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私はカラオケで初めて好きな曲の歌詞と向き合う

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近所のカラオケ屋が営業再開したので、久しぶりにヒトカラしに行く。
この二ヶ月はずっとマスクしてて、無意識に口の動きが縮こまってるようなところがあったので、めいっぱい口を開いて大きな声を出せるのはめちゃ爽快。約二時間。溜まりに溜まっていた鬱屈した気持ちが少し晴れた。

と同時に、自分が音楽を楽しむにあたりカラオケでその曲を歌うのは欠かせない過程なのだと改めて認識できた。

好きな歌とそうでもない歌を選り分ける際、どこに重きを置くか。
メロディーを追う/リズムに乗る/ぶちあがるのを楽しむ派と歌詞を重視する派に分けるなら、自分は間違いなく前者だ。
ボーカルは、ギターやドラムが奏でるのと同様音の連なりを生むもので、その音は確かに日本語(英語でもサンスクリット語でもなんでもいいけど)の形をとっているけれど、一つ一つのフレーズは印象に残るものもあるけど、一曲の総体として何を言っているのかは掴めない。

私にとって歌とはおおむね、小説を読んだり勉強したり電車に揺られたり、そんな時自然と隣に寄り添っていてくれるもので。そうした「ながら聞き」の環境的にも歌詞自体に意味を求めることはない。
懐かしのあの曲を思い出す時脳裏によぎるのは歌詞ではなく、それをヘビロテしてた頃の自分の生活だ。

また「ながら聞き」以外――たとえばライブの生歌でも、歌詞が頭に入ってこないのは変わらない。多分自分の脳の構造が、耳から入ってくる言語情報をうまく咀嚼できないようになってるんだろう(大雑把

メロディーを追って、リズムに乗って、爆上げして、ながら聞きして、歌詞を意識せず。それは何も悪いことではない。
でも楽しみ方が多いに越したことはない。歌詞で音楽を聞きたいと思うこともある。それが好きと言いたい曲ならばなおさら。
といって、たとえばライナーノーツに書かれた歌詞を読みながら聞いてみても、「勉強してる」感が強くてなんか違うな、という気持ちがずっと拭えないでいた。

カラオケはそんな私の味方だ。カラオケで歌う時だけは歌詞の意味を全く理解できているような気がする……これはもちろん錯覚なんだけど。
好きな小説の文章を写経したり、イラストを模写したり。そうした手法で対象への理解を深める人は多いようで、私にとってのカラオケもそれに近いのかもしれない。
モニターに表示される歌詞を追い、バックサウンドに合わせて自分の喉で音を発する。本家のイメージを先生に、リズムや抑揚について試行錯誤する。言葉を解釈する。

一種の二次創作……というのはさすがにおこがましいけれど、歌に対する能動的な行為の中に、「あ、この歌詞ってこういう意味だったのか」という気づきが生まれる。

私はこれでもかってくらい音痴だけど、歌の上手い下手は関係ない。気持ちよく歌えればそれで……いや関係なくはないかもしれないけど――まあでもやっぱり上手いに越したことはないのかな。
でも大切なのはきっと、歌う以外することがない場所で一人きり歌詞と向き合うことなんだろう。
そしてそうした経験を経た後では、本家の歌が一層味わい深く聴こえてくるのだ。

だから、カラオケはストレス発散になるし、友人知人と行って上手い人の歌を聞くのも楽しいけど、私にとっては歌詞と自分とを繋げてくれる大切な場所なんだ、という話でした。
願わくば、あの地下アイドルやあのvtuberの曲がカラオケでもっと配信されますように

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