「聴く」と、人間の尊厳について
「家族のもんはうるさがって、だあれも話を聴いてくれんのよ」
その高齢の男性は、はにかみながらそう話しはじめました。
「だから、あんたなら聴いてくれるんじゃないかと思ってのお」
15年ほど前、新聞社の支局にいた僕は取材依頼の電話を受けて、ある民家におじゃましました。80代の男性。戦後、シベリアでの抑留体験をお持ちでした。
「わしは孫たちに伝えておきたいと思うんじゃが、みんなうるさがって聴いてくれんのじゃ。新聞記者さんなら、なんとか後の世に残してくれるんじゃないかと思ったんじゃが」
そこから3時間近く、僕はおじいさんの話を聴きました。記憶が曖昧な部分もあり、話は前後しがちで、頭のなかで整理するのに少し手こずったものの、その方の壮絶な体験と、「記録し、伝えていかなければいけない」というある種の使命感のようなものは明確に理解できました。
伝えたくても、聴いてくれる人がいない。先日紹介した小さな離島の女性とは違い、この男性の場合は話す相手はいても、取り合ってもらえないのです。いったいどれほど辛く、寂しく、無念なことだろう……。取材中、男性の胸中を察するたびに、居たたまれない想いにかられました。
居たたまれない想い。
それは、男性を目の前にして、僕自身の記憶が甦ってきたからでもあります。
***
僕の祖父は戦時中、東南アジアの島に出兵していました。その当時の話を、祖父は何度か僕に伝えようとしていました。ジャングルのなかに身を潜めているときに爆撃され、隣にいた兵士が吹き飛んだ……といった内容です。
でも、ほとんど憶えていません。なぜなら、全然聴いていなかったからです。当時中学生だった僕は、あからさまに退屈な表情をし、「興味がない」というメッセージを全身から発していました。
祖父は数年後に認知症となり、その話を伝えることもできなくなりました。妄想がひどくなり、徘徊しているところを何度か連れ帰ったこともあります。その都度、僕は祖父を怒鳴っていました。「いいかげんにしろ」とか、「訳分かんないこと言うな」とか……
僕は一度でも、祖父の話を真剣に聴いたことがあるのだろうか。
それどころか、ほとんど耳を貸すことなく、最期まで過ごしたのではないか……
伝えたいのに聴いてくれない、耳を貸さない。
それは、祖父にとって尊厳を踏みにじられるに等しい行為だったはずだと、いまになって感じています。いまさら悔やんだところで、どうしようもないのだけれど。
***
話を聴かない、聴けない、聴く気がない。
これらはすべて、相手の尊厳を深く傷つけてしまいます。
そう言うと大げさに響くかもしれません。でも、自分がそうされた場合、どう感じるかを想像してみるとすぐに分かるはずです。
ところが、こうした「尊厳の無視」「尊厳の破壊」は、僕と祖父のケースに限らず、日常で頻繁に発生しています。上司と部下、先輩と後輩、親と子、または子と親……。そうした関係性を放置すれば、僕の場合のように後悔しか残らない、永遠に取り返しの付かない事態に陥ってしまいます。
原因は、「聴く」ことに対する意識の薄さにあります。反対に、意識的に「聴こうとする」なら、相手の心を開いたり、重荷をすこし軽くしてあげたり。生きる希望のきっかけになる可能性さえあります。
尊厳を基に、話を聴く、聴いてもらう。そんな日常が広がることを願っています。
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