい胴体に枯れた枝のような細い腕、ぎょろついた眼。ユーモラスとも言えるフォルムが回転したり膨張したり収縮したり。すごい速さで空を飛び回り、指先から放たれる光線は相手を物言わぬ人形に変えてしまう。

およそ兵器とも戦闘者とも似つかわしくないフォルムが縦横無尽に変形するさまは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の第6使徒(ラミエル)のようであり、ユニコとのスピード感溢れるドッグファイトはファンタジーというよりロボットものやスペオペのようでもあり。チェリーもトルビーも生き人形に変え最後に残ったユニコを執拗に追い詰める展開は、「のび太の魔界大冒険」のメドゥーサを連想したりもした。

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子供の頃にこの映画を観てトラウマになった人もいるようだ。愛らしいユニコとは対称的に不気味かつポップな存在感は主役を完全に喰っている。とにかく個性が強すぎてなんなら来年からでもサンリオキャラクター大賞にノミネートしてみてほしいし、人気が確認できたら立体化して各種ギミックを再現してほしさもある。

壮絶でみじめで滑稽な結末


悪の魔法使いは散り様まで壮絶。戦いの果て、たった今胴体ど真ん中を貫いたククルックに、ユニコは申し訳なさそうに声をかける。「ごめんね、ちょっと触っただけなんだよ。大丈夫?」元々仁獣であるユニコーンのこと、本気で戦ってはいなかったのだという(でも隙を見つけて「もらった!」は殺意マンマンすぎると思う)。

「だって、あんたが可哀想だもの」
「うん。よいことを一度もしたことがないなんて、可哀想だよそんなの」
「それじゃお友達はできないよ。ククルックさんは悪いことばかりしているもの」
「僕、お友達欲しい時あるもの。だから分かるんだ」

ユニコには他意はない。だからこそ、その言葉はククルックを苦しめる。いかにも無垢な存在がこんな自分の気持を訳知り顔で語る。これに激怒せずにいられようか。

アニメーターの筆は、縦横無尽に暴れ回っていた時と同様か、それ以上に執拗にククルックを七転八倒させる。その様はあまりにみじめで、滑稽だ。

「僕、分かるような気がするんだ。ククルックさんは寂しいんだ。うん。あんまり寂しいと、悪いことしたくなる時あるもの。そういう時あるもの」

反省を促し、善行を積むように言うユニコ。だがククルックの自我は憎しみで凝り固まっている。存在の根っこに憎悪がある。悪を否定するのはすなわち自分を否定することに他ならない。

「人を恨むのがあたしの生きがいなのに、それなのに……」
「憎しみが溶けてしまう……恨みがしぼんでしまう……わたしも……しぼんで……しまう……わたしの……負けだよ……」

主人の末期の言葉と共に、魔法で作られた城は崩壊していく。瓦礫と共に落ちていくさなか、ククルックは憎悪=自我を失い、ただの人形として海に沈んでいった……。

ラストシーンで元の姿に戻ったチェリーは、ククルックの人形を拾い、胸に抱く。これは魔法使いにとって救いなのだろう、きっと。だが私にはユニコの言葉にもがき苦しむ姿のインパクトが強すぎて、到底そうは見えなかった。結局、魔法使いは負けを認めはしても「よいこと」を為そうとはしなかったのだ。

ククルックの最後を見つめるユニコの表情は、訳が分からなくてぽかんとしているようにも自分が招いた結末に苦い顔をしているようにも映る。

サンリオ作品としての「ユニコ 魔法の島へ」


サンリオの作品として考えると。これまで見てきたサンリオキャラは私たちのよき隣人だった。彼らは人間に優しく寄り添ってくれる。自己犠牲も厭わない奉仕者として、対等な友達として、時には助言者としてこちらが間違いを犯したらたしなめてくれる。

また近年のガンダムとのコラボアニメでキティがそうであったように、基本的に争いを好まず、平和を模索し続けている。

ユニコ自身は手塚原作ではあるものの――『手塚治虫シナリオ集』に収録された手塚による本作のシノプシス(プロット)を読んだが、ククルックが正真正銘の人間だったりラストは生きたまま救われたり、アニメ本編とは大きく違っていた――そういうサンリオの方針のど真ん中にいるキャラだ。

だが、そんなユニコの光がかえって毒になる。憎悪だけを糧としてきた自我は優しさを受け入れれば死ぬしかない。「おねメロ」のクロミ様や「ミュークルドリーミー」のゆに様みたいな愛される悪役には、ククルックは絶対になれない。私は本作をそういった絶望を描いたアニメとして受け取った。

……それはきっと、チェリーに嫌がられて狂喜乱舞する魔法使いにどこか共感してしまったからだろう。

「言ってもいいかしら、怖がられて喜ぶなんて、嫌な性格だと思うわそんなの」
「やめて下さい、失礼だと思うけど気持ち悪いわ」

島本須美の澄んだ声でこうも痛烈に拒絶されて、喜ばないオタクがどれだけいるだろう。そんなねじくれた気持ちが確かにある。あくまで人間を模した存在として生まれたククルックは、あの瞬間、確かに私たちそのものだった。

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