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弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く

小学校低学年のころ、帰宅途中の路上で、よく中学生に殴られた。
 
相手のことは全く知らないし、何が原因で殴られはじめたのか分からない。自転車で追いかけられて、壁際や民家の庭の奥などに追い詰められ、泣くまでビンタをされる。そんなことが何度もあった。僕はただ怖く、相手が早く満足して立ち去ってくれるのを待つしかなかった。
 
あのとき、どうして誰かに相談しなかったのだろうか?なにか打つ手はあったはずだ。けれど、当時の僕は母親にも話せなかった。そんなことをされて泣いているだけの自分を知られるのが恥ずかしかったから。実際に話したところで、取り合ってもらえないとも感じていた。共働きで「早く、早く」が口ぐせだった親に対して、どう切り出せばいいのか……。いまそのときの自分に戻ったとしても、きっと言い出せないと想う。

でも、状況は相手の中学生も同じだったのではないか、と最近感じている。面長で、メガネをかけ、ひょろっとした体型は、見るからに気弱そうだった。おそらく彼は学校でいじめられていたのだ。その憂さを、圧倒的な力の差を誇示できる相手に対して晴らしていたのだ。そのターゲットが、たまたま僕だったというだけなのだろう。

「弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。その音が響き渡れば、ブルースは加速していく」

ザ・ブルーハーツは「TRAIN-TRAIN」でこう歌っていたが、そのままの構図が当てはまる。

その中学生に対していま感じるのは、怒りや恐怖ではなく、同情だ。きっと彼も、誰かに話を聴いてもらいたかったのではないか。恥ずかしさや、やるせない気持ちを、そのまま受けいれてくれる誰かに思う存分聴いてもらって、抱えているものを放ちたかったはずだ。でも、そうする相手がいなかった。学校にも、家庭にも。やり場のない思いを抱えきれなくなって、彼はブルースを加速させてしまったのだ。

田舎の子どもたちの、まったくとるに足らない話。だけど、世の中で起きる多くのトラブルの本質には、同じ原因があるような気がしている。

「あのとき、聴いてくれる誰かがいたなら……」

「聴す」と書いて、「ゆるす」とも読む。

何の価値判断もなく、ただ静かに言葉と心に耳を澄ましてくれる存在がいるだけで、どれだけ生きやすくなるだろう。悲しみや怒りや恐怖を外側に向けることなく、放ち、ゆるし、穏やかに昇華することができれば、どれだけ柔らかな社会になっていくだろう。
「聴く」という時間と空間を、この世界にもっと。

そう願っています。


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